Remous



 多分あの夜は悪い夢か何かだったんだと思う。いくら非日常的な空間だったからと言って、口にして良い事と悪い事がある。本当に、どうしてあんな事を口走ってしまったんだろう。まさか、冗談とはいえあんな答えが返ってくるなんて、夢にも思ってなかったから、どう心の整理を付けたらいいか分からなかった。……いや、冗談に決まっているのだから、流せばいいだけの話だ。それなのに、あの夜の事を思い出す度に顔が熱くなって、胸が苦しくなって、泣きそうになって、どうしたら良いのか分からなくて、ろくに眠れない日が続いていた。
 きっと、彼の冗談めかした告白を聞いて、私は彼に恋をしているのだと気付いてしまったから。あの告白を、冗談だと分かっていながらも本心だと思いたいから、こんなに苦しいのかもしれない。





 変わったのは私の胸中だけで、日々は何事も変わらず過ぎていく。睡眠不足で頭が働かずぼうっとしながら教室に入った私の視界に、幼馴染の男子を背負う男子の姿が入る。いつもと変わらない、見慣れた光景だ。

「おはよ、衣更くん、朔間くん」
「遠矢、おい〜っす」

 衣更くんが朔間くんを背負って登校するのは、夏になっても変わらない。というか、これから徐々に暑くなる事を考えると、尚更朔間くんの体調が気掛かりになってくる。本当にただ単に朝に弱いだけならまだ良いのだけれど。

「ねえ衣更くん、朔間くんって朝は一年中こんな感じなの?」
「ん? まあいつもこうだな……ほら凛月、いい加減起きろって。遠矢も心配してるぞ」
「待って、無理に起こさなくてもいいよ」
「いや、もうすぐで授業も始まるから。寝てて困るのは凛月本人だしな」
「ふぁあ……ふ」

 衣更くんと私の声で漸く現実世界へと戻って来たのか、朔間くんは気だるげに欠伸をしながらゆっくりと目を開け、衣更くんの背中から降りた。

「はい、ちゃんと起きたからま〜くん、褒めて」
「褒めるも何も当たり前のことだろ〜?」

 やれやれと溜息を吐く衣更くんに、朔間くんは我儘でも言うのかと思ったけれど、違った。私の顔を紅い瞳でじっと見つめて来たのだ。綺麗だけど恐さも感じるその目を見て、ぼんやりしていた頭がすこし明瞭になった気がする。

「あんたこそ、眠そうだけど大丈夫?」
「え?」
「顔色も悪いし……元気だけが取り柄なんだから、休める時にちゃんと休まないと駄目だよ」

 珍しく朔間くんが優しい言葉を掛けるものだから、つい目を見開いてぽかんとしてしまった。

「おっ、凛月が珍しく遠矢に優しいな〜」
「俺はいつでも優しいけど」
「でも確かに顔色悪いな。辛かったら無理するなよ? 七夕祭も控えてる事だし。本番になって倒れて、今までの頑張りが無駄になったら嫌だろ?」

 私は衣更くんの気遣いに、素直に頷いた。この時は朔間くんから優しい言葉が出て来たことに対してただ驚いていたのだけれど、逆に、普段は辛辣な朔間くんが優しいということは、それだけ私が困憊して見えたからなのだと、気付くことが出来なかった。

「おはようございます」
「おっ、伏見。おい〜っす」

 その名前が耳に入った瞬間、一気に頭が真っ白になった。平常心を保つ為に必死で顔を作って、変なテンションにならないように、とにかくいつも通りを心掛けなければ。

「おはようございます、樹里さん」
「おはよ、伏見」

 なんとか笑顔を作って挨拶したけれど、彼の顔をまともに見ることが出来なかった。私の視線は彼の顔より少し下を捉えていて、シャツの襟が第二ボタンまで開いている事に今更ながら気付いて、真面目なのか不真面目なのかよく分からないヤツだ、なんて呑気な感想が脳裏をよぎる。

「わたくしの胸元に何か付いていますか?」
「へ?」
「いえ、じっと見られているものですから」

 彼は不思議そうに訊ねてきたけれど、なんて答えたらいいか分からなかった。まさか彼の顔を直視しようものなら、あの夜のことを思い出して見惚れてしまうかもしれない、なんて。いけない、思い出したらまた気恥ずかしくなってきた。

