- 僕ら砕けた青春だから -

 二度のトライアウトに落ち、三度目で漸く受かった頃には、アカデミーを去ってから随分と年月が経過していた。ヒーローになれば弱い自分から脱却出来ると信じ、悪夢のような日々に終止符を打つことが出来る――そう信じていた。
 アカデミー時代に己を虐げ続けて来た同級生、アッシュ・オルブライトと同じチームだと判明するまでは。
 案の定、何かにつけて因縁を付けられ息苦しい日々を送る事となり、結局己は何も変わらないまま生きていくのだと、早くも気落ちしてしまっていた。

 ただ、アカデミー時代と比べて恵まれている事が二つあった。
 一つ目は、アッシュ以外のチームメイトが己を快く受け容れてくれた事だ。同じルーキーで同室でもあるビリー・ワイズも、アッシュと共にメンターを務めるメジャーヒーロー、ジェイ・キッドマンも己のような人間にも分け隔てなく、優しく接してくれる。アッシュがどれだけ己を罵ろうとまるで気にしない二人の存在は、アカデミー時代では考えられなかった事だ。
 そして、もう一つは――。





「今日は流れでイタリアンにしたけど……ねえ、ルリは何食べたい? 次行く時はルリの意見を参考にしたいと思うんだけど」
「うーん、特には……割と何でも食べるし」
「それ、一番困る回答ですよ〜! 何でもお任せってタイプ、男が嫌になるパターンじゃないですか」

 ビリーと共にグリーンイーストヴィレッジのパトロールを行っていると、複数の女性の声が耳に入り、無意識に身構えてしまった。ただの通行人の雑談であれば気に留める事もないのだが、知り合いの名前が紡がれた気がして、自然と視線が声の主の方へと向かう。

「全部俺に任せろっていうタイプの人なら、ルリさんと相性ぴったりなんじゃないですか? 相手に任せてたら、いつの間にか結婚してたりとか……」
「こらっ、年上をからかうんじゃないの。ルリも後輩に優しいのはいいけど、たまには怒らないと駄目だよ」
「いや、怒る理由がないしなあ」
「全く……ヒーローとしてちゃんと実力もあるのにAA止まりって、絶対その性格が原因だと思うんだけど」

 後輩らしき女子を嗜める女性から放たれた言葉から、彼女たちが己と同じHELIOSに所属するヒーローなのだと把握出来た。ただ、会話の内容から察するに、仕事中ではなくプライベートで遊びに出かけているのだろう。
 歩いているのは三人。そのうち、一番後ろで凛とした雰囲気を漂わせながらゆっくりと歩を進める『ルリ』と呼ばれた彼女は、紛れもなくアカデミー時代の同級生だった。……と言っても、向こうは己の事など認識しているわけがなく、ただ一方的に己が彼女を知っているだけだ。
 淡雪ルリ。密かに想いを寄せていた、僕の――

「グレイ、なになに? あの人たちと知り合い〜?」
「ひえっ」

 ぼんやりと彼女の姿を追っていると、ビリーに突然顔を覗き込まれてつい素っ頓狂な声を出してしまった。己の声に反応したのかは分からないが、女性陣が一気にこちらへと顔を向けた。
 瞬間、胸の鼓動が高鳴り、今にも不安で押し潰されそうになった。決して彼女が己を見てくれて嬉しいだとか、そんな喜ばしい感情ではない。己が人に注目されるのは、アカデミー時代にアッシュに虐められていた時ぐらいだ。
 過去の嫌な記憶が蘇り、比喩ではなく本当に胃の内容物が逆流しかけた時。

「ふたりともパトロール? お疲れ様」

 己の側に駆け寄り、声を掛けてくれたのは、淡雪ルリその人だった。当たり前なのかも知れないが、アカデミー時代の勝気だった少女はすっかり大人の女性へと成長し、落ち着いた佇まいを見せていた。

「ルリパイセン、お疲れ様で〜す」
「ビリーくんは相変わらず元気だね。どう? アッシュから嫌がらせ受けたりはしてない?」
「ん〜、まあ上手く交わしてるって言い方が正しいカナ?」
「そう……何かされたら遠慮なく言ってね。と言っても、ブラッドさんに告げ口するぐらいしか出来ないけど……」

