「うん、いいよ」
あっさりと承諾するフィオナに、グ・ラハは呆気に取られてしまった。
ヴォイド――『闇の世界』に冒険者と共に乗り込む事を打ち明けたところ、フィオナは反対もせず、また、自分も一緒に行くとも言わず、驚くほど即座に頷いた。これにはグ・ラハだけでなく、冒険者も正直驚いていた。
「いいのかよ、そんなあっさりと……」
「反対して欲しいの?」
「いや、そうじゃねえ! 有り難いけどよ……」
一体どういう風の吹き回しなのか、とグ・ラハは純粋に不思議であった。だが、フィオナは当たり前のようにきっぱりと言い放つ。
「『魔眼の答えはアラグの歴史にある』んでしょ?」
「フィオナ、お前……」
まさか父親から聞かされていた言葉をそのまま返されるとは思ってもおらず、目を見開くグ・ラハに、フィオナは口角を上げてみせた。
「そりゃあ、勿論心配だよ。グ・ラハもだけど、冒険者さんだって、いくら蛮神と戦えて、更にあのガレマール帝国軍に勝てる力を持っていても……今回は、私も正直不安」
今度は冒険者が驚く番であった。今まで任務や依頼を任される事はあっても、心配だとはっきり口にするような人はあまり居なかった。
だが、ウネやドーガ、ネロを救い、世界の崩壊を阻止する為に、不安を抱いてはいられなかった。冒険者は大丈夫だとフィオナに伝えようとしたのだが、その言葉は彼女自身によって遮られた。
「……でも、誰かが行かなければ、この世界は終わってしまいます。私は冒険者さんの勇気を心から尊敬していますし、そんな人に付いていきたいとグ・ラハが思うのも分かります」
そして、フィオナはグ・ラハに向き直って言い切った。
「ここで待ってたって、グ・ラハのもやもやは晴れないでしょ? 闇の世界に行ったら、『思い出さないといけない事』が分かるかも知れない。だったら、行った方がいい。行かないで後悔するよりずっと、ね」
そうだ、シャーレアンに来た時から彼女はずっと己の傍にいて、己の気持ちなどお見通しなのだ。グ・ラハは完敗だと苦笑して肩を竦めれば、念の為フィオナに問い掛けた。
「……その、お前は一緒に行きたいとは思わないのか?」
先程グ・ラハが冒険者と話した時は、フィオナが同行を願い出たら困ると思っていたのだが、こうして背中を押してくれたのだから、やはり彼女の意思はしっかり聞いておきたい――そう思い直したのだった。無論、行きたいと言われても断るつもりでいた。
するとフィオナは、ゆっくりと首を横に振った。
「ううん、私は待ってる」
「……いいのか?」
「足手まといになるのは分かってるし」
「うっ」
フィオナが足手まといなら自分もそうではないかと、グ・ラハは痛いところを突かれてしまったのだが、彼女はそういうつもりで言ったわけではないらしい。
「グ・ラハは自分自身の事を確かめに行くんだから、いいの。それより、無謀な行動を取って最悪の事態にならないようにしてよね。グ・ラハにまで居なくなられたら、私……」
「分かってる、お前をひとりになんてしねーから」
バル島が消滅し、バルデシオン委員会が現在機能していないだけに、やはりフィオナも精神的に参っているのだろう。なんとか笑みを作っていたフィオナの表情が歪んだのを見た瞬間、グ・ラハはきっぱりと言えば彼女の髪をぐしゃぐしゃと撫でた。
「皆を連れて帰って来て、クリスタルタワーを封印したら……フィオナ、お前が言っていたように、ウネとドーガも誘って四人でバルデシオン委員会を復興させようぜ!」
そう言って笑みを浮かべるグ・ラハに、フィオナもつられて微笑を零した。雑に撫でられた事で髪が乱れて、いつもなら怒るのだが、この時ばかりは気にならなかった。
「冒険者さん。グ・ラハの事、よろしくお願いします。ウネさんとドーガさん、それにネロさんの救出も大事ですが、身の危険を感じたら、すぐに引き返してくださいね」
冒険者は任せておけ、と頷いた。グ・ラハは勿論の事、己の事も心配してくれるフィオナを悲しませるような事はあってはならないと、固く胸に誓ったのだった。
冒険者部隊とグ・ラハがヴォイドゲートを潜り抜けたのを見届けて、フィオナは黒い裂け目を見上げながら、胸元で手を組んでまるで祈るような仕草をした。そんな姿に、シドやラムブルースは互いに顔を見合わせて苦笑した。
「フィオナ、本当にグ・ラハ・ティアに付いていかなくて良かったのですか?」
ラムブルースはフィオナに顔を向け、素朴な疑問を投げ掛けた。彼にはフィオナが自分の気持ちを押し殺しているようにも見えたからだ。本当は一緒に行きたいものの、気を遣って遠慮したのではないのかと。
