ヒア・カムズ・ザ・サン

「合宿?」

 梅雨が明けるにはまだ早い、六月の中旬から下旬に差し掛かるころ。昼休み、江ちゃんに誘われて屋上で一緒にお昼ご飯を食べていた時のことだ。

「そう! 予算が足りないけどどうしても合宿をしたくて、そこで! 船で無人島まで行って、海で合宿することになったの」
「ええっ!? 危険じゃない? 大丈夫?」

 江ちゃんは当たり前のようにさらっと言ったけれど、海で合宿だなんて、真っ先に危ないと思ってしまった。この岩鳶町は漁業が盛んで、歩いて行ける距離で港もある。港のある道を通ると、これから漁に向かう船や帰ってくる船を見掛けることもあって、そんな風景は日常となっている。
 けれど、私がまだ幼かった頃。こののどかな町でも、波が高くなって船が遭難して、死者が出たことがある。きっと、私が生まれる前にもあって、私が知らないだけで『そういうこと』はたくさんあったのだと思う。まさか水泳部の皆が水難事故に遭うとは思えないけれど、でも、心配はする。

「ふふっ。悠ちゃん、怜くんのことが心配なの?」
「えっ、いや、なんでそこで竜ヶ崎くんが出てくるの!?」
「冗談冗談。……まあ、心配になる気持ちも分かるけど、浅瀬だし大丈夫よ」

 ここは江ちゃんの言葉を信じよう。素人の私より、部員の皆や、マネージャーとしての仕事をしっかりこなしている江ちゃんの方が、知識は長けている。

「大丈夫ならいいけど、気を付けてね。皆も、江ちゃんも」
「あたしは海に入らないから大丈夫よ。それよりも」
「えっ、何!?」

 再びお弁当に箸を付けようとしたら、江ちゃんが突然私の顔を覗き込んで来て、びっくりして少し仰け反ってしまった。私を見つめる江ちゃんの瞳はきらきらと輝いている。良いことを思い付いた、あるいは以前から計画していたことを打ち明けるかのように見えた。なんとなくそう感じただけなのだけれど、たぶん、当たっていると思う。

「悠ちゃんも合宿、行きましょ!」

 やっぱり。
 ただ、なんとなく想像はついていたから驚きはしなかった。合宿の話をするだけならメールで済むのに、わざわざお昼に誘って二人きりで話すということは、何らかのお願いごとがあるからだ。顔の見えないメールより、直接対面で話したほうが、うまく話が進むことも多いと思うし。
 そんな風に思ってしまうのは、私自身、江ちゃんの押しと笑顔に弱いという自覚があるからだろうか。

「バイトの都合もあるだろうし、無理にとは言わないけれど」
「日にちが分からないと何とも言えないかな……」
「えっ!? ということは悠ちゃん、それって日程さえ合えばOKってこと!?」

 江ちゃんはてっきり断られると思っていたらしい。驚きと嬉しさに満ち溢れた歓喜の表情を浮かべていて、その明るい笑顔を見ると、断れない……というか、バイトや先に入っている予定さえなければ断る理由もないのだけれど。

 江ちゃんの問いにこくりと頷くと、突然抱き着かれて危うくお弁当を落としそうになってしまった。

「悠ちゃん、なんていい子なの〜」
「江ちゃん落ち着いて! だから日にちが分からないと何とも……」
「来週の土日よ!」

 バイトのシフトは一週間ごとに出るようになっていて、希望休は期日までに申請すれば融通が利く。来週の土日なら、今日申請すれば間に合う。なんというタイミングだ。

「あっ、でも悠ちゃん、喫茶店だと土日って稼ぎ時よね!? ごめん、急過ぎたわ。断られて当たり前だと思ってるから、今の話は忘れ――」
「ううん、大丈夫だよ。今日休みの申請をすれば間に合うから。今日言ってくれて良かった、明日だったら間に合わなかったよ」
「悠ちゃん……!!」
「江ちゃん、く、苦しい」

 更にぎゅうと強く抱き締められて、さすがに少し胸が苦しくなってきた。というか、教室ではなく屋上とはいえ、私たち以外にも生徒がいるので、視線を感じる。女子二人で一体何をやっているのか……と呆れているという所だろう。
 江ちゃんは漸く私を解放すると、照れくさそうに頬を染めて微笑んでみせた。

「まさかこんなにあっさりOKしてくれると思わなかったから、つい」
「むしろ、誘ってくれてありがとう。なんだか宿泊学習みたいでわくわくするね。あ、いや、合宿なんだけど」
「そんな風に思ってくれるなんて…! 強引に誘うのもどうかと思ったから、本当に嬉しいわ」

