オールモスト・パラダイス

 地方大会が終わってから数日が経ち、早いもので間もなく夏休みも終わろうとしていた。リレーに出場しない選択肢を取ったのは紛れもなく己の判断であり、今更とやかく言うつもりはないが、己ではなく凛さんが泳いでいるのを見た時の彼女の呆然とした姿を見た時は、少しだけ後悔の念に駆られた。

 そして、真琴先輩、それに遙先輩の彼女に対する言葉を聞いて、今こそ彼女と向き合わなければと覚悟を決めた。彼女がずっと陰ながら己を応援し、支えてくれていた事を分かっていつつも、目の前の大会に集中して余計な事を考えないようにしていた。彼女は己の事を『憧れ』だと思っているだけで、そこに恋愛感情が含まれているかは分からない――そう仮定していたが、ただの憧れだけで毎日差し入れをしたり、夏休みとはいえアルバイトと勉強で忙しいなか時間を作って水泳部に顔を出したりはしないだろう。

 全て、初めから分かり切っていた事なのに、答えを先延ばしにしていたのは己自身だ。彼女はきっと、己の邪魔をしないようにと、思いを秘めながらずっと見守ってくれていたのだろう。
 ならば、大会も、すべてが終わった今、もう何も躊躇う必要はない。
 もう、答えは決まっている。
 万が一、己の思い違いで彼女は恋愛感情などまるで抱いていなかったとしても、何の問題もない。単に己が玉砕するだけの話である。これから行動を起こす理由は、彼女が己をどう思っているかが本題ではなく、己が彼女をどう思っているかが全てなのだから。




 新学期が始まる前の、ある日の夕方。部活を終えた後に一人で向かった先は、学校から少し歩いた先にある神社――夏休みに入る前、県大会の前に皆で必勝祈願に来た場所であった。
 彼女にはあらかじめメールでこの場所に来て欲しいと伝えており、少し時間が経って了承の返事が来たが、もしかしたら強引に誘ってしまったのでは、と少しだけ不安になってしまった。彼女が断れない性格なのは、この四ヶ月弱でよく分かっている。

 だが、その不安は杞憂に終わった。こちらへ掛けてくる足音が聞こえ、顔を向けるとこちらへ走ってくる彼女の姿が視界に入ったからだ。

「怜くん、ごめんね! 待たせちゃったよね」
「いえ、大して待っていませんのでお気になさらないでください」

 己の傍まで駆け寄れば、息を切らしながら謝罪の言葉を漏らす彼女に、逆に己の方が申し訳なくなってしまった。というのも、彼女は今日アルバイトがあって水泳部に顔を出していないからである。部活の場で彼女を誘うとなると、どうしても周囲を気にせざるを得なくなり、互いに気まずい思いをするのが目に見えて分かる。だからこそ、わざわざ彼女が部活に顔を出せない――アルバイトのある日を確認した上で誘ったのだが、些か判断ミスだったと早くも反省するばかりであった。

「というか、僕が悠さんのアルバイト先にお迎えに上がった方が、効率が良かったかも知れないですね……いや、悠さんのご自宅に近い方が万が一陽が暮れてしまっても安全ですし、やはりこの判断で……」
「怜くん?」
「いえ、なんでもありません」

 うっかり口に出てしまっていた。彼女の問い掛けに対して誤魔化すようにわざとらしく咳払いをしてみせたが、果たして誤魔化せているのか疑わしい。

「ここ、家から近いから大丈夫だよ。それにバイトも今日は明るい時間だったけど、夏休み前は平日は夜のシフトにだったし、ちゃんと気を付けて行動出来てるから」
「……そういえば、そうですね……」
「でも、心配してくれてありがとう、怜くん」

 まるで頭が働いていない己に対しても、彼女はいつもと変わらない笑顔を向けてくれていた。そう、彼女はいつも穏やかな笑みを見せてくれている。地方大会の、あの時を除いては。いつも笑顔を絶やさない彼女が、あの時ばかりはずっと浮かない顔をしていて、二人きりになった途端いつもの彼女の口からは出そうにない不満が一気に噴き出たのだから、己の事をただの友達で、ただの憧れだと思っているのであれば、あそこまで言いはしないだろう。
 やはり、どの不安要素を考慮しても、今日こそ彼女の想いに応えるべきだ。もう、考える必要はない。

