隠者の庵



 魔導城の一室にて。ゼノスとテーブルを挟んで座っているルクスは、これが夢ならば今すぐ覚めて欲しいと叶わぬ願いを抱いていた。それもその筈、

「さあさあ、どうぞ召し上がってください! 毒は入っておりませんので、ご安心を」

 そう言って机上に次々とオードブルを乗せていく、燕尾服を纏った執事の男。否、執事であって堪るものか。ルクスは愛する男と同じ顔をした存在に見向きもせず、ただただゼノスを見つめていた。
 これが現実であって堪るものか――そう思いながら。

「……さて、説明とは言ったものの……ルクス、貴様は何が知りたい」
「そうですね、ええと……」

 ワイングラスを傾けながら、気怠そうに訊ねるゼノスに、ここで粗相があれば一溜まりもない――咄嗟にそう判断し、ルクスはいったん脳内の情報を整理した。
 ゼノスの先程の話から、恐らく彼はアラミゴで一命を取り留めたのではなく、最初に入って来た戦死という情報が真実だったのだろう。そして、ゼノスの亡骸をアシエン……名前は忘れたが、今この場にいるファダニエルという奴ではない者が肉体を乗っ取り、ゼノスのふりをして帝都に帰還し、己とアサヒに接触したのだ。アサヒがドマで死んだという一報の後、己を民衆派嫌疑で捕らえたのも、本物のゼノスではない。

 ならば、ゼノスは一体いつ自分の身体を取り返したのか。
 正直、そこまで聞かずとも目の前のゼノスが本物であればそれで良いのだが、アサヒと同様アシエンに肉体を乗っ取られたものの、取り返す事が出来たという事実は、ルクスにとっては微かな希望であった。同様にアサヒもこのファダニエルという奴から肉体を取り返す事が出来るかも知れないと思ったからだ。

「……ゼノス様は、いつ元に戻られたんですか? その、アシエン……なんとか……からご自身の身体を取り返したのは、どのように……」
「不承、このファダニエルが説明致します!」

 恐る恐る訊ねるルクスに、答えたのはゼノスではなくファダニエルであった。執事さながらの振る舞いで深々と頭を下げれば、胸元に手を当ててルクスの顔を覗き込む。

「結構です。私はゼノス様に御伺いしているのです」
「ですが、殿下もかなり面倒そうな顔してますし……」

 お前が訳の分からない事をするからだ、とルクスは反論しかけたが、ここで口論になっては確実のこのファダニエルとかいう奴の思うつぼだ。そう言い聞かせてゼノスを見つめたものの、訊ねられた当の本人はルクスの胸中など知る由もない、というよりどうでも良かったと言った方が正しい。

「ファダニエル。貴様が代わりに説明しろ」
「えっ」

 唯一頼れるゼノスの言い放った言葉に、ルクスは反射的に呆けた声を出し、そして絶望した。ゼノスは己より、このファダニエルという訳の分からない生き物を側近と考えているのかと思ったからだ。そもそもルクスをここに連れて来たのはこのファダニエルであり、ゼノスの意向ではない以上、当然の流れではあるのだが。
 呆然とするルクスとは正反対に、ファダニエルは愉快そうに口角を上げた。

「ゼノス殿下のご命令です。我儘を言っては、殿下の刃があなたの首を刎ねてしまうかも知れませんよ……?」

 視界を遮るように顔を傾けて、自分を見ろとばかりに視線を合わせるファダニエルに、さすがにルクスも観念せざるを得なかった。尤も、この男に従うわけではない。敬愛するゼノスの命令だから『仕方なく』付き合うだけだ。ルクスは心の中で何度も言い聞かせ、ファダニエルを睨み付けると、相手は悲し気に表情を歪めさせた。

「酷いですっ、つい先程熱い接吻を交わしたほど、私たちは愛し合っている関係だというのに……!」
「うるさい! いいから説明しろ!」

 愛する男の顔で茶番を繰り広げるなとルクスは苛立ち、声を荒げた。こんな態度を取ったのは子どもの頃にあったかどうかというほど、ルクスはこれまで品行方正に生きて来たつもりであった。まさかこんな感情的になるなど自分自身でも驚くほどだったのだが、当のファダニエルは全く気にする素振りも見せず、目を細めて再び口角を上げた。