 そう、江ちゃんの笑顔に押されたのは事実なのだけれど、今私が江ちゃんに言った言葉は嘘ではない。私は自分から旅行を計画したことがなく、というかそもそも友達だけで泊まりで旅行をしたことがない。私の両親も友達の両親も、子供たちだけでは駄目だと反対したからだ。
 今回は部活の合宿だから、当然教師も同伴する。確か顧問は天方先生だ。女の先生だから、私の両親も安心するだろう。枷は何もない。
 合宿だから遊びに行くわけではないのだけれど、初めての体験に私の胸は高鳴った。




 六月末、最後の土日。待ちに待った合宿の日が訪れた。待ち合わせ場所は船が出航する地元の海で、自転車で来れる距離だったけれど、両親が車で送ってくれた。天方先生に挨拶をしたいという名目なのだけれど、実際のところは一緒に行く面子を確認したいのだろう。親も顔と名前を知っている友人とは違うのだし、心配するのも、まあ、無理はないのかも知れない。

 待ち合わせ場所のすぐ傍に停めて貰って、車から出ると遠くで人影が見えた。たぶん、水泳部の皆だ。手を振ると皆がこちらに駆けて来て、私も皆の元へと走った。

「悠ちゃん! お〜い!」

 大きく両手を振ってぴょんぴょん跳ねる姿が見える。あれは葉月くんだ。そのすぐ後ろで江ちゃんも手を振っている。
 私が皆の元に辿り着いた頃には、他の水泳部のメンバーも江ちゃんと葉月くんに追いついていた。

「皆さん、今日はよろしくお願いします! 私も何か手伝えること……があるか分かりませんが、遠慮なくこき使ってください!」

 そう言って深々と頭を下げると、江ちゃんが慌てて私の両肩を掴んで揺さぶった。

「いいのよ! そんなことしなくて! あたしが寂しいから誘っただけなんだし、ね? もっと気楽にしてて?」
「えっと、じゃあ、江ちゃんのマネージャー業務のお手伝い、頑張ります!」
「ふふっ、ありがとう」

 顔を上げてそう宣言すると、江ちゃんは満面の笑みを浮かべた。
 手伝えることなんてないかもしれないけれど、さすがに何もしないのは私自身、何しに来たの?と思ってしまうし、出来ることがあれば率先してやりたい。
 そんな遣り取りをしているうちに、両親もいつの間にかここまで来たらしく、天方先生と何やら話し込んでいた。

「私も同行するとはいえ、女の子がマネージャーの松岡さん一人なので、お友達が同行した方が心強いでしょうし……こういう運びになりましたけれど、夜は男女別行動ですし私もついていますので、どうかご安心くださいね」

 天方先生の言葉に、両親はお世話になりますと何度も頭を下げたあと、「お泊まりするほど仲の良いお友達が出来たなら、ちゃんと言いなさい」と私に叱れば、江ちゃんと水泳部の皆に挨拶して車へと戻っていった。
 なんというか、皆に両親の姿を見られたのが何故だか気恥ずかしい。別に恥ずかしいことではないのだけれど、高校生にもなって親がわざわざ挨拶しに来るというのもどうなんだろう。
 なんだかもやもやしてしまって、天方先生に話し掛けた。

「すみません、一人で来るつもりだったんですが、両親が送っていくと聞かなくて」
「謝る必要なんてないじゃない。わざわざご挨拶に来るなんて、しっかりした親御さんね」
「私が信用されてないだけですよ」
「可愛い娘が心配でしょうがないのよ。寧ろ心配してくれるうちが花よ」

 天方先生は優しく微笑んでそう言ったけれど、同い年の江ちゃんは親が見送りに来ているわけではない。それなら、やっぱりうちの家が過保護すぎだと思うしかない。

「それじゃ、行きましょ!」

 江ちゃんに手を引かれて歩を進めながら、私は皆と比べてまだまだ子供だと、ほんの少し落ち込んでしまった。



 船で行くとは聞いたものの、この町の港に旅客船が行き来するという話は聞いたことがない。個人手配だとしたら、そもそも「合宿をしたかったけど予算が足りない」と言っていた江ちゃんの言葉の辻褄が合わなくなる。
 疑問を感じつつ皆の後をついて行ったら、その謎はすぐに解消された。
 船は客船ではなく、漁船だったからだ。





 この漁船は七瀬先輩、橘先輩、葉月くんが通っていたスイミングクラブのコーチだった笹部さんという方の所有物だ。笹部コーチは船舶免許も持っているため、こうして無人島への渡航が叶ったのだという。こういう時、人付き合いはとても大事なのだと改めて思う。ちょっとした人と人との繋がりが、時として自分に良い形で返ってきたりするのだ。

