僕らに手向けは要らない

 神殿騎士団本部では、フォルタン伯爵邸に向かう事を快く承諾したアトリであったが、正直アルトアレールだけには会いたくないと思っていた。アイメリク達は己の行為を称賛してくれたものの、皆が皆そうとは限らない。ましてや皇都の一部を壊してしまったのだから、間違いなくアルトアレールから苦言のひとつはあるだろうし、最悪矛先がオルシュファンに行きかねないと思うと、気が重くて仕方がなかった。フォルタン伯爵が助け舟を出してくれる事を願うしかない、アトリはそう思っていたのだが――。



「アトリ殿。この度は我が愚弟の命を救ってくれた事、心から感謝します」
「…………え?」

 伯爵邸の応接間にて。最初に深々と頭を下げたのは、フォルタン伯爵でもなければ当の本人のエマネランでもなく、アトリが苦手としていたアルトアレールであった。さすがにこれにはアトリも呆気に取られ、慌てて首を横に振った。

「い、いえ! 命を救うだなんて、そんな大袈裟な事では……」
「謙遜も度が過ぎると無礼にあたりますよ」
「うっ……」

 やっぱりこの人は苦手だ、とアトリは苦虫を噛み潰したような顔を一瞬だけしてしまったが、アルトアレールの言葉は正論であった。例え苦手意識を抱いている相手だとしても、好意的な言葉は表面上だけでも素直に受け容れる事で、余計な摩擦を生まずに済むものである。
 続いて、フォルタン伯爵もアトリに向かって頭を下げた。

「アルトアレールに先を越されてしまったが、私からも礼を言わせて頂きたい。アトリ嬢、貴殿の勇敢な行動によって我が息子、エマネランは命を落とさずに済んだのだ」

 己がここまで騒動を起こさなくとも、案外神殿騎士団の救助が間に合っていたのではないか、と言い掛けたアトリであったが、アルトアレールについ先程言われた言葉を忘れたわけではない。ここは下手な事を言わず、エマネランの無事を喜ぶ事だけに留めておこうと決め、アトリは口角を上げた。

「その口振りですと、エマネラン様は特に怪我もないようで私も安心しました。この場にはいらっしゃらないようですが……」
「それが未だ『のびている』状態でしてな。なに、医者からは問題ないと太鼓判を押されておりますゆえ、どうか心配はなさらぬよう」
「そうですか……どちらにしても失神するような目に遭わせてしまって、何とお詫びしたら良いか……」

 結局アトリは謝罪の言葉を自然と漏らしてしまっていた。今の彼女の力量では他にどうしようもなかったのだが、これが竜騎士団――例えばエスティニアンであれば、周囲の建造物を破壊する事なくあっさりと救助してみせたに違いない。それは異邦人である自分よりも、寧ろこの皇都の住人こそそう感じるのではないか。そう思うと、やはりどうしてもアトリは素直に称賛を受け取る気にはなれなかった。

 そんなアトリの胸中を、この場で理解しているのはオルシュファンただ一人である。
 フォルタン伯爵とアルトアレールにしてみれば、アトリが謝る理由などひとつもない。失神するような目に『遭わせた』など誰が思おうか。ゆえに、彼らにとって違和感のあるアトリの言動について、オルシュファンが説明する必要があった。

「実は……アトリはエマネランを救助した際、下層の一部を破損してしまい、それを本人がいたく気にしているのです」
「破損? 下層は元々補修も満足にされていない場所も多いだけに、一概にアトリ殿が悪いとは言い切れないのでは?」
「その事ですが……」

 アルトアレールの問いに、オルシュファンは一瞬言葉に詰まったが、意を決してすべてを打ち明ける事にした。確執はどうであれ、アトリが憤る思いを彼らなら理解してくれる。フォルタン家とはそういう貴族である筈だ。そう願いながら、言葉を紡ぐ。

「異国から来たアトリにとって、この皇都が『上層』と『下層』で区別されている光景は、見ていて気分の良いものではないのです。此度の件も『下層ならば修繕せず放置しても問題ない』という結論に至った事に、酷く胸を痛めており……」