 己には「知り合い?」なんて言っておきながら、ビリーは既に彼女と面識があるようだった。どういった経緯かは分からないけれど、コミュニケーション能力があれば年上の女性にも気軽に声を掛ける事が出来るのだろう。己には一生無理だ。
 ふと、申し訳なさそうに力なく笑う彼女の視線が、ビリーから己へと移る。つい目を逸らしてしまったものの、彼女は特に気を悪くしてはいないようだった。

「グレイ」
「は、はいっ!」
「HELIOSでの生活はどう?」

 己の名を呼ばれた瞬間、逸らしていた目が反射的に彼女の方へ向いた。至って普通に、決して己を蔑むでもなく、ごく自然な笑みを浮かべている彼女の表情を捉えた瞬間、一気に顔が熱くなる。別に彼女とって己など、ただのルーキーの一人に過ぎないと分かっているのに。それどころか、もし彼女がアカデミー時代の己を覚えているのだとしたら、その微笑には憐れみの感情が含まれているかも知れない。そう思うと今度はたちまち気が沈んだ。いっそ己の存在など微塵も知らないでいてくれたら、どんなに良いだろう。

「……グレイ?」
「はっ、ぼうっとしてた……ごめんなさい、ええと……」
「謝らないで。私こそごめんね、どう?なんて聞かれても漠然としてて答えられないよね」
「ううん、ルリちゃんは悪くないから……」
「ルリ『ちゃん』?」

 己と彼女の会話に突然割って入る声。その声の主、ビリーは実に興味深そうに己を見つめていた。彼はいつもゴーグルを身に付けていて、その表情は窺えない。けれど、明らかに彼の興味を引く事を言ってしまったのだと理解するのは容易かった。

「グレイとルリパイセンって、どういう関係〜? もしかして、オイラに内緒でこっそり付き合ってたの〜!?」
「ちょっ、ビリーくん! そういうんじゃないから……! ごめんね、ルリちゃ……ええと、ルリ……先輩、って言った方がいいのかな……」
「『ルリちゃん』でいいよ。そうやって呼ばれる事あまりないから新鮮だし」

 はっきり言って、そんな呼称を使っても違和感のない関係では全く以てないというのに、彼女はほんの少し照れ臭そうにはにかんで、頷いてみせた。ただ単に気を遣って言っているだけで、心の中では己の事を気持ち悪いと思っているかも知れないのに。それでも不思議と嬉しさで胸が熱くなる。

「ねえねえ、ルリパイセンってグレイと付き合ってるの?」
「グレイに聞けば? ルームメイトなんだからいつだって聞けるでしょ」
「えっ、じゃあグレイが『ルリちゃんは僕の恋人です!』って言えば、それを受け入れるってコト?」
「グレイがそんな事言うわけないでしょ。ね、グレイ?」
「えっ?」

 またぼうっとしていた。一体ふたりが何の話をしていたのかすら定かではなく、困惑する己に、彼女は唇を尖らせて言った。

「ビリーくんが、私とグレイが付き合ってるんじゃないの?って」
「え!? そんな……駄目だよビリーくん、いくら冗談でも僕なんかが相手じゃ、ルリちゃんに迷惑がかかるよ」

 いくらなんでも突飛すぎる。ビリーに顔を向ければ慌てて否定するも、何故か彼は納得していないようだ。冗談にしては質が悪すぎる。己はともかく、彼女のほうがこんな奴と噂が立つなんて嫌がるに決まっている。

「じゃあどんな関係なの? ルリパイセン、いくら聞いても濁すんだもん」
「だから、グレイに聞けばいいでしょ。ていうか私も暇じゃないから、引き続きパトロール頑張って」
「ええ〜、ボクちんを捨てて行かないで〜」

 ビリーの嘆きの声を無視して、彼女は颯爽と仲間たちの元へ行ってしまった。案の定、己たちの会話が聞こえていたらしく、彼女の後輩が「彼氏ですか!?」なんて騒いでいる。まさか再会して早々こんな迷惑の掛け方をしてしまうとは。申し訳なさ過ぎて、もう二度と会わないほうが彼女も幸せに健やかに生きていけるのではないかと本気で思ってしまった。

「で、グレイはルリパイセンとどんな関係なの?」
「どんなも何も……ただの同級生だよ。仲が良かったわけでもないし、本当にただ、アカデミーで同級生だったっていうだけで……」
「それだけなのに『ルリちゃん』って呼ぶの?」
「それは……僕が一方的にルリちゃんの事を――」

