Pumpkin Carriage



「はい、とってもお似合いですよ、樹里さん」
「…………」

 fineから桃李くんと弓弦、そして流星隊がフルメンバーで出るB1当日。会場は姫宮家の力によって、S2・S3と遜色ないほど素晴らしく、美しいステージが出来上がっていた。何か手伝える事はないかと会場に駆け付けたは良いけれど、本当にやる事がない。せめてグッズ販売等運営にある程度関わる事が出来れば――そう思った矢先。
 突然弓弦が現れて私を捕まえるや否やそのまま控室へと連行し、今に至る。

 今、私は弓弦に強引に着替えさせられ、何故か弓弦と同じ衣装を身に纏っている。
 私が着ると男装そのものな白を基調としたスーツ。マントは裏地が群青色になっていて、美しいコントラストだ。これは外注ではなくあんずの手作りだと、聞かなくても分かる。

「どうされましたか? あんずさんは樹里さんのスリーサイズも把握していらっしゃいますし、合わないといった事はないかと存じますが……」
「あんず、いつの間に……って、そうじゃなくて!」

 私は全く同じ衣装を纏う目の前の弓弦に向かって、至極当然の疑問をぶつけた。

「なんで私がステージ衣装を……? これじゃまるで……」

 まるで、私が一緒にステージに立つみたいじゃないか。
 間違いなく今の私は泣きそうな顔をしているに違いない。そんな私を見て、弓弦はどこか意地悪そうに、満足気な笑みを浮かべていた。



「そうだよ、樹里。おまえは今日限り『fine』の一員として、ステージに立つの」

 弓弦が答えるより先に、愛らしい声と共に控室の扉が開く。顔を向けると、そこには私たちと同じ衣装を纏った桃李くん、その後ろにはあんずと、更になんと日々樹先輩までいた。日々樹先輩がここいるのは、今日のB1開催を知っているから応援しに来たと考えれば不自然ではないのだけれど、なんと彼もステージ衣装を身に纏っている。なんとなくこれから起こり得る事が分かりかけてきて、眩暈がしてきた。

「……桃李くん、嘘だよね?」
「も〜! 始まる前から弱気になるな! おまえ、そんなんで春からアイドルに戻れると思ってるのか!」
「す、すみません!」

 相手は年下の男の子だというのに、つい背筋を伸ばして自然と謝罪が口をついていた。とはいえ、私はステージに出るなんて一言も言っていないし、承諾した覚えもない。しっかりしないと。
 一呼吸置いて、私は改めて桃李くんに向き直った。

「あの、桃李くん。どうして私をステージに立たせようとしてるの? 日々樹先輩も、どうして……」
「……それは……」

 私の問いに躊躇いを露わにした桃李くんに代わって、後ろに控えていた日々樹先輩が前に出た。

「私が代わりに答えましょうか。私は決して姫君に頼まれてここにいるわけではありません。私の意思で、姫君と執事さんと共にステージに立つ事を決めました」
「どうしてですか?」
「『次期』皇帝陛下である姫君の手助けがしたい……純粋にそう思ったからですよ」

 日々樹先輩は決して嘘を言っているようには見えなかった。桃李くんの手助けが出来ないか私が頼んだから、ではないだろう。その後に、日々樹先輩の心が動くような何かがあったのだと思う。敵として対峙する深海先輩が日々樹先輩に助言をした事は、後々になって知る事になる。

「……とりあえず、日々樹先輩が出る事は分かりました。でも、私も一緒に出るのはやっぱりおかしいです。前座ならまだしも、fineと一緒にだなんて……許される事ではないと思います」

 私がこれまでステージに立ったのは、ウィッシングライブとスタフェスの二公演のみだ。どちらも単なる前座で、メインはアイドル科の生徒たちという大前提がある。『まだ』アイドルではない私が、現在進行形でアイドル活動に勤しんでいる彼らの出番を奪うような事があってはならないのだ。
 桃李くんがどうして私に『今日だけfineの一員』なんて言い出したのかは分からないけれど、超えてはいけないラインというものはある。例えそれがドリフェスのような大きなライブではなくても――。

