Op.109



 決して叶う事のない恋をした。

 プロデューサーがアイドルと恋をしてはいけないとか、ファンに夢を売るのも仕事の一つなのだから恋愛はご法度だとか、そういう問題ではなくて。何をどうしても、どう足掻いても無駄なのだ。為す術は何もない。

 彼の世界に、私はいない。
 彼にとっては、彼の主だけが全てで、彼の全ては主によって構成されている。
 この夢ノ咲学院に転入した事も。fineという学院最強のユニットに所属している事も。アイドルをやっている事も。
 全ては彼の主と共に在る為。主に全てを捧げ、寄り添う為に、彼はこの世界に存在しているのだ。

 偶然にも彼と時期を同じくして、私もこの学院に転入してから、気付けば三ヶ月以上経っていた。過ぎてみれば早いものだ。
 目まぐるしく過ぎて行った日々。突発的に作られたプロデュース科というコースに、もう一人の女の子――あんずと共に入った私は、あっという間に体も心もぼろぼろになった。私はあんずと違って、協調性もない。非力で、無力で、彼女より勝っているところなんて、本当に何もない。
 そんな私が、今もまだこうしてここに居続けていられるのは、偏に彼のお陰だった。


 決して叶う事のない恋をした。
 彼の世界に、私はいない。






 学院から程なくして辿り着ける距離にある海岸。お気に入りの場所。窮屈な家と学院を往復する生活の中で、ほんの僅かだけれど自由を感じられる場所。来るのは専ら陽が完全に沈んだ夜だ。この場所に来る事が出来るのは、生徒会の仕事の手伝いや、バイトのない日の夜。偶に味わえる、ささやかな幸せのひとつだ。

 目を瞑れば、静かな波の音が疲れ切った心を癒してくれる。
 目を開けて空を見上げれば、煌々と瞬く満天の星が、私の心を躍らせる。
 目の前の海原へ視線を移すと、果てのない海が私を吸い込もうとする感覚に襲われる。
 恐くはない。
 いっそこのまま、夜の海に溺れてしまおうかとすら思える。



 さくり、さくり。
 砂を踏む音が聞こえ、我に返った。
 一人きりでいられる、羽を伸ばせる時間は終わりだ。
 此方に向かって来るのが誰なのか。姿を見なくても分かる。声を聞かなくても分かる。
 生徒会長か、あるいは主の命令か。私を迎えに来たのだ。

「お一人の時間を邪魔してしまい恐縮ですが」
 遠慮がちにそう言ってはいるものの、彼は私がどんなに我儘を言おうと、絶対に応じない。そういう奴だ。
「もうお帰りにならないと、お母様が心配されますよ。樹里さん」

「はいはい、御忠告どうもありがとう」
 素っ気なくそう言って、私は彼の顔を見もせずに、くるりと海原へ背を向けて歩を進めた。
 自分でも態度の悪い嫌な女だと思う。でもそうしないと平常心を保っていられないのだ。決して叶わない恋なのに、これ以上好きになってはただただ苦しいだけだ。嫌って貰った方が有り難いし、義務として、プロデューサーとアイドルとして、最低限の会話だけが成り立てばそれが一番互いにとってベストなのだ。

 海岸を出て、街灯を頼りに足早に帰路を辿っていく私の後ろを、彼は緩慢とした足取りで、ただ黙ってついて来ている。己の意思ではなく会長か主の命でそうしているに違いないので、何を言っても無駄だと分かってはいるのだが、駄目元で口を開いた。
「伏見」
「はい」
「ついて来なくていいよ。一人で帰れるから。保護者でも何でもないのにさ、もう、そういうの、本当にウザいんだよね」
「申し訳ありませんが、坊ちゃまに樹里さんを家まで送るよう命じられておりまして。こればかりは、わたくしの独断で樹里さんの傍を離れるわけにはいかないのです」

 会長ならまだしも、彼の主の命令ときたら、こいつの言う通りどうにもならない。何故なら、彼は彼の主――姫宮桃李という少年の為に生き、存在しているのだから。

「はあ、桃李くんの命令じゃ、しょうがないか」
「樹里さんは本当に坊ちゃまに甘いですね。まあ、わたくしとしても助かります。素直で結構です」
「じゃあ早く帰らないとね。桃李くんをひとりぼっちにしておけないでしょ」

 彼はぴたりと足を止めた。数メートル歩いてそれに気付いて、振り返った。今日初めて、まじまじと彼を見遣る。様子を窺った。悲しそうに目を伏せて、佇んでいる。普段と違うのは一目瞭然だった。いつも私に小言を言っては此方の心を抉る発言をして、悦に浸っている、いつもの伏見弓弦ではない。

「伏見?」

 彼に口喧嘩で勝った事は一度もないし、私の発言で傷付く事もないだろう。ましてや、今の発言はどう考えても彼を傷付ける内容ではない。
 思わず駆け寄って、顔を見上げて瞳を見つめた。
「体調悪いの? だったら無理しないで帰りなよ。桃李くんだって流石に文句言わないでしょ」
「樹里さん」
 私の名を紡ぐ彼の声は、微かに震えていた。

