Emotions Swim Inside



 気にしないようにしているつもりだったけど、出来るわけがない。まさか伏見の怒りの矛先をなんとか変えようと取った行動によって、かえって姫宮くんに嫌われてしまうなんて。嫌われて……まではいないと思うけど、余計なことをしてしまったのは確かだ。冷静に考えれば、誰かが自分の為に作ったものを、自分が食べないからといって他の誰かに食べられてしまったら、気分は良くない。あのお弁当は元々、お昼に食べないのなら夜に食べさせると彼も言っていたのだし。ああ、なんであんなことしちゃったんだろう。

「簡単ですよ! 単に執事さんの愛のこもったお弁当を、あなたも食べてみたかっただけです!」
「うーん……でも、何が何でも食べたかったわけではないですし」
「妖精さん、『深層心理』という言葉をご存知ですか?」
「そ、それって……私が無意識に伏見のお弁当を食べたがっていたと言いたいんですか?」
「正解です! さあ、ご褒美にバラを差し上げましょう!」

 日々樹先輩はいたくご機嫌で(いつもそんな感じだけれど)幾多もの薔薇の花を魔法のようにぽんぽんと出現させれば、私の周りに放った。
 私が無意識に差し出した両掌にふわりと落ちたそれは、綺麗に棘が抜かれている橙色の薔薇だった。
 どういう原理でこの花を出したのかは、考えても答えは導き出せそうにないので、深く考えないでおこう。何であれこの花は本物だ。薔薇の芳しい香りに、少しだけ心が和らいだ。

「さて妖精さん、次の質問です。橙色の薔薇の花言葉は?」
「ええ? うーん……なんだろう……」
「『愛嬌』『無邪気』『プライド』……」
「なんだか姫宮くんみたいですね」

 私がそう言うと、日々樹先輩は満面の笑みを浮かべた。日々樹先輩も彼みたいに、何を考えているのか分からないところがあるけれど、警戒心や不可解に思ったりしないのは何故なんだろう。どこか浮世離れしていて、人間じゃなくてエルフとかそういう類の存在なんじゃないか、なんて有り得ないことを偶に思ったりするからだろうか。

「手元の花を姫君に例えるとは、妖精さんも余程姫君のことがお気に入りのようですね。執事さんも嬉しい反面、ちょっと焼いてるんじゃないですか?」
「まさか。逆に私みたいな悪い虫が姫宮くんに近付かないよう、牽制されてる位です」
「その牽制はそういう意味なんでしょうかね〜? フフフ」
「『そういう意味』って何ですか。抽象的な言い回しはやめてください」

 なんだか試されている気がして、相手は先輩なのについ強い言い方をしてしまった。けれど、日々樹先輩は特に不快には思っていないみたいだ。ていうか、抽象的な言い方はどうこうって、つい最近、誰かが言っていたような……というか言われたような……。

「いたいけな乙女をからかっては駄目だよ、渉」
「おや、私が構わないからいじけてるんですか? 英智」

 私たちの会話に会長も加わり、どうやら日々樹先輩の興味の対象は会長へと移ったみたいだ。つい安堵の溜息を吐いて、数歩離れて距離を置いた。



 私たちが今いるのは、学院のレッスン室ではない。天祥院家が多く保有している施設のひとつだ。そこで会長は、皆の見えないところでも日々練習をしている。
 今日は、一般客の目線でプロのサーカス団と比べて見劣りしないか、プロデューサーとして率直な感想を聞かせて欲しいと会長に言われ、特別にこの場に呼ばれたのだ。ちなみに日々樹先輩もいるとは聞かされていなかったのだけれど、てっきり会長と二人だけだと思っていたので、日々樹先輩もいて少しだけほっとした。やっぱり会長と一対一は緊張してしまう。それと、