「怖い怖い。では、まず一つ目の質問『いつ元に戻ったのか』について……ゼノス殿下が肉体を取り戻したのは、皇帝陛下が暗殺される直前です」

 ファダニエルの答えは簡潔かつ的確であった。その回答だけで、ルクスは真実を察するに至った。皇帝陛下――ヴァリス帝が暗殺される直前という言い方をした時点で、ゼノスが父親である皇帝陛下を殺したと言っているようなものではないか、と。
 ルクスの表情から怒りが消える。ファダニエルの双眸をまっすぐと見つめ、傾聴の意思を示しているに他ならなかった。

「その様子ですと、詳しく説明する必要はなさそうですね」

 ファダニエルの問いにルクスは素直に頷いた。例えその場を見ているわけではなくとも、皇帝陛下が殺されたのは事実であろう。なにより、皇帝陛下の玉座にゼノスが腰掛けていた時点で、疑う余地もない。
 ファダニエルは気を良くしたのか微笑を湛え、言葉を続ける。

「では、もうひとつの質問。『アシエンなんとかからどうやって肉体を取り戻したのか』ですが……正直私も分からないんですよね」
「誤魔化さないで。お前の仲間がやらかした事でしょ」
「ルクス、いつからそんなにお口が悪くなってしまったんですか? 『お前』なんて、今まで言わなかったじゃないですか」

 話にならない。ルクスは早々にファダニエルとの会話を切り上げて、というより無視し、立ち上がってゼノスを再び見つめた。

「ゼノス様ご自身でも不確かな事であれば、回答は諦めますが……」

 ふたりが話している間にゼノスは食事を進めていたようである。ゆったりと肉を咀嚼し、まるで関知していないように見えたが、ルクスの声はしっかり届いていたらしい。食事の手を止め、漸くルクスの顔を見遣った。

「……俺は人工的に『超える力』を手に入れた事で、死ぬことの出来ない存在になったようだ」

 ルクスはてっきりゼノスは一度死に、アシエンは『死体』に憑依するものだと思っていたが、違うらしい。混乱するルクスをよそに、ゼノスは経緯を説明した。

「俺はアラミゴでかの英雄に敗れ、自ら命を絶った」
「え……?」
「俺の生涯はそこで終わる筈だった。が……アシエン・エリディブスが俺の死体に憑依し、その後の事は貴様の方が詳しいだろう。その間、俺は魂だけがこの世界に取り残されたが……兵士の身体に憑依し、帝都へ向かい……エリディブスから肉体を取り返した」

 帝国の情報などいくらでも改ざん出来るのだと、これほどまでに思った事はない。
 ゼノスは一命を取り留めたわけでもなければ、戦死でもない。
 まさか、自ら命を絶ったとは。
 更にはアシエンと同じような能力を身に付けるなど、もう人間ではないと捉えた方が正しいのではないか。
 ルクスは呆然としたが、それでもゼノスに対する敬意は変わらなかった。恐怖よりも、人工的にそのような能力を身に付けるなど素晴らしい、という賛辞の感情のほうが強かったのだ。
 尤も、ゼノスが蛮神『神龍』と融合して、かの英雄と戦うという、人間では為し得ない事を繰り広げていたなど、ルクスは知る由もない。

「ゼノス様、さすがです! そんな事が可能なのはゼノス様くらいしか……」

 そこまで言って、ルクスは絶望的な事に気が付いて言葉を失った。
 つまり、アシエンに奪われた肉体を取り返すには、ゼノスのように『超える力』を以て不死なる存在になる必要があるのではないか。
 アサヒが死んでいるのなら、生き返るのはどう考えても不可能である。蛮族の魔法なる力でも、死んだ人間を生き返らせる事が出来るなら、不死の軍隊を作り上げてとうに帝国を滅ぼしているであろう。
 ゼノスがあまりにも規格外なのだ。それも、アシエンが首を傾げるほど有り得ない事を成し遂げている。

「ルクス、どうしました?」

 泣きそうになっているルクスの髪を、ファダニエルが優しく撫でる。今己の傍にいる男は、アサヒの肉体に憑りついたアシエンという化物だ。ルクスはそう分かってはいつつも、胸の奥が熱くなって、どう言葉を返せば分からず、力なく崩れるように座り込んだ。