「樹里ちゃん、私からもお願い!」

 私の固い意志を打ち破るかのように、今まで黙っていたあんずが声を上げ、私に向かって頭を下げた。

「やだ、やめてよあんず。私、あんずに頭を下げてなんて欲しくないよ」
「だったら、ステージに出て! この衣装も樹里ちゃんの為に作ったんだよ?」
「うっ……それを言われると弱い……」

 早くも意志が揺らぎつつある私にとどめを刺すかの如く、今度は弓弦が満面の笑みで私に言ってのけた。

「樹里さん、『許される事ではない』などと、何やら深刻に考え過ぎていらっしゃるようですが……そもそもこのドリフェスはB1です。非公式かつ成績に反映しない、言うなれば自己満足のライブです」
「いや、形式上はそうでも……」
「これがS3であれば、そもそもアイドル科ではない樹里さんがステージに上がるのはルール違反になりますが、非公式ならば……ここまで言えば説明は不要ですよね?」

 完全にあんずも弓弦も私をステージに引きずり出す気だ。
 流されるのは慣れているし、ルール上問題がないのなら仕方がないけれど……でも、私を今回のライブには関わらせないと言っていた桃李くんはそれで良いのか。あんずや弓弦に流されているのではないか。

「樹里、ま〜た余計な事考えてるだろ!」
「ひえっ」
「ボクの気が変わる前に承諾しろ! これは『次期』皇帝陛下の命令だ!」

 桃李くんは嫌々従っているどころか、真逆だ。不敵な笑みを浮かべて、どこか楽しそうでもある。本当に、本当に桃李くんがそうしたいと思って、私を今日限りfineのメンバーとしてステージに立たせるつもりなのだろうか。
 それなら、答えはひとつだ。

「……分かった。間違いなく桃李くんの意思なら、喜んで従う。私も……本当は日々樹先輩と同じで、桃李くんの手助けがしたかったから」

 私の返答に、桃李くんだけでなく、ここにいる皆が笑みを浮かべ、頷いてくれた。

「よし、それじゃ時間は限られてるけど……本番前にちょっとだけ練習するぞ! このボクが直々に指導してやるから、ありがたく思え〜!」
「うん、本当にありがとう! 桃李くん、今日はよろしくお願いします!」

 突然の事でまだ気持ちが追い付いていないけれど、決まってしまったものは仕方がない。全力でやるまでだ。





 B1――非公式のライブと言っても、fineの二人と流星隊が対峙すると耳にしたアイドル科、それに他科の生徒たちが駆け付けて、会場は既に多くの観客で賑わっていた。他科はアイドル科と違い女子もいる。そんな中で、男装といってもあくまで衣装だけで、どう見ても女にしか見えない私があまつさえfineの一人として振る舞うなんて、非難轟々じゃないだろうか。そう思うと足が竦んで来た。

「樹里さん、ご気分が優れないのでしょうか? 武者震いであれば心強いのですが……」
「ちょっと弓弦、無茶言わないでよ! 私がしれっと『fineですが何か?』なんて顔で出て、ブーイングを受けてゴミでも投げ付けられたら……」
「前の学校でそんな目に遭われたんですか?」
「ないけど!! 最悪私だけが嫌な目をするならまだしも、fineの名に傷が付いたらそれこそこのライブの意味がなくなっちゃうよ」

 折角あんずが拵えてくれた衣装に似つかわしくない言動は、当然私の外見にも影響する。顔や体のつくりという問題ではなく、自信を失った者はオーラが失われるものなのだ。

「さすがにそんな事が起これば、客側のマナーのほうが問題でしょう。万が一樹里さんがゴミをぶつけられそうになった際は、わたくしがこの身を盾にしてお守りしますので、ご安心を」
「弓弦、寧ろそういう事が起こって欲しいって思ってない? なんで嬉しそうなの」
「ふふっ」

 笑みを浮かべながら洒落にならない事を言ってのける弓弦は、相変わらず何を考えているのか分からない。冗談なのか、それともほんの僅かでも本気だったりするのか。考えても仕方ないけれど、ただ、こんな遣り取りで肩の力が抜けた気がするから、我ながら単純だ。

 桃李くんを先頭に、日々樹先輩、弓弦、そして私が後に続いてステージに向かって歩を進める。全員でステージに足を踏み入れる直前、桃李くんは振り返って、私に向かってほんの少し照れ臭そうに、頬を染めながら告げた。