「ううん、なんでもない」

 失態を演じる前に早く離れた方がいい。そう思って、私は適当に誤魔化してそそくさとその場を後にして、自席に着いた。

「伏見、遠矢と喧嘩でもしたのか?」
「いえ、特には……」





 七夕祭。
 桜フェスと違い、夢ノ咲の伝統行事ではなく、プロデュース科が立案した新しいドリフェスだ。
 と言っても、一番最初にアイディアを出したのはあんずで、私が日々の雑務に追われている間に大まかな段取りを決めたのもあんずで、今、細かな調整を行っているのもあんずがメインで、最終調整や当日の運営も、あんずがメインになるのだろう。
 そう、つまり私は何も出来ていないのだ。

「樹里ちゃんが背中を押してくれて嬉しい。一人だったら、上手くやれる自信がなかったから」

 あんずはそう言ってくれた。きっとその言葉に偽りはないと思うけれど、残念ながら、周りはそうは見てくれない。アイドル科の生徒たちの目はシビアだ。あんずの方が私よりも仕事量が多く、幅広い生徒の面倒を見ていることは、多くの生徒が気付いているに違いなかった。

『笑う門には福来る』、そんな事を過去に誰かが、人生経験のある大人が言っていた気がする。どんなに辛くても、笑顔でいたらいつかきっと誰かが手を差し伸べてくれる。誰かが分かってくれる。そして、いつの間にか悩み事は解決して、ふとした瞬間にささやかな幸せを噛み締めたりして、そんな風に生きていけたらどんなに良いだろう。
 逆に、一度負の感情に支配されてしまうと、事態はどんどん悪化していく。誰も信じられなくなって、ひとりぼっちになって、自分の殻に閉じこもってしまう。そんな奴に救いの手を差し伸べる人なんて、いない。



 いつから歯車が狂い始めたのかは分からない。彼に恋心を打ち明けた、あの夜からだろうか。いや、それとこれとは関係なくて、もっと前から噛み合わなくなっていたのだと思う。あまりにも日々が上手く行き過ぎていて、でもそう思っていたのは私だけで、私だけがそう思い込んでいただけで、本当は全然出来ていなかったって事実を突き付けられた時、人の心はあっさりと壊れてしまうのだ。





「樹里ちゃん!?」

 ある日の昼下がり、私は教室で意識を失った、らしい。たまたま近くに鳴上くんがいて、咄嗟に私を抱えてくれて、頭を打ったりはしなかったそうだ。教室はちょっとしたパニックになって、喧騒の中、私は大神くんに背負われて保健室に運ばれたのだという。他人事のような言い方をしてしまうのは、その間の記憶が全くないからだ。



「おっ、起きたか?」

 意識が徐々に戻り始め、呻きながら身じろぎをすると、私の目の前が影で覆われた。なんとか目を開けると、眼前に大神くんの顔があってつい反射的に素っ頓狂な声を上げてしまった。

「ひえっ」
「ああ? 俺様の顔を見て悲鳴を上げるなんざ、いい度胸してんじゃね〜か」
「違うって、ちょっとびっくりしただけ」

 どうして大神くんが私の目の前にいるのか、というより私は今どこにいるのか。その疑問はすぐに解消された。仰向けになっている私を覆う白いシーツに、視界に入る仕切りカーテン。私が身じろぎする度に軋むベットの音。つまり、ここは保健室だ。

「大神くん、私、もしかして、倒れた……?」
「おう。皆心配してっぞ。大体無理しすぎなんだよてめ〜はよ」
「大神くんがここまで運んでくれたの?」
「ああ、ちょうど伏見がいなかったからな」

 どうしてそこで彼の名前が出て来るのか。まあ、私の面倒を見る係とでも認識されているのだろう。転入当初から世話を焼いて貰っているわけだし。

「大神くん、ごめんね。迷惑掛けて」
「迷惑なんて掛かってねえよ。授業サボる口実が出来たしな、気にすんな」

 大神くんはそう言って口角を上げ、笑みを浮かべてみせた。転入当初の頃こそ、ちょうど龍王戦に遭遇したせいか乱暴で問題児というイメージがあって恐かったけれど、DDDが終わってからだろうか、普通に話すようになって、大神くんは悪い人ではないと認識を改めるようになったのだ。

「ありがとう……と言いたいところだけど、今日って座学メインだよね。体動かせないからってサボろうとしちゃ駄目だよ」
「机の上でのお勉強なんざ、アイドル活動に関係ねえだろ」
「アイドル科の授業で、アイドル活動の為にならない勉強なんてないよ」
「説教する元気があるなら全然大丈夫じゃね〜か! 心配させやがって」