「樹里ちゃん、随分と距離を置いているけれど、そんなにライオンが恐いかな?」
「はい、それはもう……」

 今回のドリフェスで、会長は曲芸だけでなく猛獣ショーもやることになり、日々、ライオンの調教を行っているのだという。そのライオンは今この瞬間も、離れた場所でおとなしくしている。見ている限りでは、会長の言うことをちゃんと聞いているけれど、いつ反抗するか分からない。会長を疑うわけではないけれど、私は正直、恐い。

「妖精さん、そうやって心を閉ざしていては、ライオンさんも懐きませんよ〜?」
「私が舞台に立つわけではないので、懐かなくて結構です」

 何気なく放ったこの言葉が後々自分を苦しめるとは、この時の私は思っていなかった。

「それで、樹里ちゃんから見て僕のパフォーマンスはどうかな? 遠慮はなしで、シビアな意見を聞かせて欲しいのだけれど」
「ううっ……」

 この言い方は、称賛の言葉ではなく『改善点』を求めている。一見完璧なパフォーマンスから粗探しをし、もっとより良く出来そうなところを指摘する。これがまだ相手が後輩や下位でくすぶっている生徒であれば、「この動きはこういう風にしてみたらもっと良く見える」だとか「自分に自信を持つよう意識付けしていけば、それが自然と所作や表情に表れる」だとか「とにかく笑顔を作る! 笑顔!」なんて、経験上それっぽい偉そうなことも言えるのだけれど、相手は天上の存在だ。「遠慮はなし」と言われても、してしまうのが後輩の立場というものだ。

「会長。そう言われても、私が見る限り非の打ち所がないのですが……」
「じゃあ質問を変えよう。プロのサーカスと比べてどうだった?」
「はい!?」

 プロと比べたら、って。それを私に言わせるというのか。

「ふふっ、顔色が変わったね。さあ、考えて。はい、3、2、1……」
「ちょっと待ってください! カウントダウン早すぎですっ!」
「その為に、以前君に勉強がてら本物のサーカスを見てくるよう、チケットを渡したんだから。ちゃんと観て来たかい?」
「は、はい、それは勿論です。休みの日に観に行って、報告書というか感想文を生徒会経由で提出した筈ですが……」
「ちゃんと受け取っているよ。でもちゃんとその目で見たのなら、プロの彼らとアマチュアの僕の違いを言える筈だよね?」

 こんな楽しそうな会長、初めて見たかもしれない。ただ単に困っている私を見て楽しんでいるだけなら良いけれど、会長の求める答えを言えず、黙り込んで、その結果使えないという烙印を押されたら終わりだ。

「強いて言うなら、プロの方のほうが動きがしなやかでした」
「ほう?」
「いえ! 決して会長が劣っているとかそういうわけではないです! その、あくまで会長がサーカスの団員だったらと仮定したらの話で……」
「そんなに怯えなくても大丈夫、分かってるよ。当然、それを生業としているプロはその為の鍛錬を毎日、何年も積んでいるのだから。彼らのパフォーマンスは付け焼き刃で出来るほど生半可なものではないからね」

 単にからかっただけなのか。けれど、そもそも会長が私なんかにアドバイスを求めるとは思えない。ならば私が普段的確に他の生徒にアドバイスが出来ているかを試した、と考えるのが妥当だ。尤も、今の受け答えでは出来ているとは思えないけれど。

「ですが、私が一般客だとしたら、高校生のアイドルなのにここまで出来るのか、と驚愕することは間違いありません」
「ありがとう。残された日数で、出来る限りプロの演技に近付けたい。だから、今の僕を肯定した上で更に改善出来るところを指摘して貰えるのは有難いよ」

 やっぱり会長――英智さまは凄い。じゅうぶん出来ていても、更にその上を、その上に辿り着いたら更に上へ、常に高みを目指している。それがこの学院の頂点に立つ者の使命であり、既に夢を諦めた私との圧倒的な違いだ。