「……樹里。この前は……ごめん。言い過ぎた」
「えっ、いいよ。悪いのは私だし……」
「樹里は確実にボクたちが勝利を収める事を考えてただけ。それはきっと……DDDでボクがステージ上で泣いたのを見ていたからだって気付いたんだ」

 正直、桃李くんに言われるまでそんな事があったと忘れていた。私の中でのfineは、サーカスでの復活劇を始めとした、圧倒的な勝者というイメージだった。けれど、今年の戦歴を見れば、決して常に華々しく戦果を上げて来たわけではない。英智さまの体調だけが原因ではないだろう。だからこそ、桃李くんも弓弦も、英智さまと日々樹先輩抜きでドリフェスを行おうと決めたのだ。例え負けたとしても、それが自分たちの実力だと認め、fineの名に恥じぬよう更に努力を重ねる為に。
 負ける事は、決して悪い事ではない。挫折を経験しなければ、更なる成長だって出来ない。
 DDDで敗北を味わったfineがサーカスで復活したように、何度だって立ち上がり、更なる高みへと昇れる筈だ。

「……桃李くん、私が間違ってた。本当にごめんなさい」
「えっ!? 樹里、急にどうしたの?」
「負ける事に怯えてたら成長なんて出来ないって、やっと気付いた。fineの皆はずっとそれを証明して来たのに、私、近くにいたのに何も見えていなかった」

 私の独白に、桃李くんだけでなく、弓弦と日々樹先輩も優しい笑みを浮かべた。

「灯台下暗し、と言いますしね。樹里さんの場合は体感出来ていても、上手く言語化出来なかったようにも思えますけれど」
「どちらにせよ、私たちと過ごした一年が、樹里さんにとってこれからの未来を歩む為の糧になるのでしたら、こんなに嬉しい事はないですねぇ。英智も喜びますよ、きっと」

 というか、弓弦だけでなく日々樹先輩まで私がステージに立つ事を了承しているのが不思議だ。まあ、今回は私、それに日々樹先輩は二人のサポートに徹する役割だ。fineの一員といってもそれはあくまで今日限りであり、秀越学園でステージに立った時のようなサポートメンバーと思えば、幾分か気が楽になった。





 ステージで私がどんなパフォーマンスをしたのか、正直言ってほぼ記憶にない、というか記憶が飛んでいた。当たり前だけれど、fineの三人は間違いなくこの学院の頂点に相応しい実力を兼ね備えていた。桃李くんと弓弦は夢ノ咲に来て一年近くしか経っていない、なんて考えでいた自分はどれほど浅はかだったのだろう。逆だ。『たった一年近く』しかいないのに、彼らより多く経験を積んでいるアイドル達と遜色なく、経験値を実力でねじ伏せてしまう程の力を持ち得ていたのだ。
 それは才能も勿論あるけれど、英智さまが比較的体調の良い夏季に非常に多くのライブをこなして来た事、それにライブ前に私が思い直したように、彼らの道程は決して順風満帆ではなかった事。決してその立場に驕らず、日々努力を重ねて来たからこそ、王者たるパフォーマンスを魅せる事が出来る。

 つまり、私は全然『なってない』という事を、この身を以て体感したのだった。

 ただ、ひたすら脳内で反省会を繰り広げていたけれど、他の皆はそうではないらしい。

「遠矢、まさかおまえも伏兵だったとは……驚いたぞ!」
「守沢先輩……すみません! 素晴らしいドリフェスなのに私が水を差してしまい……」
「む? そう悲観するな、遠矢が春からアイドルに復帰すると聞いて不安だったんだが、今日のパフォーマンスを見る限り杞憂だと俺は思ったぞ」
「そんな、褒めないでください……その優しさがかえって辛いです〜……」

 守沢先輩に励まされたものの、どうしても賛辞を受け容れる事が出来ず肩を落としていると、他の流星隊のメンバー達が次々に声を掛けて来た。

「遠矢先輩、分かります……この人のお節介はありがた迷惑で、かえってこっちの心を抉って来るって……」
「いやいや、さすがに言いすぎでござるよ! 遠矢殿は隊長の優しさに照れているような……」
「何はともあれ、遠矢先輩……いや、姉御! 最高にかっこよかったッスよ!」

