- 目覚めよ来るな永遠に -

 まさか彼女と一緒に食事する展開になるなんて思いもしなかった。どうしてあんな勇気が出たのか正直記憶が曖昧だけれど、とにかく彼女を一人にしておけず、このまま別れたら絶対に後悔すると思ったのだ。

 パトロールを終え、ビリーと共にタワーへ帰還した己たちの視線の先に、ひとりで廊下に佇む淡雪ルリの後姿があった。昨日、彼女がブラッド・ビームスと二人で話し込んでいたのを見て、つい逃げてしまったけれど、別に彼女ひとりであれば、声を掛けて挨拶するのは問題なく出来る。
 ただ、明らかに普段と様子がおかしい。別に彼女を凝視して気付いたわけではなく、誰の目から見ても明らかだった。待てども歩き出す事はなく、呆然と立ち竦んでいたからだ。

「グレイ〜、ルリパイセンどうしちゃったのかな」
「もしかして、具合が悪いのかな……?」
「それなら、グレイが介抱してあげないと! じゃ、頑張って〜」
「ええっ!? ま、待って……! ビリーくんも一緒に――」

 てっきり二人で声を掛けるのかと思いきや、ビリーは己を置いて颯爽とどこかへ行ってしまった。『頑張れ』なんて、一体何を頑張れというのか。別に普通に挨拶して、様子を窺うだけなのに。そう思って何の考えもなしに駆け寄って、背後から声を掛けた。けれど、反応はない。決して聞こえない距離ではないし、彼女は己を無視するような人ではない。
 やっぱり、今日の彼女はおかしい。意を決して彼女の前まで回り込み、その顔を覗き込んだ。

「ルリちゃん、大丈夫……?」

 目の前の彼女の表情を捉えた瞬間、胸の奥が締め付けられる感覚を覚えた。
 己の知っている彼女はいつだって勝ち気で、誰かに辛く当たられても決して折れない、強い女の子だった。それは大人になった今だって、表には出さなくても変わっていない筈だ――そう思っていた。思い込んでいた。

 今にも泣きそうに瞳を潤ませて、どうしていいか分からないとばかりに呆然としている彼女を見た瞬間、彼女の事を理想の女の子だと思い込んでいた己を叱責したくなった。
 前にビリーが放った『淡雪ルリってそんなに凄い存在?』という言葉が脳裏をよぎる。少なくとも、今の目の前にいる淡雪ルリは、紛れもなくごく普通の女の子だ。己たちの年齢で『子』なんて言うのはおかしいかも知れないけれど、己にはそう見えたのだ。

 その後の事は覚えていない。というより、己の存在に気付いた瞬間笑顔を作る彼女に、言葉を返す事で精一杯だった。けれど、雑談は早々に終わってしまい、彼女は早々に己から離れようとしていた。
 何があったのかは知らないけれど、今の彼女を一人にしたくなかった。冷静になって考えれば、己などに構われなくとも彼女なら問題ないのは明白だ。それなのに。

「ルリちゃん、もし良かったら……これから一緒にご飯食べに行かない……?」

 まさか己にこんな勇気があるなど、自分でも思ってもいなかった。





 ヒーローになってから、夜の街を繰り出したのは初めてだった。いや、そもそもトライアウトに合格する前はずっと引き籠っていたし、友人がいない己が夜に出歩く機会すらなかった。つまり、家族以外の誰かと一緒にこんな時間に出掛けるなんて、記憶の限りでは生まれて初めて――かも知れない。

「グレイ、何食べたい?」
「えっ? ええと……ルリちゃんに任せるよ……」
「どうしようかなあ、お腹空いてるから何でも美味しく食べられそうだし……」

 エリオスタワーを抜け出して、行先すら決めず歩を進めているものの、このまま目的地を決められなければ彼女に無駄な時間を使わせてしまう事になる。大体、食事に誘ったは良いものの、本当に自分と一緒に過ごす事を彼女は良しとしているのだろうか。実は嫌々誘いを受けたのかも知れないし、大体誘ったのは己の方だというのに、行く先すら頭にないなんてどうかしている。これでは彼女に幻滅されるのは時間の問題だ。

 ――全部俺に任せろっていうタイプの人なら、ルリさんと相性ぴったりなんじゃないですか?