「あれ? 樹里ちゃん、もしかして落ち込んだ?」
「は? あ、えっと、その……ちゃんとプロデューサーらしく振る舞えていないな、と思いまして」
「樹里ちゃんはプロデュース科の『生徒』なんだから、これから徐々に成長していけばいい。初めから完璧に出来ていたら、それこそプロデュース科の設置なんて意味がない。今は成功と失敗、両方を繰り返して経験を積んでいく時期だよ。弓弦にもそう言われない?」

 何故その男の名前が出てくるのか。つい頬を引き攣らせると、会長は笑みを湛えながら言葉を続けた。

「弓弦の言うことはちゃんと聞かないと駄目だよ。君のことをとても気に入っているからこそ、耳の痛いことも言ってくれるんだよ。どうでもいい相手なら、干渉する必要はないからね」
「気に入って……うーん、そうでしょうか」
「気に入らない相手なら、愛する桃李の為に作ったお弁当を易々と食べさせたりなんてしないよ」
「そ、その話は……忘れてください……」

 日々樹先輩ならまだしも、会長に面と向かって己の暴挙を言われると、顔から火が出そうなほど恥ずかしい。もう帰ってもいいですか、と言いそうになった瞬間、また日々樹先輩が話に入ってきた。

「姫君が英智に甘えながら、随分と愚痴ってましたからねえ」
「愚痴……ああ、やっぱり謝ったほうがいいのかな」
「おや?」
「え?」

 日々樹先輩が目を見開いて少し驚いた様子を見せて、普段見せない素のような表情に私もぽかんとしてしまった。どうやら、それは会長も同じのようだ。

「樹里ちゃん、桃李に謝ってなかったの?」
「はい……駄目ですね。サーカスが終わったらちゃんと謝ります」
「え? どうしてサーカスが終わるまで待つ必要があるのかな」
「えっ、ええと……そうだ、伏見が『サーカスが終われば元通り』って言ってて、それで、終わるまではそっとしておいたほうがいいのかなと私は思ったんです。でも、それじゃ駄目ですよね」
「へえ」

 会長は彼の名前を聞くなり、興味深そうに一瞬目をぱちくりと瞬きした。どうやら考えが変わったらしく、満面の笑みを浮かべた。

「弓弦がそう言うなら、ちゃんと彼の中で根拠はあるんだと思うよ」
「そういうものでしょうか」
「逆に樹里ちゃんが桃李を刺激したら、時間が解決するはずが火に油を注ぐ可能性も無きにしも非ずかもね」
「うっ……」

 否定できない。確かに、下手に謝ったらかえって怒りそうな気もする。前に大神くんが話していた内容を整理すると、姫宮くんはちょっと焼きもちを焼いているだけみたいだし。それが本当なら、可愛らしい、なんて思えたりもする。

「ちょうどいいタイミングなんじゃないかな? 樹里ちゃんも色んなユニットのプロデュースで多忙の身だし、今のうちに生徒会だけでなく色んなユニットに恩を売っておくといい。云わば今は種蒔の時期だ」
「そうですね。でも、最近はそれがちょっと寂しくて。なんていうか、逆に居場所がなくなっていく、みたいな……」

 自分で言って、はっとした。何を言っているのか。寂しい、までは分かるけど。それ以上は言葉にするのはみっともないことだ。この人達の前では。

「すみません、変なこと言って」
「ううん、構わないよ。今日樹里ちゃんを呼んだのは、ちょっと君のことが心配だったから、というのもあるんだよ」
「え!? あの、本当にすみません、ドリフェス前なのに余計な気を遣わせて」
「いちいち謝らないの。君も大切な仲間のひとりなのだからね。『居場所がなくなる』なんて聞いたら僕としても見過ごせない」

 どうしよう。胸の内をきちんと吐き出さないと、本当に帰らせて貰えなさそうだ。とはいえ、あまりこういう感情は吐き出したくない。私だって、姫宮くんのことは言えない。私だってそういう感情を抱いている。

「言いにくかったら、無理に言わなくてもいいけれど」
「そうですね、あまり醜い感情はお二人の前では出したくないです」
「何を言ってるんですか! それこそ人間らしい感情ではないですか! 美と醜は表裏一体という言葉もありますしね。何も自らを罰する必要はないのですよ!」