「……ルクス。貴様がここに来たのは、それを確かめる為だけか……?」

 ゼノスの問いに、ルクスは我に返った。
 このファダニエルという男が何であれ、ゼノスの元に来た以上、彼の部下として責務を果たす義務がある。力がすべてであり、無力な人間は切り捨てられる。
 ――まずは、この場を乗り切らなくては。ルクスは背筋を伸ばして、ファダニエルを避けるように顔を傾けてゼノスに告げた。

「いえ、私は再びゼノス様のもとで戦う為に来たのです」

 見つめあう事、数秒。ふたりを交互に見遣って物珍しそうに目を見開くファダニエルであったが、最初に静寂を破ったのはゼノスであった。

「……その言葉、二言はないな?」
「はい!」

 即答するルクスを見て納得したのか、ゼノスは再び視線をワイングラスへと移した。

「この魔導城は好きに使え。場合によっては兵を動かす事も許可する。ただし、『英雄』への接触は認めぬ」
「……よろしいのですか? 私が、そこまで……」
「貴様の事だ、無闇に兵を無駄死にさせる事はないと判断している」
「……光栄です! ありがとうございます!」

 思わず立ち上がって敬礼するルクスであったが、ゼノスは特に気にも留めず食事を再開していた。
 そんなふたりの遣り取りを、ファダニエルは小首を傾げて見遣っていた。一体何故ルクスがここまでゼノスに信頼されているのか理解し難かったからだ。尤も、『信頼』は語弊であり、『利用価値がある』と称するのが正しいのだが、どちらにしても不可解である。
 とはいえ、下手に茶々を入れれば今度は自分の首が文字通り刎ねられる番である。ファダニエルは仕方なく、笑みを作ってわざとらしく拍手して、ルクスに声を掛けた。

「では話も終わったようなので……ささ、ルクスも召し上がってください! 『俺』が丹精込めて作ったんですよ!」

 どう聞いても愛する男の声と同じものであるそれに、ルクスは一気に苛立ちを露わにしてファダニエルを睨み付けた。

「お前と慣れ合うつもりはない」
「そこまで冷たくされると、さすがに俺も傷付きますよ」
「その喋り方をやめろ! 今すぐ!」

 この場でファダニエルを殴りたいところだが、ゼノスの手前暴れるわけにもいかず、ルクスは乱暴にフォークを取って目の前のオードブルを機械的に食す事とした。
 そんなルクスの態度に、ファダニエルは気を悪くするどころか、愉快そうに笑みを浮かべて眺めていた。憑依した男を演じてルクスと深い仲になるという事実を作り上げた事が、この先の計画に役立つという確信を抱いたからだ。





 一先ず規則正しい生活を送る事が、冷静に今後の身の振り方を考える第一歩だ。ルクスはそう考えて、魔導城の探索は明日に持ち越す事にし、この日の夜はしっかり睡眠を取る事に決めた。とはいえ、一体自分は何日失神していたのか。きっとベッドに潜ったところで眠れないだろう。

 目覚めた時に宛がわれていた部屋に戻ると、そこにはご丁寧にファダニエルが持って来たであろう、ルクスの私物がしっかり置かれていた。私物と言っても、軍から離れて実家に帰った際に持参した僅かなものであり、何の役にも立たないものばかりである。

 ルクスは部屋に備え付けられている浴室でシャワーを済ませ、バスローブを纏って濡れた髪を乾かしていたが、突然背後で気配を感じ振り返った。

「ルクス、俺が乾かしますよ」

 ルクスの目の前には、ファダニエルがさも当然かのように立っていた。部屋に入って来る気配が一切しなかったが、ルクスにとってそんな事はどうでも良かった。ファダニエルが今すぐ出て行ってくれるのなら。

「来ないで」
「あの……ルクスを傷付ける事をしてしまったのなら、謝ります」
「私に話し掛けないで」

 とにかくこの男は人を苛立たせる事が得意らしい。ルクスはもうファダニエルの事は無視しようと決めて、乾き切っていない髪のまま、視線も物ともせずその場で適当に着替え、真っ直ぐベッドへと向かい、そのまま潜り込んだ。気持ちが悪いが仕方がない。ファダニエルの顔を見ないようにするには、こうするしかなかった。