「そんなに、わたくしの事がお嫌いですか」

 今にも泣き出しそうな彼の表情を見て、頭が真っ白になった。私に対してこんな顔をした事は、この三ヶ月弱、一度もなかった。いつもいかにも作ったような微笑を湛えていて、私の頭の悪い発言を論破する時はほんの少し意地悪な笑みを浮かべていて。

 どうせ叶わない恋なのだから、これ以上苦しい思いをする位なら、嫌われる方がずっといい。そう思って、己の感情が恋心だと気付いてからは、わざと冷たい態度を取り続けてきた。

 自分が楽になりたいが為に、私は彼を、ずっと傷付けてきたのだ。

「…ごめん」
「質問の答えにはなっておりませんし、わたくしが求めているのは、謝罪ではありません」

 嫌いだと言えばいい。嫌われる事を望んでいるのだから。彼は私よりずっと大人だ。ここで私が酷い言動をしても、翌日には余裕綽々と笑みを湛えているに違いない。
 そう思っているのに。
 あんたなんて大嫌い。そう言ってしまえば、私は楽になれるのに。

 嘘は、吐けない。

「伏見、ごめん。私、今までたくさん、酷い事言ってきた」
「ですから、わたくしが訊いているのは」
「早く私の事なんか嫌いになりなよ」
「仰っている意味が分かりかねるのですが」

 やっぱり今日の彼はおかしい。いや、おかしいのは私も同じだ。どうしてだろう。何があった? つい先日終わった七夕祭を思い返す。彼は主への忠誠を更に加速させていたし、彼にとっては姫宮桃李という主が全てであり、彼の世界に私が介入する事は不可能だと思い知らされた。要するに、私の恋は叶わないと確定したという事だ。
 彼は主に尽くす事が最大の幸せなのだから、今はまさに幸せの絶頂にいる筈ではないのか。泣きたいのは、告白以前に絶対に恋が叶う事はないと見せ付けられた私の方だ。
 段々、腹が立って来た。突っ掛かっても謝っても責められるなんて、じゃあ私はどうすればいいのか。

「あのさ、伏見。今の伏見は、私にどうして欲しいの? 私、馬鹿だから、はっきり言って貰わないと分からない」
「『馬鹿だから』と言い訳せず、少しはご自身でお考えになっては如何ですか」

 分からない。本当に分からない。なんで伏見が急にこんな態度を取ってきたのか。言い訳だと言われても、本当に分からない。今までの鬱憤が爆発したのだろうか。でも謝罪は求めてないと言う。じゃあ私はどうすればいい? 自分で考えろ? 分からないから聞いているのに。
 分からない。何も。人の気持ちが、分からない。好きな人を散々傷付けて、自分だけ楽になろうとした罰なのか。

 どうしていいか分からなくて、自然と涙が零れてきた。ウザいのは私だ。こんな姿、見られたくない。好きな人になら、尚更。こんな自分が大嫌いで仕方がない。
 自分自身を好きになれない人が、誰かを好きになる事自体が間違っているんだ。

 刹那、彼の慌てふためく声が夜道に響いた。
「あ、あの、申し訳ありません! 決して樹里さんを泣かせるつもりはなかったのですが、というかまさか樹里さんが泣くとは正直思っておりませんでした」
「うるさい! 私だって泣く時は泣く!」
 頭の中がぐちゃぐちゃになっているとはいえ、失礼な発言をされている事は本能で理解して、つい声を荒げてしまった。いや、荒げたくもなる。
「大体なんなのいきなり! いつも勝ち誇った顔で私の事馬鹿にしてくる癖に! なんで急に私が全面的に悪いみたいな態度取られなきゃならないの!?」
「わたくしは樹里さんを馬鹿にした覚えはありませんよ。樹里さんが勝手に意地を張って勝手に怒っていらっしゃるだけの話では?」
「そういう発言がまずウザい。もういい、一人で帰るから! 伏見はさっさと桃李くんの元に帰ってよ!」

 もう付き合ってられない。私は声を荒げて言い放って、彼に背を向けて駆け足で帰路を辿った。

 分かってはいたが、当然彼も私の後について来た。主の命令には逆らえないのは重々承知しているので、分かってはいるのだが。
「あの、樹里さん」
「伏見と話す事は何もない!」
「では、家に着くまでの間、わたくしの独り言に付き合っていただけますか」
「知らない」

 と言いながらも、私は壊滅的に体力がないので、歩く速度は徐々に遅くなっていき、結果的に彼の独り言に付き合う羽目になってしまった。

「実はわたくし、樹里さんが書かれた七夕の短冊を見つけてしまったのです」
 血の気が引いた。絶対に見られたくない相手に見られてしまった。完全に思考が停止したけれど、それもすぐに元に戻った。何故なら、短冊に名前なんて書かなかったから。彼が私の書いたものだという短冊が、果たして私が書いた実物と同一とは限らないからだ。
「私が書いたものだって分かるわけないじゃん」
「分かりますよ。樹里さんの筆跡は熟知しております」
「はあ!? 気持ち悪いんですけど!?」
「生徒会の仕事を手伝う者同士、樹里さんの文字は嫌という程拝見しておりますので」