 それに、間近で海風や水飛沫を感じることが出来るのも漁船ならではだ。まだ梅雨の時期だけれど、今日は幸い天候も良く、太陽の日差しが眩しい。旅行に来たわけではないのに、高揚感でいっぱいだ。
 とはいえ、そんな楽しい気持ちも、時として体調には勝てないこともある。

「悠ちゃん、大丈夫?」
「やっぱり結構揺れるね、少し酔ってきたかも」

 酔い止めの薬を飲んだりだとか、特に何も対策して来ていないせいか、少し具合が悪くなってきたかもしれない。なんとなくそんな気がするだけで、吐きそうという程ではないけれど、無理に我慢しない方が良さそうだ。

「怜くん! 悠ちゃんが具合悪いみたい――って……」

 江ちゃんが大きな声で呼んだものの、その視線の先を私も追ったら、そこには私以上に具合が悪そうで、葉月くんに介抱されている竜ヶ崎くんの姿があった。

「怜くん……は頼りにならなさそうね」
「竜ヶ崎くん、大丈夫かな」
「悠ちゃんは今は人のことより自分のこと! 横になってた方が楽になるかも」

 江ちゃんに船の前方まで連れられて、膝枕に甘えることになってしまった。江ちゃんみたいに可愛い子に膝枕してもらうなんて、彼女に片想いしている男子が見たら羨ましがることは間違いない。
 ふと、竜ヶ崎くんも江ちゃんみたいな子に好かれたほうが嬉しいんじゃないか、なんて考えが脳裏を過って、すぐにその思考を打ち消した。たぶん、具合が悪いからマイナス思考に陥りがちなのかもしれない。

「大丈夫か」

 突然声がして、我に返った。声を掛けてきたのは七瀬先輩だった。私が起き上がるより先に、スポーツドリンクを差し出された。飲め、という事なのだろう。

「でも、水泳部の皆さんが飲む分ですし」
「ストックはあるから大丈夫だ。悠が倒れたら、ゴウが悲しむ」
「だからゴウじゃなくてコウ!!」

 いつものやり取りを聞いてなんだかほっとした。差し出されたドリンクを受け取ると、七瀬先輩は何も言わずこの場を後にした。口数はとても少ないし、いつもマイペースなイメージだったけれど、よく周りを見ているのだと知ることが出来た。いつもと違う環境だと、今まで見えなかったものが見えて来るのかもしれない。

 江ちゃんが言った、寂しいから私を誘ったという言葉。
 天方先生が私の両親に言った、友達が同行した方が心強いという言葉。
 七瀬先輩が言った、私に倒れられたら江ちゃんが悲しむという言葉。
 どの言葉も忘れてはいけない。きっと、皆の言葉に嘘はない。私の役目は、江ちゃんのお手伝いをすることだ。余計なことを考えて落ち込んでいる暇があったら、現地に着いて出来ることを考えよう。




 やっと現地に到着して、目の前の光景を見たら具合の悪さなんて吹き飛んでしまった。やっぱり、単なる気の持ちようだったのかもしれない。どこまでも広がる青い海も、いつも見ている筈なのに、場所が変わるだけでまるで別世界に感じた。ヤシの木があちこちにあって、ちょっとしたリゾート地に見える。というか、少し離れた場所に民宿もあるし、無人島といっても本当に無人というわけではないみたいだ。

「あれ、竜ヶ崎くんは?」

 景色に気を取られていて、竜ヶ崎くんがいないことに気付くのにだいぶ時間がかかってしまった。

「船酔いしちゃって、トイレに行ってるよ〜」
「そ、そんなに辛かったんだ……」

 葉月くんの返答に正直驚いたけれど、思い返してみたら自分のことばかり考えていて、全然周りに目を向けていなかった。少し落ち込んでしまったのが顔に出ていたのか、葉月くんは励ますように私の顔を覗き込んで、笑顔を向けた。

「悠ちゃん、怜ちゃんを迎えに行ってきたら? もしかしたら倒れてるかもしれないし」
「え!? あ、あの、今すぐ行ってきます!!」

 葉月くんの『倒れてるかも』という言葉に、私は平常心を失った。何も考えずに走り出す私の背中に皆の声が響く。

「一野瀬さん、気を付けてね〜」
「悠ちゃん、方向そっちじゃない! 逆! 逆!」





 緑が生い茂った道を駆け足で転ばないように走っているうちに、冷静になってきた。何というか、葉月くんに気を遣われたような気がしないでもない。ついつい忘れがちだけれど、水泳部の皆は張本人の竜ヶ崎くんを除き皆、私が竜ヶ崎くんのことを好いているのを知っているのだ。そう考えると、今回江ちゃんが誘ってくれたのも、葉月くんが迎えに行くよう促してくれたのも、色々と勘繰らざるを得ない。江ちゃんが、女子生徒が自分ひとりより他に誰かいたほうがいいと思ったのは事実だと思うけど。