 こんな事を外で宣おうものなら、反逆者だと見做されて神聖裁判所に連行されかねない。だが、フォルタン伯爵はこの国の未来のために、固く閉ざす門戸を開くべきだと考えている。それは他国の者の意見にも耳を傾けるべきだとも言える。少なくとも、今のアトリの気持ちを否定する事はしない筈だ。オルシュファンはそう信じていた。
 だが、今すぐに現状を変えられるわけではない事も、この場に誰もが痛感していた。眉を顰め言葉に詰まるフォルタン伯爵の代わりに、アルトアレールが反論する。

「理想論を振りかざすのは勝手だが、アトリ殿の意志を尊重するという事は、この貴族社会を真っ向から否定し、この国の在り方を壊さなければならないという事になる。オルシュファン、お前は綺麗事だけ彼女に語っているのではあるまいな?」
「いえ、そのような事は……」

 室内の空気が一気に悪くなり、アトリはまた以前と同じような事が起こるのではないかと、一抹の不安が脳裏をよぎった。初めてこの屋敷に来た時、アルトアレールがオルシュファンに辛く当たった事を思い出し、もうあんな事があってはならないと、ここは自分が折れる事にした。綺麗事だけではどうにもならず、自分にこの国を変える力も、資格もない事も、アトリとて充分理解していた。
 オルシュファンに非があるわけがないと、アトリが口を挟もうとした瞬間、フォルタン伯爵が漸く口を開いた。

「止さぬか、アルトアレール。アトリ嬢は何も間違った事など言ってはおらぬ」

 伯爵の言葉に、アルトアレールは溜息を吐いてそれ以上追及する事はしなかった。交代するように、伯爵はアトリへ向かって優しい笑みを浮かべながら言葉を続ける。

「まず、貴殿が杞憂しておられる下層の破損について……これはそもそもエマネランが招いた事。ゆえにフォルタン家が責任を持って修繕を行いましょう」
「そ、そんな! よろしいのですか……?」

 驚くアトリに、フォルタン伯爵は快く頷いた。その後ろでアルトアレールがわざとらしく肩を竦めたが、反論するつもりはないらしい。

「アトリ嬢、貴殿は我が息子の命の恩人……この程度の事なら是非フォルタン家に任せて頂きたい。それで貴殿の心が少しでも軽くなれば良いのだが」
「あ……ありがとうございます……!」

 伯爵の言葉通り、本当に心が軽くなったアトリは漸く頬を綻ばせて、深く頭を下げた。何もかもが解決したわけではないが、少なくとも『下層の修繕を四大貴族のひとりが行う』という行為が現実になる事は、この国が変わる貴重な一歩である。尤も、アトリがいない間、あるいはイシュガルドに足を踏み入れるよりも遥か前から、こういった地道な活動をずっとして来たからこそ、今回も何の迷いもなく下層を修繕すると言い切ったのだと、アトリが想像するのは容易かった。そして地道な努力を続けても、そう簡単に国が変わる事はないと分かっているからこそ、アルトアレールも敢えて苦言を呈したのだ、と。

「やはりアトリ嬢に通行許可証を差し上げたのは正しかったようだ。色々と思うところも御有りなのは重々承知しているが……どうか、この先も我々フォルタン家と、そしてこのイシュガルドと良い関係を築いて頂きたい」
「はい! 勿論です!」

 これで蟠りもなくなり、話も終わったところで後はエマネランの回復を祈りながら退出するまでだ。そう思っていたアトリであったが、最後の最後にアルトアレールの口から思いも寄らない言葉が飛び出した。

「ところで、アトリ殿は父上に用事があったのでは?」
「えっ!?」
「私の前では離し難い内容のようですから、このまま失礼させて頂きます」
「あっ……あの……」

 そのままアルトアレールは応接間から退室してしまい、フォルタン伯爵とオルシュファン、それに一部の使用人だけが残った。状況を理解出来ていないオルシュファンは、当然アトリに真っ先に声を掛ける。

「アトリ、用があるなど私は何も聞いていないのだが……」
「いっ、いえ! これはですね……大した話ではないので、今でなくとも全く問題ないと言いますか……」

 しどろもどろになるアトリに、何も知らないフォルタン伯爵が更に追い打ちを掛けた。

「いえ、御多忙の中こうして顔を見せてくださったのですから、序でに是非お聞きしましょう」
「うっ」

 当主に言われてしまっては、適当に誤魔化して退散する事も出来ない。寧ろアルトアレールよりもオルシュファン本人の前で話す事の方が憚られるのだが、ここまで来たら仕方ないとアトリは覚悟を決めた。