 つい暴言を吐いてしまったけれど、後悔する暇もなく彼が穏やかな口調でそんな事を言うものだから、そんなに私の事を見てくれていたのかと一瞬勘違いして、顔が熱くなった。現実は、強制的に見ざるを得なかったという話なのだけれど。

「で、でも、それが本当に私が書いたものかどうかは分からないよね。だって私、名前書かなかったもん」
「『好きな人がずっと幸せでいられますように』、ですよね」


 最悪だ。


「樹里さん、走らないでくださいまし! 夜道は危険です! ただでさえ何もない所で転ぶのに、確実に転んでしまいますよ!」
「うるさい馬鹿! いつもいつも人の心を踏み躙って!」
 瞬間、強引に手首を掴まれて本当に転びそうになった。倒れそうになった私の体を即座に支える、彼の腕。思わずよろけそうになって、咄嗟に彼の体にしがみ付いてしまった。

「踏み躙っているのはあなたです」

 恐る恐る、顔を上げた。やっぱり今日の彼はおかしい。どうしてそんな切なそうな顔で見つめてくるのか。見た事のない表情。これ以上、私の心を乱さないで欲しいのに。

「樹里さんは、好きな方がいらっしゃるのですね」
「だったら何? 伏見に関係ないでしょ」
「…そうですね。わたくしには、何の関係も…」

 彼が言葉を濁すのも珍しい。私に好きな人がいるという事が、そんなに引っ掛かるのだろうか。まあ、プロデューサーが恋愛に現を抜かしたりしたら、fineの活動および桃李くんに悪影響が出るのではないかという懸念から来るものなのだろうか。冷静に考えてみれば、それなら納得がいく。

「伏見、あのさ」
「はい」
「私、好きな人いるけど、悲しい事に絶対に叶わないんだよね」
「…どうしてそう言い切れるのですか?」

 地獄だ。よりにもよって絶対に叶わない恋をしてしまった相手にそんな事を訊ねられて、私はそれに答えないといけない。まあ、人を傷付けて自分だけ楽になろうとした罰なんだろう。


「その人の世界にね、私はいないんだよ」


 一度口にしたら、後はもう、堰を切ったように、今まで胸に秘めてきた言葉達が、私の意思とは無関係に紡がれていく。


「その人の世界は、とある人だけで回っているんだ。そこには誰も介入出来ない。誰も。無理なんだよ。恋愛なんて、絶対無理。あーあ、なんで好きになっちゃったんだろう。叶うわけがないのにさ。叶わない恋なんてしたって、辛いだけ。傷付きたくない。もうこれ以上傷付きたくない。だから、もう諦めた。夢は夢で終わらせないといけないんだって気付いたから。だから、好きな人が幸せなら、それでいい。今、彼はとても幸せだと思うからね。その幸せがずっと続けばいい」

 呆気に取られている彼に向かって、私はぎこちなく笑ってみせた。

「その人の世界に入りたくて、私という存在を刻み付けたくて、その人に酷い態度を取り続けて来たんだよね。我ながら歪んでると思うよ。罷り間違えて私なんかと付き合うような事になったら絶対駄目だって思うよ、ほんと」

 彼が私の顔をじっと見つめて黙り込んでいる事に気付いて、私は漸く我に返った。何を言っているのか。というか、絶対に言ってはいけない相手に言ってしまった。
 最悪だ。本当に最悪だ。

「ごめん、伏見。今の発言全部忘れて」
 掴んでいた彼の服から手を離して、慌てて離れようとした、刹那。

「忘れませんよ。拙く不器用な言葉で紡がれた樹里さんの本心、一文字たりとも忘れません」
 一瞬の事だった。彼の腕が私の体を包み込み、まるで拘束するかのように抱き寄せられた。苦しい。痛い。思わずうう、とくぐもった声を漏らすと、その力は更に強くなった。

「思い違いではなかったようで安心しました。坊ちゃまも会長さまも日々樹さまも、樹里さんの本心には気付いていらっしゃったようなのですが、わたくしはどうしても確信が持てなかったので、大変失礼ながら、本日は少々意地の悪い言動を取らせて頂きました」

 息が苦しくて彼の言葉の意味の半分も頭に入って来なかったけれど、とりあえずこれだけは分かる。

 私は彼に上手い具合に嵌められたという事だ。

「ふ、伏見……痛い」
「ああ、申し訳ございません。女性の扱いに慣れていないものですから、つい」

 力が緩んだ瞬間、両手で力の限りその体を突き飛ばして、人目も憚らず大声を出してしまった。今の私はさぞ怒りの形相に違いない。
「伏見!! あんたなんか嫌い!! 大っ嫌い!! さっきの発言全部なし!!」
「ふふ、樹里さんがわたくしだけに暴言を吐くのも、全ては愛情の裏返し……」
「うるさい!! 馬鹿!!」





 決して叶う事のない恋をした。
 彼の世界に、私はいない。
 そう思っていた。
 そう思い込んでいた。

 彼――伏見弓弦の世界に、遠矢樹里は間違いなく存在していたのだ。

2016/07/08


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