「あ、竜ヶ崎くん!」
「一野瀬さん!? ううっ……恥ずかしいところを見せてしまいましたね……」

 私が着いたのと同時に竜ヶ崎くんが洗面所のある建物から出てきて、ほっとした。

「具合は大丈夫? 船、すごく揺れたし仕方ないよ、私もちょっと具合悪くなったし」

 苦笑いしながらそう告げたけれど、竜ヶ崎くんは愛想笑いを浮かべる気力もないのか、本当に具合があまり良くないみたいだ。さすがに心配になってきた。とはいえ、具合が良くても悪くても、どちらにしてもここで二人だけで居続けても何も解決しない。具合が悪いなら尚更だ。

「とりあえず、皆のところに戻ろう」

 そう言って竜ヶ崎くんの手を掴んで歩を進めようとしたら、少しびっくりしたみたいで困惑の声が聞こえて来た。

「えっ、一野瀬さん、その」

 振り向いて竜ヶ崎くんを見上げると、その顔は紅潮していた。そこでやっと、竜ヶ崎くんはもう具合は良くなっていて、私が迎えに来たことに対して困惑しているのではないかと気付いた。ましてや、私の方から強引に手なんか繋いでいるし。

「ごめん、触られるの嫌だった?」
「いえ! 決して嫌ではないんですが、正直驚いたというか……」
「具合が悪いのかと思って……でも、具合が悪いからって手を繋ぐのも変だよね。本当にごめんね」
「いや、そういう意味ではなく!」

 手を離そうとしたら逆に掴まれて、今度はこっちが赤面してしまった、と思う。顔が一気に熱くなったのが自分でも分かったからだ。

「……行きますか」
「うん……」

 お互いに相手の顔を直視できない状態で、とりあえず目的が一致して、手を繋いだままで来た道を戻ることにした。無言が続いて、何か喋ったほうがいいのかなと考えていると、竜ヶ崎くんが歩を止めた。つられて、というか物理的に進めなくなって私も足を止めると、竜ヶ崎くんはぽつりと口を開いた。

「あの、差し出がましいことかもしれませんが」
「何?」
「遙先輩とはいつから親しくなったんですか?」
「は?」

 言っている意味が分からなくて、つい呆けた声が漏れてしまった。何と答えたらいいか分からなくて、竜ヶ崎くんの顔を覗き込んだら、何を考えているのかは分からないけど、なんとなく不機嫌そうなことだけは分かる。

「親しいっていうか、初めて会った頃と何も変わらないけど」
「ですが、一野瀬さんのこと下の名前で呼んでたじゃないですか」
「え? 前からじゃなかったかな?」
「前から!?」
「えっ、待って!? 江ちゃんも葉月くんも橘先輩も、私のこと下の名前で呼んでるけど」

 竜ヶ崎くんが何を考えているのかは分からない。けれど、とりあえず私が出来ることは事実をそのまま伝えることだけだ。私の言葉に竜ヶ崎くんははっとした表情を浮かべた後、また頬を赤く染めた。

「……えっと、一野瀬さん、申し訳ありません……」
「なんで謝られるのかもよく分からないけど……そういえば、名字で呼んでるのって竜ヶ崎くんだけだね」
「そういえば、そうですね……」
「ていうか、私が下の名前で呼んだ方がいいのかな?」

 自分でも言っていてわけがわからなくなってきた。別に竜ヶ崎くんが皆と違って名字で呼ぶことと、私が江ちゃん以外の皆を名字で呼ぶことは特に繋がりはない。ないのだけれど、言ってしまったものはこの際しょうがない。なんとか話をまとめよう。

「怜くん」

 よくわからないけれど、憶測で突っ走るのは良くないけれど、とりあえず笑顔でいればなんとかなるような気がする。

「きっと皆も心配してるし、早く戻ろう」

 笑顔でそう言って、竜ヶ崎くんから顔を背けたので相手がどんな表情をしているのかは分からないけれど、手を繋いだまま私が歩き出したら、竜ヶ崎くんも一緒に歩を進めてくれたので、たぶんなんとかなったのだと思う。



「怜ちゃん、悠ちゃん、おっかえり〜!」

 私たちの姿を一番最初に見つけた葉月くんが大きく手を振っている。それを見て、どちらともなくそっと手を離したのだけれど、その手のぬくもりはしばらく消えそうになかった。なんだか妙に気恥ずかしくなってしまったけれど、きっと天候に恵まれたゆえのこの暑さのせいだ。さっき竜ヶ崎くんが頬を赤らめていたのも、私の頭が働かなくなってしまったのも、何もかも。

2018/07/08
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