Threat



 サーカス当日、私は早朝から裏方業務に明け暮れていた。
 幸い天候も良く、屋外の会場は近隣に動物園などがあることもあって、大勢の来客で賑わうことだろう。最悪雨が降っても、サーカスはテント内で行うから大丈夫だと思ってはいたけれど、客足に響くことを考えると、晴れてくれて本当に良かった。

 天祥院家が雇った係員の人達と共に、会場の設備を確認したり、ショーに使う動物たちの面倒を少しだけど見たり、あとは避難経路確認のために会場周辺を把握したり……避難するような事態が起こらないようにするのが私たちの役目だけれど、念には念を押さないといけない。前日までに入念に確認していても、当日何が起こるか分からないのだ。

 開場はまだ先だ。ひと段落して、テントの外で缶の紅茶のプルタブを開けてちびちびと飲みながら、束の間の休息を味わっていると、こちらへ歩み寄る人影が見えた。

「おや? 樹里さん、おはようございます」
「あれ? おはよう、伏見。随分早いね」
「樹里さんこそ、あまり寝ていないのではないですか?」
「えっ」

 まさか目の下にクマでも出来ているんだろうか。それともそんなに疲弊した顔をしているとか? どちらにしてもみっともない。手鏡で確認しようと思ったけれど、彼の目の前でその動作を行うというのも、それはそれで恥ずかしい。

「どうかしましたか?」
「私、そんなに疲れた顔してる?」
「は?樹里さんのスケジュールを鑑みると、昨夜も遅くまで会場にいたのではないかと思いまして」

 どうして私のスケジュールを把握してるのか、と疑問に感じるより先に、恥ずかしいことだと思った。プロデューサーがアイドルに気を遣われるなんて。

「人の心配よりもまずは自分のことでしょ? ……まあ、伏見なら大丈夫だと思うけど」

 ああ、もう。どうしてこう素直になれないんだろう、私は。相手はアイドルで、本番を控えているのだから。本来は激励すべきなのに。

「ごめん、伏見。今の台詞は忘れて」
「そうですね、わたくしも正直、ちゃんとこなせるか不安です」
「は!?」

 彼の口から、まさか弱音が出てくるなんて。いや、今日のサーカスは失敗が許されず、完璧を求めるからこその発言なのかもしれない。今私に出来ることといえば……。

「あ、そうだ。設営も終わったし、今から予行練習してみる?」
「よろしいのですか? わたくしだけ先に練習させて頂けるなんて」
「何言ってんの、伏見だって立派なfineの一員なんだから、いつも通りしっかりして貰わないと困る。ちょっと練習すればすぐに自信取り戻せるでしょ」

 そう、彼にはいつものように沈着冷静に構えて貰わないと。なんだかこっちの調子まで狂うし。というか、こういう台詞を私より先に言うはずの人物が見当たらない。

「伏見。姫宮くんは?」
「坊ちゃまは車内で仮眠を取っております。昨夜も遅くまで練習していたものですから」
「なるほど。休める時に休んでおいた方がいいね。ああ、でも……そっかあ……うーん」

 すっかり頭から抜けていた。姫宮くんのご機嫌が(私に対してだけ)斜めなことを考えると、伏見だけ練習させるのもなんだか特別扱いしているみたいで、後々知られたら面倒なことになりそうだ。ましてや今日が大事な本番なのだし。余計な刺激は絶対に避けたい。

「樹里さん、どうかしましたか?」
「あ、いや……伏見だけ特別扱いしたのが姫宮くんにバレたら、まずいことになりそうだなって」
「別にわたくしは構いませんけれど」
「伏見が構わなくても私が構うの! ああ、でも伏見にはいつもの伏見に戻って貰わないと困るし……うう〜どうしよう」

 困った。どうすればいいんだろう。伏見の言う通り、姫宮くんの機嫌を損ねたくないのは単なる私の我儘だ。姫宮くんなら例え不機嫌であっても、お客様の前でパフォーマンスを披露している間、負の感情を露わにすることはないと言い切れる。それは、これまで大小問わずライブを見て来たから分かっているつもりだ。あの子は自然な笑顔で場を華やかにすることが出来る、天性の才能を持っている。それならば、困るのが私だけで済むのなら、ここは伏見だけ先行して練習させるのも有りではある。

「よし、決めた。じゃあ伏見――」
「いえ、事前練習はしなくても大丈夫です。会長さまと日々樹さまの到着を待ちます」
「は?」
「わたくしと坊ちゃまに振り回されて右往左往する樹里さんを見ていると、なんだか元気が出てきました」
「はあ〜〜〜!?」

 こ、この男……! もう開いた口が塞がらない。思わず大きな声で非難の感情を込めて呆れ果てた声を出してしまった。少しでも心配して損した。もう、本当に損した!