 しんみりした空気になりかけたところを、日々樹先輩がいつも以上に大きな声、大きな身振り手振りで言い放てば、ずかずかと歩いてきて一気に私との距離を詰めて、腰を屈めて私の顔を覗き込んだ。目が合った瞬間すべてを見透かされたみたいに感じて、何故か腰が抜けそうになった。これも日々樹先輩の魔法なんだろうか。

「妖精さん。あなたがもやもやしているのは、姫君のことではなくて、実は隣のクラスの転校生さんのことではないですか?」
「ああ、なるほどね」

 ぴしゃりと当てられてしまい、更にはその後ろで会長が相槌を打って、もう逃げ場はなくなった。言い訳も出来ない。

「本当は自分がいるはずだった場所に、隣のクラスの転校生さんが当たり前のようにいて、疎外感を感じてるんじゃないですか? 隣のクラスの転校生さんも、いつの間にか生徒会の面々とも馴染んでますからね」
「渉。あまり言い過ぎては駄目だよ。樹里ちゃんは言いたくないって言ってたんだから」
「おっと、私としたことが……でも執事さんと同様、妖精さんの心もついつい暴きたくなってしまうんですよね〜」

 もう好きにしてくれ、と投げやりな気持ちになってしまった。
 私はいつもこうだ。勝手に嫉妬して、でも相手は私のことなんて別に何とも思っていなくて、私に対して普通に接してくれて、それで余計自分が惨めに思うのだ。よりによって同じ立場の女の子にこんな感情を抱くなんて、本当にみっともない。ついこの間、桜フェスの時にそれは吹っ切れたと思っていたのに、また振り出しに戻ってしまった。

「そんなに自分を責めなくても大丈夫だよ、樹里ちゃん。人と比べることも、時には成長に必要なものだからね」
「『醜い感情』なんて言っても、誰でも大なり小なりそういうものはありますからね。そういうものがない菩薩のような方もいるかもしれませんが、人それぞれです。成長の速度も、仕方も、皆それぞれ違うから人間は面白いんですよ」

 会長の言っていることはともかく、日々樹先輩の言葉はまるで自分が人間じゃないみたいな言い回しだ。

「弓弦の言葉を信じよう。『サーカスが終われば元通り』。それは桃李のことだけでなく、君を悩ませる全てのことに対しても言えるんじゃないかな」
「伏見はそこまで考えて言ったわけじゃないと思いますけど……」
「姫君のことだけでなく、妖精さんのこともこの学院では執事さんが一番分かってると思いますけどねえ」

 会長の言葉を否定したら、今度は日々樹先輩に追撃されて、何も言い返せなかった。確かに、彼は私の言動や考えていることを全部見透かしている感じがするし。癪に障るけれど、会長の言う通り、今は彼の言葉を信じるしかない。余計なことを考えたら駄目だ。

「お二人がそう言うなら……伏見の言葉を信じます」
「僕らに気を遣わなくていいんだよ? だって樹里ちゃんは初めから弓弦の言葉を信じてたじゃないか」
「そうでしたっけ」
「弓弦に対しては随分と素直じゃないね。こう意固地だと、構って振り向かせたくなるのも分かるなあ」
「何の話ですか?」

 よく分からないけれど、会長も日々樹先輩も随分と機嫌が良い。なんだか私はわけがわからないまま弄られただけのような気がするけれど。ちらりと視線を逸らすと、部屋の隅でライオンが大きな欠伸をしていた。恐い。けれど、会長はうまく手懐けているようで良かった。
 まさかこの油断が命取りになるなんて。現状に対して落ち込むよりも先に、このライオンと仲良くなっておくべきだったなんて、実際に当日になってみないと分かるわけがなかった。この時の私はトラブルが起こるとは微塵も思わず、何の問題もなくサーカスが大成功すると過信していたのだから。

2018/06/10


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