「……実は、皇都でオルシュファン様と私が結婚するという、根も葉もない噂が立っていると聞いて、誤解を解く為に一度馳せ参じたのです。偶々ご不在だったので諦めて帰ろうとしたところで、ちょうどエマネラン様を探しているオノロワ様と出くわして、此度のような事に……」

 最早オルシュファンの顔を見る事も躊躇われ、説明しながら徐々に気恥ずかしくなり、しまいには俯いてしまったアトリであったが、その横で彼女にとって信じられない言葉が掛けられた。

「いや、私はお前といずれ婚姻を結ぶつもりでいたのだが」
「え?」
「まさか、アトリはそんなつもりはなかったというのか……!?」
「は!? い、いえ! 違います!」
「ならば、何が問題なのだ?」

 首を傾げるオルシュファンに、アトリは何も言えず気恥ずかしさのあまり一気に頬を紅潮させた。オルシュファンはいい加減な気持ちで異性と付き合うような人ではなく、将来の事もしっかりと考えてくれている事は、アトリとて分かっている。だが、互いの立ち位置や国の情勢ゆえに、今すぐに添い遂げる事は出来ない。だからこそ、周囲に打ち明けるのは時期尚早だと思っていたのだ。尤も、打ち明ける以前にどういう訳か噂となって広まっているのだが。

「どうやらアトリ嬢は慎重な性分のようですな。結婚するか否かは一先ず置いておくとして、貴殿に通行許可証ををお渡ししたのは、オルシュファンと親密な仲であり、その関係は今後も継続していくであろう事を鑑みての事。ゆえに、好意的な噂であれば放っておけば良い」

 そう言って笑みを浮かべるフォルタン伯爵に、オルシュファンは胸を撫で下ろし、反してアトリは更に頬を赤く染めた。まさか噂を否定しに来たはずが、完全に既成事実のように認識されてしまうとは思わなかったからだ。

「慎重……そうであれば良いのだが。アトリ、私に気遣いは無用だ。『そういう』つもりがないのなら、はっきり断って良いのだぞ?」
「いえ! 寧ろ私もいずれはそう……結婚、出来たらどんなに良いかと思ってはいますが……」
「では何故そんなに狼狽えているのだ? 伯爵の仰る通り、噂など放っておけば良いだろう」

 どこまでも真っ直ぐに言い放つオルシュファンに、アトリはもう気恥ずかしさで卒倒しそうであった。そんな二人をフォルタン伯爵は、どこか楽しそうに眺めていた。例え己の『あやまち』から生まれた子であっても、実の息子である事に変わりはない。幼い頃に何かと辛い思いをさせてしまったオルシュファンが、こうして幸せに暮らしている姿が垣間見える事が嬉しいのだ。

「これ、オルシュファン。あまりアトリ殿を困らせてはならぬぞ? どうやら『ひんがしの国』の方は我々イシュガルドの民とは気質が異なり、非常に内気のようですからな」
「いっ、いえ! 皆が皆そうというわけでは……!」

 アトリは慌てて首を横に振ったが、オルシュファンは伯爵の言葉も一理あると痛感した。国や種族によって価値観が異なるというよりも、そもそもアトリは慣れない異国の地で必死に生活しているのだ。そこで悪い内容でなくとも噂話をされれば、あまり良い気分はしないというものだ。

「噂を否定するよりも、敢えてそう思わせておく方が、スパイ疑惑だなんだと嫌疑を掛けられる事もありますまい。アトリ嬢としてもこの国での商売は遣り易くなる……そう思って、ここは軽く流してみるのはどうですかな?」
「……確かに、そうですね。ご助言ありがとうございます」

 一度神聖裁判所に連行されかけた苦い経験があるアトリにとって、いずれこの国の民、それも四大貴族の騎士と結婚すると周囲から認識されるのは、仕事としては遣り易くなる。ただ、それではまるでオルシュファンを利用しているようではないかと、つい苦笑を零してしまった。当のオルシュファンはまるで気にしていないのだが。

「さて、あまり引き留めてはアトリ嬢も疲労が溜まってしまいますな。エマネランに続いて倒れられては、私としても心苦しい」
「そうですね、では我々もここで失礼致します」