「じゃあ絶対に本番でしっかりやってよね! ミスしたらただじゃおかないから!」
「『ただじゃおかない』とは、一体どんな処罰が待っているのでしょうか」
「えっと、それは……その……その時になって考える!」
「まあ、仮にわたくしがミスをしたところで、樹里さんは何もしないと思いますけれど。何も考えていらっしゃらないようですし」

 もう嫌だ。なんで朝からこんなに弄られないといけないんだ。こんな下らない事で疲弊したくない。これ以上の会話は無意味だ。係員の皆のところに戻ろう。紅茶も飲みかけだし、休憩で外に出たのにゆっくり飲むことすら出来やしない。
 踵を返した瞬間、彼が声を掛けてきた。

「樹里さん、もう行かれるのですか?」
「これ以上苛められる前に仕事に戻る」
「では、最後にひとつだけ。わたくしに激励の言葉を頂けませんか?」

 何? やっぱり不安なわけ? この男の場合、からかっているのか本音を言っているのか全く分からない。けれど……本音だとしたら無視するのは駄目だ。プロデューサーなんだし、そういう事もやらないと。仮にからかっているだけだとしても、激励したところで私は何を失うわけでもない。
 仕方なく振り返って、小さく呟いた。

「伏見なら絶対出来る。大丈夫だから。今日のサーカス、絶対に成功させようね。会長だけでなく、姫宮くんの為にも」
「…………」
「黙られるなら言わなきゃ良かった」
「いえ、すみません。坊ちゃまに嫌な態度を取られても、変わらず坊ちゃまのことを好いていてくださって、少々驚いているのです」
「まあ、だって、元はと言えば私が悪いわけだし……」

 結局のところ、引き金となったのは私が彼のお弁当を食べたから――もあるけれど、その前に姫宮くんがあんずちゃんに抱っこされながらご飯を食べていることや、普段彼にそうして貰っていることを知って若干引いてしまって、私のそういう感情を向こうが察したのもあるだろう。何かひとつ気に入らないことがあったからではなく、ちょっとした積み重ねでこうなったのだ。つまり、プロデューサーとして私の配慮が欠けていた。それだけだ。

「あまり気に病まなくても大丈夫ですよ。それよりも、ずっと気になっていることがあるのですが」
「ひとつだけじゃないじゃん! もう、この際だし別にいいけど」
「樹里さん、どうして坊ちゃまのお弁当を食べたんですか? いえ、決して責めているわけではないのですけれど」

 取り繕う言葉が思い付かない。まあ、ここまで来たら別に本当のことを言ってしまってもいいか。

「あの時の伏見、姫宮くんがあんずちゃんにべったりで明らかに機嫌悪かったからさ……私があえて変な行動を取ることで、伏見が『うわ、変な女だ』って思って、そのインパクトをもってして姫宮くんに対する怒りがおさまればいいなあと……」
「ほう、随分と面白い思考回路ですね」
「それ褒めてないよね? 貶してるよね?」
「どちらとも言い難いですが……というか大変申し訳ないことに、わたくし怒りがおさまらず、あの後サーカスの練習で坊ちゃまにチェーンソーを向けて泣かせてしまったんですよね」
「…………」

 何それ。チェーンソー?
 ああ、あれか、人体切断ショーか。だからって、従者が主にそんな凶器を普通向ける? その時の姫宮くんの気持ちを思うと同情を禁じ得ない。
 というか、あの時の私の努力、というか恥を捨てた行動はすべて無駄だったというわけか。

「ふふっ、樹里さんにはそんなことは致しませんので、ご安心を」
「全く信用出来ないから、伏見のことは怒らせないようにするし、極力距離を置くようにするね」
「そんな寂しいことを言わないでくださいまし」

 彼はわざとらしい悲しげな声で言えば、両手で顔を覆う。もう何が本音で何が演技かますます分からない。ああ、なんだか頭痛がしてきた。呆れ果てて黙り込んでいると、彼は顔からぱっと手を離して非常に良い作り笑顔をしてみせた。やっぱり演技じゃん。

「樹里さん。なんだかんだで励ましてくださって、ありがとうございます。fineの為、そして坊ちゃまの為にも、今日のサーカス、絶対に成功させましょうね」
「ま、私は何をするわけでもないけど」
「じゅうぶんすぎるほど貢献しているではないですか。陰で支えてくださる方がいてこそ、わたくしたちもステージに立つことが出来るのですから」

 逆に励まされてしまった。結局は彼のほうがずっとずっと上手で、私は彼に遊ばれてばかりで……それも致し方ない。私はまだまだ未熟なのだし。私が立派なプロデューサーになれば、弄られることもなくなるだろう。そう信じたい。