フィオナは組んでいた手を解いて、眉を下げて微笑んだ。
「……グ・ラハが一緒に来て欲しいと思っていたら、私を勝手に頭数に入れて強引に連れて行ってる筈ですよ」
その言葉だけで、フィオナがいかにグ・ラハに振り回されて来たかが想像に容易い。だが、馬が合うからいつも一緒にいるのだろうと、ラムブルースは笑みを零した。
シドもヴォイドゲートの調整を行いつつ、フィオナへと声を掛けた。
「散々振り回しておいて、今度は留守番させられるとは……全く、困ったボーイフレンドだな」
「そ、そういう関係じゃないです!!」
冗談めかして言うシドに、フィオナは一気に頬を紅潮させて大声で否定した。ここシルクスの塔では、聖コイナク財団やガーロンド・アイアンワークス社の面々も待機している。冗談を冗談と思わない人がいるかも知れないのだから、ちゃんと否定しておくに越した事はない。
突然なんて事を言い出すのかと、フィオナは妙な気疲れを感じたが、シドは続けて問いを投げ掛ける。
「フィオナ。この任務が終わったらどうするんだ?」
その問いに、恐らくは不安を抱かないように、気晴らしに雑談しているのだろうとフィオナは察した。それに、己たちが今後どうするのかは、確かにシドたちにとっても気掛かりな事であろう。バルデシオン委員会自体がなくなったも同然なのだから。
「そうですね……まずは、ウネさんとドーガさんにバルデシオン委員会に入って頂いて、消滅から逃れられた委員会のメンバーを探します」
「おお、あの二人が加入するのは確定なのか」
「いえ、勿論お二人とも他にやりたい事があるとしたら、無理にとは言いません。でも、四人でアラグ文明の遺産を探したり、今のこの世界を冒険したり……きっと楽しいだろうなと」
フィオナは徐々に頬が緩みつつある事に気付いて、慌てて首を横に振った。
「いえ、楽しんでばかりもいられません! 今度はバル島消滅の謎を解かないと……そしてバルデシオン委員会を再建します!」
「やる事は山積みだな、グ・ラハに逃げられないようにしないとな?」
「本当にそれが心配です。今頃冒険者さんと一緒に戦っているでしょうし、絶対『暁の血盟』に入りたいって言いますよ! ……まあ、それがグ・ラハのやりたい事だとしたら、止めはしませんが……」
フィオナはそう言って、ヴォイドゲートへと顔を向けた。
今のところ妖異がこちら側の世界に来る気配はないが、皆が帰って来る様子もない。
とにかく、無事に帰って来て欲しい――フィオナは闇の裂け目の向こう側で何が起こっているのか見当も付かないまま、ただただヴォイドゲートを見つめる事しか出来なかった。
一体どれ位の時間が経っただろうか。
皆苛立ちと焦りが見え始め、フィオナは今か今かとヴォイドゲートを覗き込んでいたが、まるで動きはなかった。
やはり、一緒に行きたいと言えば良かったのか。例え反対されたとしても。フィオナは自分で決めた選択に迷いが生じ始めていた。
「遅いな……」
シドがぽつりと呟いた。ネロを救出したいと真っ先に願い出たのはシド本人なだけに、冒険者たちの安否は勿論の事、ネロの事も心配なのだろう。
それに、ヴォイドゲートもいつまでも開けているわけにはいかない。闇の世界からこちら側に妖異が来る可能性もあり、ここにいる非戦闘員の皆を危険な目に遭わせるわけにはいかないと、フィオナは駄目元でラムブルースに問い掛けた。
「あの、私、少し様子を見に行っても良いでしょうか?」
フィオナは絶対に反対されると思っていた。だが、ラムブルースの答えは思いもよらないものであった。
「……フィオナ。私はあなたを信頼しています。危機回避能力があり、自分の身は自分で守る事が出来ると」
「ラムブルースさん……それって……!」
「あなたが言った通り『少し』ですよ。皆の姿が見当たらなければ、すぐに引き返すように」
「……はい! 分かりました!」
フィオナは笑顔で頷いて、ヴォイドゲートの奥へと手を伸ばし、そのまま吸い込まれるように闇の世界へと消えて行った。
一部始終を見守っていたシドは、ラムブルースに問い掛けた。
「……おいおい、随分あっさり承諾したが、大丈夫なのか?」
「彼女もああ見えて、グ・ラハ・ティアと似ているところがあるのですよ。シャーレアンの賢人として本領を発揮出来ず、燻っているのはフィオナも同様……」
「成程な。場合によっては、案外フィオナも『暁の血盟』に入るかも知れんな」
何気なく言ったシドに、ラムブルースはまるで昔を懐かしむように、虚空を見つめて呟いた。