 流星隊の一年生の皆の優しさが身に染みて、柄にもなく胸が熱くなった。深海先輩は私に向かって微笑を湛えながらVサインをしてみせた。そういえば、日々樹先輩に相談するよう薦めてくれていたし、深海先輩も私の事を心配してくれていたのかも知れない。

「こら〜っ! 敵と友好を深めるな!」

 私と流星隊の皆の間に桃李くんが割って入って、私の肩をぽかぽかと叩いた。全然痛くないし加減しているのは分かるから、自然と笑みが零れてしまった。

「ごめんごめん。桃李くん、本当にお疲れ様。一緒にステージに立って分かったよ。私は桃李くんの事を甘く見てた。本当に、本当にごめんなさい」
「分かればいいよ? ボクは寛大だから奴隷の無礼も今日は許してやろう」

 桃李くんは随分と機嫌が良いようでほっとした。B1とはいえS3と遜色ない素晴らしいドリフェスが行えた事、そしてお互いにわだかまりが解けたお陰だ。尤も、私がステージに立たなくても自然と仲直り出来ていたとは思うけれど……やっぱり桃李くんの気が急に変わって私をステージに立たせる、なんてちょっと不可解だ。
 私は頃合いを見て、弓弦に駆け寄って周りに聞こえない程の小さな声で訊ねた。

「ねえ弓弦、どうしてこんな事になったのか説明してよ」
「こんな事、とは?」
「とぼけないでよ、私がステージに立たなくても丸く収まったでしょ」

 本当に水を差しかねない事を言ってしまって申し訳ないけれど、さすがに経緯が分からないと私としてももやもやしてしまう。結果的にドリフェスは成功に終わったから良かったものの、fineに女生徒が混ざるなんて、例え非公式のB1でもちょっとした問題になるのではないかと、今頃になって不安になって来た。

「これは坊ちゃま、あんずさん、そしてわたくしで話し合って決めた事です」
「……弓弦も?」
「ええ。提案したのはあんずさんですが、そもそも坊ちゃまも樹里さんに言い過ぎたと、ここのところずっと悩まれていたんです。正直、わたくしたちも最初は戸惑いましたが……きっと樹里さんも坊ちゃまと同じように悩まれている――そう思い、ここはあんずさんの提案に乗ろうと決めたんです」

 やっぱり、あんずは一枚も二枚も上手だ。弓弦に勝てるのは英智さまでも誰でもなく、あんずただ一人かも知れない。

「やはりあんずさんは樹里さんの事をよく理解されていますね。わたくし、正直嫉妬してしまいそうです」
「はい?」
「坊ちゃまと樹里さん、お互いが意地を張らず歩み寄れるように、半ば強引に樹里さんをステージに引きずり出す事をしましたけれど、樹里さん自身も、何かしら収穫があったのではないですか?」

 弓弦の問いに、私は何度も頷いた。自分に足りないものが体感で分かったし、同時にアイドル科の皆に対する敬意も改めて持つ事が出来た。学年が変わるまでに気付けて良かったけれど、もっと早く気付きたかったという後悔もある。こんな風に謙虚な気持ちを思い出したのも、弓弦の言う『収穫』のひとつだろう。

「……弓弦、私、春からアイドルとして頑張ろうって、このステージに立って改めて思えたよ」

 私の言葉に、弓弦は優しく微笑んでくれた。何を考えているのか分からない、なんて思いがちだけれど、この時ばかりは心から私を応援してくれていると信じたい。ううん、絶対にそうだ。
 ここが公共の場でなければ、今すぐにでも弓弦に抱き着いて、共にステージに立った喜びを噛み締めたい――そんな邪な事が脳裏をよぎった瞬間。
 少し離れた場所から拍手が聞こえた。偶々このドリフェスを見ていた先生か、まさか――恐る恐る顔を向けると、そこには制服姿の英智さまがいた。

「え、英智さまっ!!」
「お疲れ様、樹里ちゃん。いやあ、随分面白いステージを見せて貰えて、僕も大収穫だよ」
「すすすすみませんっ!! 事もあろうに私ごときがfineの一員を名乗るなんて……」