 立派なプロデューサーになれば――
 そう決意したのも束の間、姫宮くん、会長、日々樹先輩、葵兄弟も揃って、最後のリハーサルをしようという矢先のことだ。

「そこまで入念に確認しなくても大丈夫でしょう。英智の体力のこともありますしね」

 日々樹先輩の言葉に、姫宮くんは最初は「はあ?」と声を上げたが、会長の名前が出た途端に顔色が変わった。

「ロン毛の意見に従うのは癪だけど、会長には万全の状態で本番に挑んで欲しいし……まあ、散々練習してきたしいいかもね」
「すまないね、渉、桃李」
「ううん、いいんだよ会長〜! ボクたちなら絶対成功できるもんね!」

 申し訳なさそうに眉を下げて微笑む会長に、姫宮くんは満面の笑顔できっぱりと言い切った。姫宮くんがそう言うと、本当に大成功を収められると思えてくるから不思議だ。

「と、いうわけで」

 突然、日々樹先輩の顔がぐるりとこちらを向く。まるで獲物を見つけたハイエナのようで、思わず逃げ腰になって後退りした。けれど、180センチ近くある大の男を相手に勝てるわけもない。私は悲鳴を上げる暇もなく、こちらに向かって駆けて来た日々樹先輩に荷物のようにひょいと抱えられ、控え室へと連れられてしまった。



「妖精さんは随分おとなしいですねえ。友也くんなら『殺すぞ!』と叫びながら暴れているところですよ」

 真白くんと話す機会はあまりないのだけれど、さぞかし気苦労が絶えないだろうなと同情せずにはいられなかった。今度会った時は差し入れにお菓子でもあげようかな。

 控え室に入って、漸く地上に降ろして貰えた。ほっとする間もなく、日々樹先輩は一着の衣装を差し出してみせた。

「えーっと……これは……姫宮くんの衣装、とは違いますよね」
「あなたの衣装です」
「はあ!?」

 衣装を差し出されるなんて、つまりそれってステージに立てということ? まさか曲芸を披露しろなんて馬鹿な話はないだろう。けれど、これはfineと2winkのステージだ。主役はアイドルであり、アイドルしか舞台に立ってはいけない。プロデューサーが表舞台に出るなんて以ての外だ。私の信念に反する。

「日々樹先輩。私、ステージには――」
「おい! ふざけるなよロン毛〜!!」

 私が言い切る前に、控え室の外で会話を耳にしたらしい姫宮くんが、ずかずかと乗り込んできた。

「おまえ、何考えてるんだ! こいつはアイドルじゃないんだぞ! こんなやつステージに上げるなんて絶対にダメだ〜!」
「そうですよ日々樹先輩! 姫宮くんの言う通りです!」
「そうだそうだ! って、え?」

 私は絶対に表に出たくないので姫宮くんに加勢したのだけれど、姫宮くんはそれが意外だったらしく、私に顔を向けてぽかんとした表情を浮かべた。別に、変なことは言っていない筈だけれど。

「私はプロデューサー、皆を陰で支える立場です。アイドルだけが立つことを許された神聖なステージに、私が立つ資格はありません」
「樹里……」

 日々樹先輩を見上げて、毅然とした態度で言い切った。姫宮くんは何故か、目を見開いて私を見つめている。私たちの騒ぎを聞きつけてか、他の皆も控え室にやって来た。

「ちょっと、仲間割れ〜? 本番前なのに勘弁してくださいよ〜」

 葵……ひなたくんの方が呆れるように呟いた。その横で弟のゆうたくんが、日々樹先輩が手に持つ衣装に気付いて、事情を察したようだ。

「まさか遠矢先輩をステージに上げようっていうんですか?」

 葵兄弟に続いて、伏見と会長もやって来た。さすがにこの二人も表情を歪ませた。

「日々樹さま。いくら樹里さんが従順だからといって、好き勝手なことをしないでくださいまし」
「渉、いくら君の願いであっても、さすがにこれは聞き入れられない」

 この場にいる全員の責める視線が、日々樹先輩に突き刺さる。一方、日々樹先輩は呆気に取られたように口を半開きにして、暫くして事情を説明した。説明という程のことでもなかったのだけれど。

「皆さん、何を勘違いされてるんですか? 私は妖精さんにこの衣装を着せて、外で客引きして貰おうと思っただけですよ」

 日々樹先輩以外の、この場にいる全員が思い切り脱力したのは言うまでもない。





 かくして、まるで幼い女の子じゃないと許されないような、可愛らしいピエロの衣装に身を包んだ私は、開場と同時に外で客引きをやらされるのであった。
 これ、何の罰ゲーム? 私、何か悪いことした?