「……悠さん」

 徐々に陽が落ちていき、境内が夕暮れに染まっていく。そういえば、県大会の前に彼女に励まされた時も、今と同じような景色だった覚えがある。

『怜くんが、夢を叶えられますように』

 彼女の願いは、己自身の選択によって叶えることが出来なかった。けれど、彼女の願いは他にもあるはずだ。己の為の願いではなく、彼女自身の為の願い。きっとそれを言葉にするのは、彼女の生真面目な性格を考えると憚られることだろう。
 だから、行動に移すのは己の方だ。己とてごく普通の男子高校生なのだから、こういう時ぐらいは格好を付けさせて欲しい。

 覚悟を決めて、彼女の顔を見つめると、珍しく随分と不安そうな顔で己を見上げていた。何を憂いているのか、彼女の脳内を窺うことは出来ないが、絶対にその不安を全て拭い去ることが己には出来る。だから、もうそんな顔はしないで欲しい。

「悠さん。あなたの事が好きです」

 瞬間、彼女の瞳は大きく見開かれたが、すぐに「そんなわけがない」とでも言いたげに、困惑した表情へと変わった。もっとはっきり言わないと駄目だ。ちゃんと言葉にしなければ、伝わらない。

「僕と、付き合ってください」

 そう言って、彼女に向かって頭を下げた。当然、彼女が今どんな顔をしているのか確認する術はない。絶対に大丈夫だ、そう思い込んでいたが、反応がないとさすがに己の思い違いではないかという不安が脳裏をよぎった。恐る恐る顔を上げると、そこには頬を朱く染めながらも、笑顔のない彼女の表情が視界に入った。

「すみません、突然言われても困惑しますよね……ですが、どうしても伝えたかったんです」
「……あの、怜くん」
「勿論、断って頂いて構いません。悠さんが断れない性格なのは分かっていますが、僕にだけは遠慮せずに本音をぶつけて欲しいんです」

『僕にだけ』などと、随分と傲慢な言葉が口をついてしまったが、彼女は驚いてまた目を見開いた後、意を決するように真剣な眼差しで己を見上げ、口を開いた。

「怜くん、本当にいいの?」
「え?」
「私に告白しないといけない、とか、責任を感じてない?」

 まさかそんな言葉が返ってくるとは思ってもおらず、呆気に取られていると、彼女は少し泣きそうな声で言葉を紡いだ。

「私が怜くんの事を好きって、色んな人から聞いてるよね?」
「え? ええと……そうですね……」
「本当は好きでもなんでもないのに、私の気持ちに応えないといけないって思い込んでない?」
「いえ、それは断じて有り得ません。僕の行動は、僕自身が決めます。誰にも左右はされませんから」

 きっぱりとそう言い放つと、彼女から漸く悲しげな面持ちが消えた。それでもまだ笑顔を見せないのは、不安は拭えないからなのだろう。ならば、何度でもその不安を拭ってみせる。そう決意した。

「悠さん。夏休みに入る前、ここで二人きりで話した事を覚えていますか?」
「うん、勿論」
「あの時の悠さんの願い、叶える事が出来ず申し訳ありません」
「願い……? あ、ううん、謝らないで。これで全てが終わったわけじゃないし」

 彼女はすぐに思い出せなかったのか、少しの間考える素振りを見せた後、漸く微笑を浮かべてみせた。

「怜くんはもう前を向いているから。私が願掛けなんてしなくても、怜くんは夢を叶えられるよ、絶対に」

 結局、彼女の願いに応えなかったのは、己自身の選択によるものである。あの場では、正直幻滅されても仕方のない状況だったとは思うのだが、それでも彼女は、大会前と変わらずに接してくれた。それどころか、己の為に怒ってくれたり、かと思えばそんな姿は見せたくなかったと落ち込んだりと、穏やかな彼女が己を想っていつもと違う姿を見せてくれた。己にしか見せる事のない姿。それを嬉しく感じ、次こそは彼女の期待に応えたいと強く思う。