 悪態を吐く大神くんに、つい笑みが零れた。別に説教をしたいわけではなく、そういうキャラではないのだけれど、学校の勉強に無駄なことなんてない。まあ、苦手な教科ややりたくない事も、いずれ自分の実になると思えば頑張れるという、あくまで自論だけれど。

 和やかな雰囲気の中、突然扉を開ける音がした。次いで、保健室にはそぐわない、ばたばたとうるさい足音が響いたかと思えば、カーテンが開かれ、蛍光灯の光が一気に入ってきた。

「樹里さん、大丈夫ですか!?」

 突然現れたのは、いつもの飄々たる態度とは全く異なる、珍しく狼狽した表情をしている伏見だった。

「おせ〜ぞ、伏見。また姫宮にくっついてたのかよ」
「申し訳ありません、まさかこんな事になるとは……」
「ったく、遠矢は無事だったからともかく、いい加減姫宮は自立させてやれよ。てめ〜は姫宮のママかよ」
「まあまあ、大神くん。ていうかそれこそ伏見は私の保護者でも何でもないわけだし……」

 いつもは大神くんに対して割と強気な発言をしている彼がここまでしおらしいのは、私のせいだ。今私が言った通り、別に彼は私の保護者でも何でもない。副会長から色々指示は受けているだろうけど、私の体調管理やら何かあった時の対処やらは、当然管轄外だ。彼がそこまでする義理もないし、私もされる謂れはない。

「伏見もごめんね、わざわざ来て貰って。大丈夫だから」
「突然倒れるなんて、只事ではありませんよ。大事を取って今日は早退された方がよろしいかと」
「え、でも七夕祭の準備が……」
「今無理をして当日になって穴を開けるより、今のうちにしっかり体を休めて当日に備えた方が良いとわたくしは思います」
「伏見に同意するのは癪だけどよ、俺様も今回はそう思うぜ」

 二人掛かりでそんな事を言われては、素直に頷くしかなかった。そもそも、自分の体調管理に問題があったからこんな事になったのだ。ただの睡眠不足だとは思うけど、疲れもあるのかも知れない。無理をしていた自覚はある。

 あんずが鬼龍先輩から裁縫を教わって、生徒達のステージ衣装を手作業で作っている事を知って、私も少しずつ手伝うようになっていた。それに加えて、あんずもたまにアイドル科の生徒の校内アルバイトを手伝っている事を知って、私も居ても立っても居られなくなって、あんずがスケジュールの都合上手伝えない時は率先して私が穴を埋めるようにしていた。それはあんずと協力しないと出来ない事だから、自然と連携する事も増えていって、いつの間にか彼女への呼称は『あんずちゃん』から『あんず』へと変わっていた。彼女に対する壁がなくなったからなのかもしれない。
 それ自体は非常に良い事だ。たった二人しかいないプロデュース科なのだから、もっと早く壁を崩せていればどんなに良かったかと思う。

 ただ、冷静に考えれば、これは良い事だ、という話で終わらせてはいけない。
 衣装製作や校内アルバイトの手伝いは、プロデューサーとしての業務の範疇を超えている。本来は、生徒会に限りなく近い存在であり、生徒会長への意見が通りやすい立場にいる私が、上手く効率化を図っていけるよう取り組まなければならないのだ。皆が鬼龍先輩に衣装製作を依頼するような、一部の生徒に負担がいく状況や、下手をしたらアイドルとしての練習時間を犠牲にして校内アルバイトをしないと活動資金が得られない状況を、変えていかなければならないのだ。

 そんな簡単な事に気付かずに、私は自分の身体の限界も考えずに、知らず知らずのうちにまた同じことを繰り返していた。前の学校の時のように。

「――分かった。大事を取って今日は早退して、明日からまた頑張る」
「明日もお辛いようでしたら、無理しないで休まれてくださいね。何度も言って申し訳ないですが、当日穴を開けられては本末転倒です。七夕祭の準備は人海戦術でどうにでもなりますが、当日の運営は、樹里さんも充分ご存知とは思いますが生徒会の人間だけでは数が足りませんから」
「分かった分かった、お説教は間に合ってるから」

 本当に体調が悪いんだろうか、彼の小言が頭に響いて物理的な痛みを感じる。これ以上二人の時間を取らせない為にも、早く帰った方がいい。そう思って、ベッドから起き上がって、地に足を付けた瞬間。

「樹里さん!?」
「おい、全然大丈夫じゃないじゃね〜かよ!」

 ただの立ち眩みなのだけれど、またふっと頭が真っ白になって、後ろに倒れそうになった。慌てて二人が支えてくれて倒れずに済んだけど、さすがにこの状況はまずい。馬鹿な私でも、これ以上無理をしたら本当に大勢の人に迷惑を掛けてしまうと思った。