 帰るよう促すフォルタン伯爵に、オルシュファンは軽く一礼して踵を返した。親子の会話とは思えない他人行儀な遣り取りであり、彼はずっとこうして接してきたのかと思うと、アトリは胸の奥がちくりと痛み、ほんの少しだけ伯爵に対して否定的な感情を覚えてしまった。
 アトリも続いて一礼し、背中を向けた。その時、オルシュファンが伯爵の方へ振り返って一言だけ呟いた。

「アトリに通行許可証を与えてくださり、本当にありがとうございます」

 オルシュファンは、一年前にアトリが再びこのクルザスの地を訪れた際の事を思い出し、自然と伯爵へ感謝の言葉を零していた。

 アトリが東アルデナード商会の人間として、商売の為にこのクルザスの地を再訪した際、オルシュファンはそれまで漠然としていた『アトリが正式に皇都へ立ち入りする為の手段』が突如閃き、すぐさま実行するに至った。フォルタン伯爵へ通行許可証の提供を願い出るというものである。既に接点が出来ていただけに、二年前では思い付かなかった事であった。
 正直、二年前の騒動を鑑みれば、アルトアレールに窘められて許可が出なくても仕方のない事だという覚悟も出来ており、一か八かの賭けであった。だが、当時から一年の時が経っていた事、イシュガルドの貴族にも愛されている織物『サンシルク』の仕事を一部担う事になったという真っ当な理由があっての事、そして何より、フォルタン伯爵もエマネランもアトリに対して良い印象を抱いていたのが大きかった。アルトアレールの苦言は流され、見事アトリは通行許可証を受け取る事が出来たのだった。

 歯車が上手く噛み合って、今の関係がある。二年前に何も出来なかった事も、何もかもが無駄ではなかったのだ。そう実感しながら、オルシュファンは再び伯爵から背を向けて歩を進めた。

「すまぬ、オルシュファン……こんな事しかしてやれず……」

 ふと声が聞こえた気がして、アトリは振り返ってフォルタン伯爵を見たが、彼はどこか寂しそうに笑みを浮かべて一礼してみせた。気のせいか、とアトリもまた頭を下げて、再び踵を返してオルシュファンの後を追った。



 外に出た瞬間、冷たい空気がアトリの頬に纏わり付く。室内との寒暖差に一瞬身体を震わせたが、辛いとは思わない。そう感じるのは、すぐ傍にオルシュファンがいるからだろうか。
 貴族社会で貧富の差があっても、冷たい人がいても、苦しんでいる人がいても、それでもこの国を嫌いだとは思わず、いつか変わる時が来るのを信じてみようと思えるのは、何より義を大事にする人が傍にいるからだろうか。

「全く、お前はトラブル体質というか、何かと巻き込まれがちだな」
「本当に……でも、エマネラン様が無事で良かったです。これに懲りて少しは大人しくなって欲しいですが」
「残念ながら、それは期待出来んな。あの御調子者っぷりは当分直らん」
「オノロワ様も気苦労が絶えませんね。それでも仲良くやっているようですけど」
「私が言うのもなんだが、エマネランは根はイイ奴だからな」

 間もなく夜の帳が下りる石造りの街並みを、二人並んで歩いて行く。同じように帰路を辿る住民の姿がちらほらと目に入ったが、もう誰に何を言われても気にしない――アトリはそう思えるようになっていた。フォルタン伯爵の助言を実践出来ているのか、あるいはオルシュファンが『そのつもり』でいたからこそ、彼の気持ちを否定するような真似はしたくないと思ったからなのか、あるいは両方か。

「アトリ。その、先程の……結婚の話だが」
「あ、あの……私、伯爵が仰られたように噂は気にしないようにしますので、大丈夫です」
「……うむ、それなら良いのだが」

 まだアトリがエオルゼアを拠点に生活しているのなら、結婚の話を切り出しても良いのではとオルシュファンは思ったが、彼女の拠点は厳密には遥か遠いひんがしの国、クガネである。いくら彼女はある程度自由に行き来出来る立場とはいえ、婚姻を結ぶ事でアトリをこのイシュガルドに縛り付ける事になるとしたら、果たしてそれが本当に彼女の幸せになるのだろうか。そう思うと、オルシュファンは最後の一歩を踏み出せずにいた。

2022/03/27

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