 だからこそ、彼女にはこれからも傍で、己の姿を見ていて欲しい。
 友達の一人としてではなく、たった一人の恋人として。

「悠さん、駄目ですよ」
「えっ?」
「『私が願掛けなんてしなくても』なんて、言わないでください」

 言葉で伝えても不安を拭えないのなら。

「僕は悠さんと一緒に、夢を追い掛けたいんです」

 そう言って、彼女に手を差し出した。強引に抱き締めてしまえばいいのかも知れないが、それでは彼女の意思を無視している。彼女が己に対して、無理に自分の気持ちに応えようとしているのではないかと不安に思ったように、もしかしたら彼女の方こそ、本当はもうとっくに気持ちは冷めているのに、周りに囃し立てられて引っ込みが付かなくなってしまっているのかも知れない。悪い方向に考えようとすればいくらでも出来るのだ。
 だから、彼女がこの手を取らない可能性だってゼロではない。
 これは、最初で最後のチャンスだ。

 だが、この僅かな不安はすぐに払われた。彼女は少しの間驚いた表情を見せた後、恐る恐る手を伸ばし、己の手を握ってくれた。
 この小さくあたたかな手を、もう離さない。そう心に誓った。

「怜くん、本当に私なんかでいいの……?」
「『なんか』なんて言わないでください。悠さんのような健気な方、そうそういませんよ」
「そんなこと……」
「渚くんに強引に水泳部に連れ込まれてからというもの、律儀に顔を出しに来てくださって、手作りのお弁当が食べたいと冗談で言ったら本当に作ってくださって……」
「あれ冗談だったの!? ご、ごめんなさい!」
「努力家で、勉強を教えたらすぐに理解してくださって、アルバイト先も休んでいる時がないんじゃないかと思うくらい、熱心に働かれていて、そんな悠さんが淹れた珈琲は美味しくて……」

 彼女の頬がまた一気に朱く染まる。夕陽に当たっているからだけではないだろう。その証拠に、彼女の瞳にはうっすらと涙が浮かび始めた。嬉し涙だと断言は出来ないが、きっとそうに違いない。

「いつもは誰かの陰に隠れるような、引っ込み思案な方だと思っていたのに、時には積極的で……嫌とは言えない性格でも、間違っていると思った事ははっきりと口にして、でも誰かを否定したりは出来なくて」

 彼女の双眸から、ひとすじの涙が零れた。

「そんな優しい悠さんだから、一緒に前へ進みたいと思ったんです。ただの友達としてではなく、たった一人の恋人として」

 そう言い切った時には、彼女は大粒の涙を溢れさせていた。しゃくりあげる姿を見て、この状況なら抱き締めてしまっても問題ないだろう。寧ろ今こそ勇気を出す時だ。
 一旦彼女の手を解けば、己よりだいぶ背の低い、華奢な身体を優しく抱き締めた。

「来年は絶対に、リレーを泳ぐ僕の姿を見せますから」

 もうすぐで夜の帳が下り、暁に染まった空が徐々に瑠璃色へと変わっていく。彼女を抱き締めながら見上げた空には、一番星が瞬いていた。
 ずっとこんな時間が続けばいい。ふとそんな感傷的な事を思ってしまったが、ただ願うだけではなく、その願いを実現させるために、彼女との絆をこれから更に深めていこう。そう決意した瞬間、星が更に瞬いたような気がした。
 それはまるで、彼女との恋のはじまりを祝福するかのようだった。




「……悠、本当に悪い! お前らがそんな関係だとは知らず……いや、もう何を言っても言い訳にしかならねぇ。リレーの件は、本当に……申し訳ない事をした」
「いえ、謝らないでください!」

 真夏の暑さから残暑へと変わりつつある頃、アルバイト先の喫茶店にて。

「そもそもあの時は、私も怜くんもそんな仲じゃなくて、付き合うようになったのは本当に最近なので……それを抜きにしても、怜くん自身が選んだことですから。私に謝る必要はないですよ、凛さん」

 お客様として来ていた江ちゃん、そして向かいに座る凛さんに、私は苦笑を浮かべながらそう言って、注文の品のアイスコーヒーをふたつ、テーブルに置いた。

「悠ちゃん、真っ先に私に報告してくれてありがとう」
「江ちゃんには色々後押しして貰ったし、それに、私の気持ちを知って応援してくれたことが、凄く支えになってたなって、今になって改めて思うんだ。本当に、ありがとう」
「そんな風に言って貰えるなんて、嬉しい……! ふふっ、ちょっと嬉し泣きしちゃうかも」

 本当に心から嬉しそうに優しい笑みを浮かべる江ちゃんを見つつ、私自身、まだ夢見心地な気分でいた。
 まさか夏休みの終わり頃に、怜くんから告白されるなんて夢にも思っていなかった。アスリートに恋人が出来て成績が悪くなったなんていう話をたまに聞いたりするけれど、怜くんならきっと問題ないと思うし、というか、逆に私のほうが腑抜けてしまっていて良くない。中間試験の結果が散々だったら、怜くんに教えを乞うどころか幻滅されてしまうかもしれないし。