 ふと、以前パトロール中に彼女とばったり出くわした時に、一緒にいた女子がそんな事を言っていたのを思い出した。例え適当に言っていたとしても、周りから見て彼女に相応しい異性が、己とはまるで真逆のタイプなのだと思うと早くも気落ちした。
 やっぱり、誘わなければ良かった。どうせ自分なんかと一緒にいても、楽しくもないだろうし。そう思って何気なく彼女の様子を窺った瞬間、目が合った。

「あ、ごめんねグレイ。何食べたいか考えてて、黙り込んじゃってた」
「ううん、謝らないで……っていうか、僕こそごめんね。僕の方から誘っておいて、行先も決めてないなんて……」
「どうして謝るの? 前もって約束してたわけじゃないし、たまたまお互い時間が合って突発的に行く事になったわけだし……それに、行き当たりばったりで知らないお店に入るのも楽しいと思うよ?」

 彼女はそう言うと、屈託のない笑みを浮かべた。なんて良い人なんだろう。こんな己に対しても優しい女の子なんだから、当然仲の良い異性だっているだろう。そう、例えば昨日二人でいるところを見掛けたブラッド・ビームスのように、誰が見ても完璧な人だとか……。

「……適当に歩いてたら、特に変わり映えのないところに来ちゃったね」

 彼女の声で我に返ると、己たちはいつの間にかグリーンイーストヴィレッジに足を踏み入れていた。尤も、己のチームの管轄地であり、実家のある住み慣れた街でもある以上、何も考えずに動けば自然といつも歩いている道を辿ってしまうのだろう。
 そういえば、彼女もこのイースト街出身だった筈だ。

「ごめん……何も考えないで歩いてたら、完全に帰り道の途中になっちゃってたよ」
「いいよ、ルリちゃん。僕も全然考えてなかったし……」
「まあ、ここって食べる場所には全然困らないから助かるよね。寧ろありすぎて迷う位」

 本当に、彼女がこんなに優しい人だなんて思わなかった。例え心の中ではどう思っているか分からないとしても、タワーを出てから今の今まで、嫌な顔ひとつ見せず、寧ろ目が合えば微笑んでくれる。
 この幸せな時間がずっと続けば良いのに、なんて叶いもしない事を願ってしまった。一緒に食事するなんて、もう二度とないかも知れないのに。





「ルリちゃん、本当にリトルイタリーで良かった……?」

 外観だけで雰囲気が良さそうだと判断して、適当に入ってはみたものの、つい前に彼女が女性陣でイタリアンを食べに行った事を席に着くと同時に思い出して、つくづくやる事為すことが空回りだと落ち込んでしまった。彼女なら、例え内心うんざりしていたとしても、「構わない」と言うだろう。

「全然構わないけど……どうして?」
「えっ!?」
「え、私驚くような事言った?」

 こう言うだろうな、と何となく思っていた事をまさに口にされて、驚かないわけがない。けれど、相手は己の胸中など知る由もないのだし、これでは変な奴だと思われる。それに、彼女も気を悪くするかも知れない。

「ええと……ルリちゃん、前にイタリアンを食べに行ったって言ってた……よね?」
「あ、そういえばそうだった。あれ、でも……グレイに話したっけ?」
「う、いや、僕に言ったんじゃなくて……こないだ、パトロールの時に偶然ルリちゃん達の会話が聞こえて……」
「ああ、なるほど! グレイって記憶力良いんだね。そういえば、アカデミーの時も――」

 彼女は何かを言い掛けた瞬間、目を見開いた。その後の言葉が出て来ずぼうっとしている姿は、まるで時が止まったと錯覚してしまうほど不自然だった。もしかして、疲れているんじゃないだろうか。考えもなしに食事に誘って連れ回してしまったのは己だと思うと、やっぱり何もしない方が良かったと思い始めて来た。