「彼らを見ていると、『救世詩盟』を思い出しますよ。危険を顧みず、世界を救う為に戦う……せめて、彼らは無事に戻って来て欲しいものです」
「グ・ラハ、どこ? お願い、返事して……」
光ひとつない闇の世界。フィオナは少しずつ歩を進め、グ・ラハの名前を何度も呼んだ。姿が見えないのだから、返事がかえってくる訳がないのだが、口にせずにはいられなかった。
黙っていたら、自分自身がこの闇に飲み込まれてしまう――そんな気がしたからだ。
遠くで妖異と思わしき鳴き声が聞こえる。エーテルが汚染され始めているのか、少々眩暈がする。フィオナは徐々に不安を覚え、やはりここはいったん引き返すべきかと思案した。
だが、今この瞬間もグ・ラハや冒険者部隊が戦っているかも知れない。ウネとドーガ、そしてネロを連れて帰るとはいえ、妖異との戦闘は避けられず、あの『暗闇の雲』とも戦闘している可能性もある。暗闇の雲が侵入者を放っておくとは思えない。
皆が危険な目に遭っているなか、自分だけ逃げるわけにはいかない。ラムブルースは己の事を危機回避が出来ると太鼓判を押してくれたが、今だけは――フィオナはもう少しだけと、闇の世界に留まる事を決めた。
「グ・ラハ、皆、どこにいるの……?」
フィオナが再び呟いた、瞬間。
遠くから感じるエーテルの波動。間違いなく、この闇の世界では異質なそれは、己と同じものに違いなかった。
それは徐々にこちらへと迫って来る。フィオナの元へ、というよりは、ヴォイドゲートに向かっている。
こちらに向かっているのは何なのか、否、誰なのか。最早考えるまでもなかった。
「――フィオナ!? バカ、お前、なんでいるんだよ!!」
こちらへと駆けて来たのは、フィオナが見送ったグ・ラハと冒険者部隊であった。ウネとドーガ、そしてネロの姿はない。だが、考えている余裕はないようだ。グ・ラハと冒険者は全速力で走っており、フィオナの横を通り過ぎようとした――わけがない。
「話はあとだ! 光が消える前に、早く!!」
「え!? 光が消え……ひえっ」
グ・ラハはフィオナの手を乱暴に掴んで、そのままヴォイドゲートへ向かって走り続ける。
「嘘!? ゲートが閉じ掛けてる!?」
「契約が破棄されて、世界の繋がりが消えかけてるんだ!」
「破棄って事は……」
一体何があったのかフィオナには分からなかったが、これだけは確実だ。
契約の破棄――ザンデと暗闇の雲が交わした契約が破棄され、ヴォイドとクリスタルタワーの繋がりは失われる。つまり、世界の危機は免れたという事だ。
フィオナは満面の笑みを浮かべ、グ・ラハの手を握り返して、ヴォイドゲート――己たちの帰る世界である光に向かって全速力で駆け抜けた。そして、皆で光に飛び込んで、転がり込むようにシルクスの塔へと王座の前へと帰還したのだった。
「皆! おお……よくぞ無事で!」
フィオナはラムブルースの声で目を覚ました。一瞬気を失っていたらしく、辺りを見回して漸く自分たちは闇の世界から戻って来れたのだと理解した。傍にはグ・ラハと冒険者もいて、更にはネロも倒れている事に気が付いて、無事に助け出す事が出来たのだと胸を撫で下ろした。
だが、全員ではない。ウネとドーガのふたりがいなかった。
助けられなかったのか、あるいは合流出来たものの、皆を助ける為にふたりが犠牲になったのか。
詳しい事は追々聞くとして、今は他の皆が無事戻って来た事を喜ぼうと、フィオナはグ・ラハの顔を覗き込んだ。
「とりあえず、無事で本当に良かった――」
フィオナは思わず息を呑み、言葉を失った。
グ・ラハの瞳が、両方とも紅く輝いていたからだ。
オッドアイだったはずの双眸は、今はどちらも紅い――『紅血の魔眼』を宿していた。
「ねえ、グ・ラハ、その目……」
「ん? ああ、あとで話すよ」
不安そうに見つめるフィオナに、グ・ラハは笑みを浮かべて簡潔にそう告げた。
「それより、待ってるって言ったのに結局来てんじゃねーか。間に合ったから良かったものの……」
「だって、皆全然帰って来ないから……心配で……」
「全く、もう二度と無茶するんじゃねーぞ」
「それはこっちの台詞!」
どうして己がグ・ラハに叱られなければならないのかと、フィオナは唇を尖らせて不貞腐れてみせた。そんな彼女をグ・ラハは呆れるでもなく、どこか愛おしそうに見つめていた。
何故グ・ラハは両眼が『紅血の魔眼』となったのか、その疑問をこの場でフィオナが追究していれば、運命は多少なりとも変わったのか。その答えは、誰も持ち得ていなかった。
2022/10/01