「あの、凛さん」
「何だ?」
「怜くん、来年は絶対にリレーに出るって意欲を見せていたので、大丈夫です! ですから、凛さんも……来年、正式な形でリレーで泳ぐ姿を見るのを、楽しみにしています」

 凛さんは一瞬目を見開けば、すぐに口角を上げてにやりと笑ってみせた。

「ありがとな、悠。俺もあいつらと泳いで、来年は鮫柄の皆とリレーを泳ぎたいって心から思えた」

 きっと、迷いのなくなった凛さんは、素晴らしい泳ぎを見せてくれるに違いない。それが、今回リレーに出られなかった怜くんへの償いにもなるのだと思う。償いなんて大袈裟だけれど、怜くんも、凛さんも、来年それぞれのチームで最高の泳ぎが出来たらいい。ううん、出来るに決まっている。

 なんて事を考えていたら、入口のベルが店内に鳴り響いて我に返った。

「いらっしゃいま……」
「悠ちゃ〜ん! 遊びに来たよ〜!」

 現れたのは満面の笑みで手を振る葉月くん。続いて七瀬先輩、橘先輩まで入って来て……という事は。

「悠さん、すみませんお仕事中に。渚くんがどうしてもって聞かなくて」
「ううん、皆で来てくれるなんて、商売繁盛で嬉しいよ」

 疲れ気味の表情で溜息を吐きながら謝る怜くんに、私は軽く手を振ってみせた。

「凛、お前も来てたのか」
「お前ら……それはこっちの台詞だ」

 お互いに目を見合わせる七瀬先輩と凛さん。そして、橘先輩がこちらに近づいて、こっそりと耳打ちした。

「ごめんね、悠ちゃん。大人数になっちゃって」
「大丈夫ですよ、今日はお客さんが少ないので、逆に来て頂けて嬉しいです」
「バイトが終わった後は、怜と二人きりでゆっくりしていいから」
「ちょっ、橘先輩! そんな、私は皆さんの交友関係を邪魔するつもりはないですよ!」

 それだとなんだか私が皆から怜くんを奪ってしまうような気がして、慌てて否定したのだけれど、今の会話をなんとなく察したらしい怜くんと葉月くんも、こちらに駆け寄ってきた。

「悠さん、何を勘違いされているのかは存じませんが……僕と悠さんがお付き合いを始めたからといって、我が岩鳶高校水泳部の絆がなくなるなど有り得ませんよ。時間を効率的に配分すれば両立出来て当たり前です、僕の計算によると――」
「あーはいはい! 怜ちゃんそういうのはいいから!」

 怜くんの長引きそうな話を、葉月くんは強引に止めれば、橘先輩に続いて私にこっそり耳打ちしてきた。

「良かったね、悠ちゃん」
「……改めてそう言われると照れ臭いけど……ありがとう、葉月くんが水泳部に誘ってくれなかったら、こうはならなかったと思う。だから、葉月くんのお陰だね」
「僕はきっかけを作っただけだよ。行動に移したのは悠ちゃん自身だから」

 葉月くんに天真爛漫な笑みを向けられてそう言われると、不思議と自信が湧いてくる気がした。そうだ、友達にも進展があったら報告するよう言われているし、また照れ臭い思いをするけど、そのうち言わないと……なんて事を考えていると、ふと視線を感じた。顔を向けるとそこには眉を顰めている怜くんの顔があった。

「お二人で何をこそこそ話しているんですか?」
「おおっ、怜ちゃん焼きもち?」
「だからすぐそういう方向に持っていかないでくださいっ!!」

 夏はもうすぐ終わりを迎えるけれど、私たちが共に過ごす時間は、これからも続いていく。
 来年も、その先も、ずっとこんな時間が続きますように――目が合った瞬間、照れ臭そうに笑みを浮かべる怜くんを見て、そう願わずにはいられなかった。
 でも、ただ願うだけではなく、その願いを実現させるために、彼との、怜くんとの絆をこれから更に深めていこう。

 夏が終わっても、この至福の時間は続いていく。来年も、きっと、その先も。共に歩いて行こう、あなたと共に。

2019/04/28
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