 弓弦に邪な感情を抱いていた事などすっかり頭から飛び、私は英智さまに向かって何度も頭を下げていた。すると、どこか面白くなさそうに弓弦が私の頭上で声を掛ける。

「樹里さん。会長さまはまだ卒業されていないのですから、『英智さま』ではなく『会長』とお呼びくださいましね」
「はい、すみません、会長……私ごときが……ううっ……」

 最早顔を上げる事すら出来なかったけれど、私の髪が誰かの手によって優しく撫でられた。この流れから弓弦ではない事だけは分かる。また恐る恐る顔を上げると、英智さま――会長は満面の笑みを浮かべながら私から手を離した。

「桃李が何やら面白い事をやると小耳に挟んで来たけれど、まさか樹里ちゃんが男装して出るとはね。さすがに予想出来なかったよ」
「ごめんなさい……今日限りなのでどうかお許しを……」
「こらっ、誰も怒ってないのだから、そう簡単に頭を下げないの。寧ろ今日のステージを見れて本当に幸運だったよ。桃李たちの成長は勿論のこと、樹里ちゃんも春からどういう方向で売り出していくか、ヒントが掴めたしね」
「はい?」

 会長の言っている事はまるで抜き打ちテストのようで、思わず血の気が引いた。単なるサポートメンバーで今日限りだと思って、無我夢中でパフォーマンスをしただけだというのに、今日のこのステージでアイドル復帰後の方向性を決めるだなんて。

「会長、待ってください!!」
「会長〜! ボクたちの事、観ていてくれたんだね!」

 私の嘆きは桃李くんの愛らしい声によってかき消され、会長も私の訴えは聞かないとばかりに桃李くんに向かって歩を進めた。どうしてこんな事に……と落ち込むあまり地面に目を落とす私の視界に、こちらへ駆け寄る影が見えた。
 顔を上げようとした瞬間、私は誰かの腕によって抱き締められていた。このタイミング、柔らかな感触。相手が誰なのか考えるまでもない。

「あんず……色々とありがとう。本当、気を遣わせちゃったね」
「ううん、桃李くんと仲直りするなら実力行使!って思ったし、それに……」

 あんずは一瞬言い留まった後、意を決したように言葉を続けた。

「私がDDDでTrickstarの一員としてステージに立ったの、樹里ちゃん、気付いてたよね?」
「……そういえば……そうだったかな?」
「樹里ちゃん、やろうと思えばTrickstarを失格に出来たのに、気付いててわざと見逃してくれたよね。あの時、樹里ちゃんは絶対に敵じゃない、自分の意思で行動できる子だって心から思えたの」

 そういえば、転入してもうすぐで一年という事は、DDDも最早一年近く前の話になる。そんな事もあった、とふと懐かしく感じたけれど、まさかあんずがその事を今も思ってくれていたなんて。

「いつか何かの形で恩返ししたいって思ってたけど……こうして同じような事が出来て、私自身も良かったって思ってるんだ。私がTrickstarの一員なら、樹里ちゃんだってfineの一員だよ」
「それは言い過ぎ! 一人になった明星くんにずっと寄り添っていたあんずほど強くはなれないよ」
「当日急にステージに出ろって言われて、しっかりパフォーマンスこなせる樹里ちゃんだって十分強いと私は思うなあ」
「ダメダメだったじゃん! まあ、駄目だって気付けたから収穫はあったけど……」

 つい本音を零した私に、あんずは満足そうに笑みを浮かべれば、私の背中を優しく撫でてくれた。

「すっごくかっこよかったよ、樹里ちゃん」

 春からプロデュース業とはまた違う、新しい道に進むけれど、別にプロデューサーを止めるわけではないし、あんずと一緒なら様々な困難を乗り越えていける。そう言い切れる。

 奇しくも春からの生活への不安はなくなりつつあったけれど、それまでに解決しなければならない事がある。
 再びアイドルとして生きる事に迷いはない。ならば、密かに育んで来た恋は諦めないといけない。どちらも、なんて器用な事は出来ない。アイドルが隠れて恋愛しているなんてファンが知ったらどう思うだろう。自分の未来を考えれば考える程、弓弦との関係はけじめを付けなければならないと思うようになった。弓弦の事を異性としても、ひとりのアイドルとしても愛しているからこそ、終止符を打たないと。自分の未来の為だけではなく、弓弦の未来の為に。

2020/07/29


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