「――へえ。ルクス、大事に持っていたんですね、これ」


 暫しの間を置いて、ルクスが包まっていたシーツが強引に捲られた。こちらは何も話したくないというのに。目の前にいるファダニエルを睨み付けたルクスであったが、彼の手にあるものを目にした瞬間、言葉を失った。
 アサヒと共にドマに行った際、住民から貰ったかんざしであった。私物の中に紛れ込んでいたようだ。

「今となっては懐かしいですね。義姉が蛮神召喚などしなければ、ドマと和平を結ぶ事が出来たのに……」

 この男はアサヒではないと分かっている筈なのに、かんざしを眺めて寂しそうな笑みを浮かべる姿に、迂闊にもルクスは気が動転してしまっていた。

「どうしました? ルクス、まだ悪い夢から覚めていないみたいですね」

 目の前にいる男はファダニエルではなく、本当にアサヒなのか。ゼノスとも対面して、確実に違うと分かっていた筈なのに、ルクスはまさか先程までの遣り取りはすべて夢だったのかと思い始めていた。
 心ここにあらずといった様子のルクスに、男は顔を近付けて、そのまま唇に口を触れさせた。ルクスの手に指を絡め、舌を這わせようとした瞬間。

「――待って! あの、あなたは本当にアサヒ様……?」

 唇を離し、後ずさってそう訊ねるルクスに、男は微笑を湛えて頷いてみせた。

「ええ、勿論。そうだ、このかんざしを使って髪を結ってあげましょうか。生乾きのままで寝ては風邪を引いてしまいますし、乾かすついでに使い方を教えますよ」

 片手に持ったかんざしを振って提案する男に、ルクスは思わず頷きそうになった。
 だが、何かがおかしい。
 先程まで、ゼノスと共に食事をしていたのは、本当に夢だったのか。そうは思えない。味覚も、食感も、匂いも、何もかも現実だ。

 考えてみれば、己とアサヒにドマとの和平交渉を命じたのは、ゼノスではなくアシエン・エリディブスという奴である。どう見てもゼノスのように振る舞っており、偽物だと気付いた者は誰一人いなかった。父親である皇帝陛下をも騙したのか、あるいは皇帝陛下とエリディブスが手を組んでいたのか。普通なら前者を想定するが、現状、ゼノスとファダニエルが手を組んでいるのだから、有り得なくはない話である。

 ――そう、アシエンとは憑依した相手と同じように振る舞う事が出来る。
 恐らくは、記憶を共有する事が出来るのだ。
 ならば、目の前にいる男は一体誰なのか。答えは明白である。

 ルクスは男の手を払い除け、声を荒げた。

「ファダニエル、お前の目的は何!?」
「あ、やっと私の名前を覚えてくれたんですね!? 嬉しいです……!」
「クソッ!!」

 ゼノスには申し訳ないが一発殴らないと気が済まないと、ルクスはファダニエルに向かって拳を振るったが、打撃の感触はなく空振りに終わった。既にファダニエルの姿はなかったからだ。どうやらアシエンなる存在は、人間の肉体を持っていても瞬間移動のような行為が出来るようだ。まるで蛮族の魔法と同じではないか。
 ルクスは苦虫を噛み潰したような顔で、自分以外誰もいない部屋で声を荒げた。

「このままで済むと思うな! 絶対にアサヒ様を元に戻してみせる……!」

 そうは言ったものの、恐らくアサヒは『超える力』を持ってはいない。否、確実に。
 ルクスがかつていた第XIV軍団での研究をもとに、ゼノス率いる第XII軍団が急ピッチで更なる研究を進めていたのは、ルクスも知るところであった。かつての仲間が研究所の配属になったのだから当然である。
 だが、人為的に『超える力』を付与出来るまで進んでいたとは思いもしなかった。ゼノス以外に付与された軍人がいるかも知れないが、それはアラミゴに駐在する兵士だろう。当時ガレマルドにいたアサヒは該当しない。
 アサヒが『超える力』を持っていないのなら、あのアシエン・ファダニエルが肉体から出て行ったところで、残るのは亡骸だけだ。

 信じたくない。
 ルクスは既に答えに辿り着いているというのに、どうしてもアサヒの死という現実を受け容れられなかった。きっと元に戻れる方法がある筈だ。そんな有り得ない希望に縋りながら、再びベッドに潜り込んで、ファダニエルへの怒りと悔しさで泣き腫らしたのだった。

2023/05/03
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