「さあさあ、夢ノ咲学院の最強ユニット『fine』と、双子の新生ユニット『2wink』のサーカスが間もなく始まります! チケットをお持ちの方はどうぞこちらへ! お持ちでない方も、モニターで中継が見れますので是非、お立ち寄りくださーい! 良かったら物販も見ていってくださいね〜!」

 来場客の子供に風船を配りながら、愛想の良い笑顔、無駄に明るい声で会場前で来客対応をする。
 というか自分で言っていて気付いたけど、チケットはとうに完売している。客引きなんてしなくてもお客様は来る。こんな事をする必要なんてないのに……日々樹先輩はわざと私をからかって遊んでいるのだろうか。ああ、本当に今度真白くんに会ったら何かしら労わってあげたい。

「あ、あの子、ローカル放送で宣伝してた子じゃない?」
「アイドルじゃないのに仮装までして、体張ってるね」

 ああ、来場者の視線が痛い。

「ていうかあの子もアイドルっぽいよね」
「でも夢ノ咲のアイドル科って男子だけでしょ?」
「プロデュース科じゃなくて実はアイドル科だったりして」

 違う。断じて違う。今の私はもう、『そう』じゃない。通りすがりの会話が聞こえただけだから、駆け寄って「違うんです!」なんて言えないし。変な噂立てられないといいけど。ああ、もう、今私がこうして表に出てることって、学院にとってマイナスじゃないの!?

「お姉ちゃん、風船ちょうだい」
「あ、はい! どうぞ! 楽しんでいってね」

 アイドルが好きな女子だけでなく、小さい子も多い。ローカル放送で宣伝した影響か、家族連れも多い。風船、足りるかな。

「おねえさん、わたしも風船欲しいな」
「はい、どうぞ」
「チケットが取れなかったってママに言われたんだけど、それでもいい?」

 風船を手渡そうとしたら、女の子が遠慮がちに訊ねてきて、はっとした。

 チケット完売の弊害が早くも訪れた。チケットが早々に完売したことで「そんなに凄いイベントなんだ」と普段アイドルにそこまで興味がない層にも思わせることに成功し、更にそれが大盛況に終われば、次のイベントの集客に繋がる。野外ライブであれば遠くから見ることも可能だけれど、今回は屋内だから、席数には限界がある。

 次の課題にしよう。そう思いながら、しゃがんで女の子の目線に合わせて風船を手渡した。

「うん、勿論だよ。チケットがなくても、あそこにあるモニターでショーの中継を見ることができるから、良かったら見て行ってね」
「ありがとう、おねえさん!」
「楽しんでいってね。猫さんのダンスショーもあるよ」
「わあ、楽しみ!」

 満面の笑みになった女の子が、私に手を振って駆けて行くのを見送って、ほっと一息吐いたと思いきや。

「さあさあ皆さまお立ち会いっ、これを見逃せば末代までの恥! 夢ノ咲学院が誇るアイドルたちのサーカスが、もう間もなく始まりますよ!」

 日々樹先輩の馬鹿でかい声が、遠くから響いてきた。どうやら日々樹先輩も客引きをしているようだ。

「Amazing! そこの道行く旦那さま、奥さま! 子供たち! 犬も猫も! 女房を質に入れてでもご覧くださいまし、世紀のショータイムを……フハハハハ!」

 すらすらとあんな台詞が出てくるなんて、やはり演劇の世界で場数をこなしているだけある。いや、持って生まれた才能だろう。『三奇人』の名は伊達ではない。というか、やたら鳩が舞っているけれど、一体どういう仕組みで召喚しているのか不思議だ。まさか本当に魔法か何かで召喚しているんじゃないか。

 なんて馬鹿な考えが一気に吹っ飛ぶ事態が発生した。
 貸与されている、緊急連絡用のスマートフォンの着信音が鳴る。

「はい、遠矢です」
『遠矢か? 俺だ』
「蓮巳せんぱ……す、すみません、副会長!」
『呼称はいい。そんな事より緊急事態が発生した。こちらで何とかするが、貴様にも情報共有しなくてはならんと思ってな』

 一体何が。緊急事態だなんて。副会長の声も明らかに焦っていて、いつもの沈着冷静さは感じられない。

『英智が猛獣ショーで使うライオンが脱走した』
「脱走……って、ええ!?」

 一瞬にして頭が真っ白になった。よりによってあのライオンが。最悪、猛獣ショーは急遽取りやめてもそこまで支障はない。けれど、脱走はまずい。非常にまずい。サーカスが予定通り行われない事ではなく、万が一来場客に襲い掛かるような事態が起こったら、学院は終わりだ。
 最悪の事態が起こるまでに、何とか見つけなければ。

「副会長! 私、探してきます!」
『遠矢!? ちょっと待て、おい――』

 副会長の返事も聞かず通話を切って、私はあてもなく走り出した。私の馬鹿さ加減に、さすがに副会長も呆れたに違いない。だって、仮に見つけたところで私に出来ることなんて何もないのだから。

2018/06/22


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