「あの、ルリちゃん……」

 謝ろう。そう決めた瞬間、店員が注文の品を運びに来て、テーブルの上に二人分のパスタが置かれると同時に、一瞬何を言おうとしていたのか頭から抜けてしまった。

「グレイ、今何か言い掛けなかった?」
「えっと……何言おうとしてたか忘れちゃって……」
「ふふっ、私も同じ。何の話してたんだっけ」

 疲れているのに無理に連れ出して申し訳ない、と言いたかったのはとっくに思い出している。でも、出来立てのパスタを前に嬉しそうに頬を綻ばせた彼女を見た瞬間、野暮な事は口にしない方がきっと楽しい時間を過ごせる――彼女も、そして自分自身も。そう思い直したのだった。



「はあ、凄く美味しいけど結構ボリュームあるね。食後のデザート食べ切れるかな」
「ルリちゃんって少食……? 無理しないでね……」
「少食なのかなあ……あ、でも甘い物は別腹かも」

 若干苦しそうに息を漏らしたのも束の間、照れ臭そうに微笑みながら恐らく本音であろう言葉を漏らす彼女を見て、可愛いと思う反面、こんなに良い人なのだから当然交際相手がいても不思議ではない、という仮定が脳裏をよぎった。
 ただ、それなら曲がりなりにも異性である己が突然食事に誘って、すんなりと受け容れるだろうか。いや、恋愛対象と見做されていないからこそ、誘いを受けたとも解釈出来る。この年齢になって、恋愛どころか友人もまともに居なかったせいで、人との距離感がまるで分からなかった。

「グレイ」
「は、はいっ」
「誘ってくれてありがとう。今更だけど……気遣ってくれたんだよね?」

 遠慮がちに訊ねる彼女の言葉に、そもそも何故己がこんな事をしたのか、本来の目的を思い出した。気遣いなどまるで出来ていないと自覚しているものの、彼女の為に何かしたいと思って行動に移したのは、紛れもない事実だ。

「えっと、ルリちゃんに何があったのかは分からないけど……落ち込んでるのかなって思って……ごめんね」
「なんで謝るの? 凄く嬉しいよ。本当は私が気遣わないといけないのにね」
「ルリちゃんが、僕を……?」
「あっ、う、うん。これでも一応先輩だし……何かあったら話を聞くって言ったのは私の方なのに、立場が逆転しちゃってるし」

 嬉しい。こんなに嬉しい事が起こり得るなんて。彼女が己を気遣うというのは、社交辞令もあるだろうし、寧ろ彼女に迷惑を掛けるぐらいなら甘えない方が良いとさえ思っていた。それなのに、逆に己が彼女の力に僅かでもなれているなんて。

「……あ、あの……僕も、話ぐらいなら聞けるから……」

 ここまで言うと、さすがに踏み込み過ぎだろうか。言いたくないなら無理に言わなくても良い、そう口にするより先に、彼女が悩みを打ち明ける方が早かった。真剣な眼差しを己に向けて、意を決するように僅かに頷いて、ゆっくりと口を開く。

「グレイから見て、その……ウエストセクターのフェイスくんって、どう思う?」

 思わず「は?」と間の抜けた声が漏れそうになった。彼女から飛び出た名前は異性で、それも己と同じルーキーで、あのブラッド・ビームスの弟だ。
 まさか、彼を好きになったなんて話じゃないだろうか。もう嫌だ。帰りたい。何も聞きたくない。美味しく平らげたパスタが胃から逆流しそうになるほど一気に具合が悪くなり、本気で泣きそうになっている。天国から地獄に突き落とされた気分とは、今この瞬間を言うのだろう。

「…………ど、どうしてそんな事を……僕に聞くの……?」
「初対面なのに悪態吐かれて、まさかそんな子だと思わなかったからびっくりしちゃって」
「悪態……? ……えっ!?」

 浮かび掛けた涙も引っ込み、吐き気などどこ吹く風で、ただただ驚愕の声を上げてしまった。

「『二度と話し掛けるな』とか言われたんだよ」
「……え、えっと……フェイスくんが、そんな事を……?」
「たぶん私が気に障る事を言ったんだと思う……でも、最初はショックだったけど、グレイが声掛けてくれて、段々落ち着いてきて……冷静になって考えると、『そこまで言う?』って疑問と怒りが込み上げて……」