「今、先生を呼んで来ますね。樹里さん、親御さんはご自宅にいらっしゃいますか?」
「うん、お母さんなら家に……」
「承知致しました。大神さま、わたくし少しだけ席を外しますが、その間、よろしくお願い致します」
「おう、任しとけ。ったく、こういう時になんで保険医もいね〜んだよ!」

 ああ、結局早くも皆に迷惑を掛けている。後悔したってもう遅いのだけれど。自分の馬鹿さ加減に涙が出るやら、無力さが悔しいやら、色んな負の感情が込み上げてきて、いつの間にか、私は再び目を閉じていた。



 その後の事は覚えていない。というか、意識を失っていたのだから無理もない。
 教師の判断で私は近くの病院に運ばれて、検査を行った結果、単なる寝不足で倒れたのではなく、無理が祟って心身共に弱っているのだと判明した。元々、前の学校にいた時もハードスケジュールなのに加えて、睡眠不足や無理なダイエットなんかもしていて、アイドルの道を諦めて転学を決めた頃にはもう身体はぼろぼろだった。環境を変えて普通に戻れたと思って油断していた。また、同じことを繰り返してしまったのだ。もう私は裏方だしダイエットなんて必要ないのだけれど、忙しさにかまけて食事を忘れていた事が多くなっていた。健康体の人ならある程度無理はきくのだろうけれど、一度壊れてしまった私が同じ事をするには、限界があったのだ。



 結局、倒れた翌日だけでなく数日休む羽目になってしまった。やっと登校した私は快く出迎えられたけれど、快く思わない人だっている事は、充分すぎるほど分かっていた。いくら本番が大事とはいえ、準備だって大事な期間だ。やるべき事がある時に穴を開けた事実は変わらない。ましてや私は、あんずが最初に結果を出した時に何も出来ていない前科がある。生徒会が圧力をかけていたからなんて、そんなのはただの言い訳だ。だって、生徒会の圧力を受けていた生徒たちが、見事に革命を起こしてみせたのだから。



「遠矢って倒れるほど働いてるか?」
「いや、隣のクラスのプロデューサーの方が余程働いてるだろ」
「だよな、生徒会に上手いこと取り入ってる癖に、何の役にも立ってないよな〜」
「あーあ、ハズレ引いたよなうちのクラス」



 あまりにも日々が上手く行き過ぎていて、でもそう思っていたのは私だけで、私だけがそう思い込んでいただけで、本当は全然出来ていなかったって事実を突き付けられた時、人の心はあっさりと壊れてしまうのだ。

 私への否定の言葉が聞こえよがしに耳に入った瞬間、前の学校でのトラウマが蘇って、ああ、もう駄目かも、なんて思ってしまった。今すべてを投げ捨てたら、今までの努力が無駄になる。けれど、無駄な努力をし続けることに何の意味があるのだろう。やっぱり当初の予定通り、普通科に転学していれば、普通の学校生活を満喫して、もしかしたら恋なんかもしたりして、思う存分青春を味わって、ささやかな幸せを噛み締めていたかもしれない。そう思うと、今頑張っている意味が分からなくなった。

 ――いや、駄目だ。後ろ向きになるのはいい。だけど、今はもう逃げて許される立場ではない。ここで全てを捨てたら、皆に迷惑が掛かる。最悪、私を悪く言う人たちだけに迷惑が掛かるならまだいい。でも、そうじゃない。間違いなく、私に良くしてくれる人たちに一番迷惑が掛かるのだ。同じプロデュース科のあんず、転入当時からずっと何かと気に掛けてくれる桃李くんと日々樹先輩、私に居場所を与えてくれた生徒会長、副会長、生徒会の皆、こんな私を頼ってくれるアイドル科の生徒たち、そして、こんな私に愛想をつかさずに、ずっと陰で見守ってくれていた彼に、これ以上迷惑は掛けたくなかった。

 これ以上、迷惑は掛けたくない。
 これは私個人の問題だ。だから、誰にも頼ってはいけない。甘えてはいけない。全部、一人で乗り越えないといけないんだ。でないと、例え一方的な感情でも、彼を好きでい続ける資格すらない。そんな気がした。



 一度負の感情に支配されてしまうと、事態はどんどん悪化していく。誰も信じられなくなって、ひとりぼっちになって、自分の殻に閉じこもってしまう。そんな奴に救いの手を差し伸べる人なんて、いるわけがないのに。

2018/11/21


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