 言葉通り、彼女は眉間に皺を寄せて不機嫌な表情をしてみせた。彼がそんな事を言うタイプには見えない、というか寧ろ己に対しては普通に接してくれた記憶しかない。まるで悪い印象がなく、別に彼女を疑うわけではないけれど、己の知る彼のイメージと彼女へ放った言葉がまるで結び付かない。

「どうしてだろう……フェイスくん、機嫌が悪かったのかも知れないね……」
「機嫌……はぁ、私に当たられても知らないんだけど……いや、でも変な事を言っちゃったから怒らせたんだろうなって気はしてる……」
「ルリちゃん、何を言ったか覚えてる……? 会話の流れが具体的に分かれば、本当に失言があったのか、客観的に判断出来るかも……」

 確かに彼女はアカデミー時代、人と衝突する事が度々あったような記憶があるけれど、アッシュのような傍若無人では決してない。もうだいぶ記憶も朧気だけれど、言っている事は正しかったと認識している。まあ、正論は時として人を傷付けるし、言わない方が良い事も世の中には多くあるけれど。
 だからといって、フェイス・ビームスが初対面の相手にそんな事を言うとも思えなかった。ただ、彼の事を良く知っているわけではないから、これは単なる己にとっての印象でしかない。

 その時の事を必死に思い出しているのだろう。難しい顔をして黙り込む彼女の様子を窺っていると、店員が空になった皿を片付けに来て、食後のデザートを出してくれた。おまかせで『本日のデザート』なるものにしたのだけれど、己たちの前にそれぞれ置かれたのはカタラーナだった。そういえば、彼女はあまり食に拘りがなさそうだけれど、苦手なものはないのだろうか。『甘い物は別腹』という位だし、お気に召すと良いのだけれど。

「ルリちゃん」
「あ、ごめん! またぼうっとしちゃってた」
「ううん、必死に考え事してたんだなって分かるから……」

 漸く我に返った彼女は、机上に置かれたカタラーナを見るや否や、満面の笑みを浮かべた。苦手ではなさそうで良かった。そう心の中で安堵していると、彼女の視線が己へと向いた。

「グレイは甘いの平気? もしかして、私に合わせて頼んだりしてない?」
「う、うん……平気っていうか、好き、かな……」
「本当? じゃあ今度は明るい時間に、スイーツを堪能しに行くのも良いかもね」

 彼女は何気なく放ったであろうその言葉に、己が今にも空を飛びそうな程喜んでいる事など当然分かるわけもなく、実に幸せそうに頬を綻ばせて、焦げたカラメルを少しずつ砕きつつ、堪能するようにゆっくりと味わっていた。
 己の聞き間違いでなければ、彼女は『今度は』と口にした。
 この一度きりではなく、またこうして二人で外に繰り出しても構わない、という事だ。
 社交辞令で言っているだけかも知れないけれど、それでも。

「グレイは何が好き? スイーツって言っても色々あるし」
「え、えっと……カップケーキが、好き……かな……」
「分かった! じゃあ次はグレイのお勧めのカップケーキを紹介して欲しいなあ」
「本当に!? いいの!?」

 つい大声を出してしまい、彼女は驚いたのか一瞬肩をびくりと震わせた。変な奴だと思われてしまったかもしれない、と落ち込みかけた瞬間。

「良いに決まってるよ。ていうか、私がお願いしてる立場だし」
「ルリちゃんが……僕に……?」
「うん、グレイさえ良ければ、またこうやって一緒に出掛けようよ」

 これは絶対に社交辞令なんかじゃない。こんな事が起こるなんて信じられない。もしかして夢なのかも知れない――けれど、口に運んだ甘味が与える味覚が、間違いなく現実なのだと教えてくれる。それなのに、この瞬間が夢ならばどうか覚めないで欲しいと、願わずにはいられなかった。

2020/12/09
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