 つい本音を言い掛けて、慌てて片手で口を塞いだ。けれど既に手遅れで、ビリーはその先己が言おうとしていた言葉を理解してしまったらしい。ただ、決して茶化すつもりではないようだ。というより、驚いているように見える。ゴーグルに太陽の光が反射して、その奥にある目の表情が隠されている以上、憶測だけれど。

「ビリーくん、あの……僕、何かおかしな事言ったかな……。いや、出来れば記憶から抹消して欲しいけど……」
「グレイはおかしい事なんて何も言ってないヨ。もっと自信を持って〜! そうすれば『ルリちゃん』に愛の告白だって余裕余裕〜」
「だから、そんな事したらルリちゃんに迷惑が掛かるよ……相手が僕なんかじゃ……」
「それが不思議なんだよネ〜。グレイが自分に自信を持てないのはともかく、淡雪ルリってそんなに凄い存在?」

 ビリーは両手を頭の後ろで組んで、小首を傾げてそう訊ねて来た。決して悪気があって言っているようには見えず、純粋に疑問だとでも言いたげに。

「そんなに凄い存在、って……だってルリちゃんはストレートでトライアウトに合格する程優秀だし……」
「ああ、それってアカデミー時代の話だよネ? じゃあ、グレイは『今の淡雪ルリ』の事はどの程度知ってる?」
「今の?」
「今って言うより、ヒーローになってからのルリパイセンの事」

 そう聞かれて、何も答えられない自分に初めて気が付いた。考えてみれば、己はアカデミー時代の彼女の事は知っていても、ヒーローになった後の彼女の事はそこまで詳しくはない。それこそ己たちのメンターのひとりでもあるジェイ・キッドマンほどのメジャーヒーローになれば自ずと知名度も上がるものの、駆け出しのヒーローであれば活躍の場をこの目で直に見なければ、存在を認識する事も難しい。
 ヒーローとして活躍する淡雪ルリの話題を聞いた事はなかった。だが、それは当たり前の事だと思っている。彼女は己と同い年で、まだ二十五歳だと考えれば――。

 いや、その認識自体が間違っていたのだ。己たちは『もう』二十五歳にもなるのだと考えるのが妥当なのだろう。ましてや今己と同チームのルーキーであるビリーは未だ十代だ。他のルーキーもその年代が圧倒的に多い。
 ――つまり、ビリーが何を言いたいのか答えは出たが、それを口にしてしまうのは彼女を罵る行為になる。

「ビリーくんの言いたい事はなんとなく分かったよ。それでも、僕は……」
「Gotcha! 俺っちもタダで情報提供するつもりはないから、ルリちゃんの事を詳しく知りたかったら――」
「ううん。それは僕がルリちゃんと仲良くなって、自然と知る事だと思うから」
「ええ〜、残念」

 ビリーはヒーロー稼業の傍ら情報屋もやっていて、様々な情報を提供する代わりに対価を得ているのだという。まさか彼女の情報まで保有しているとは思わなかったけれど、金銭で彼女の事を探ろうとするのは駄目だ。そこまで落ちてしまっては、本当に彼女に顔向け出来ない。尤も、己がトライアウトに合格した経緯を思えば、既に堂々と顔向け出来る立場ではないのだが。

 己の知る淡雪ルリという子は、正義感に溢れ、悪い事は悪いとはっきり言える、己とは正反対の存在だった。それ故に反感を食らう事も多く、彼女もまた嫌がらせを受け、相当理不尽な思いもしたであろう事も知っている。だからこそ、ストレートでトライアウトに合格し、自分の事を悪く言う連中を実力で黙らせて、ヒーローの道を進んだ彼女は、己のような惨めな人間とは決して相容れない存在なのだと思っていた。

 それなのに、まさかヒーローになってから結果を出せていないなど、まるで思いもしなかった。どうしてあの強かった彼女がそんな状態に陥ってしまっているのか。気になりはするものの、己はそれを詮索するような立場ではない。ただ、彼女が天上の存在ではないと分かった今、もしかしたら本当に仲良くなれるかも知れない――などと僅かでも邪な感情を抱いてしまい、ますます自分に嫌気が差した。彼女の立場がどうであろうと、己にほんの少しでも好意を抱いてくれるなど、絶対に有り得ないというのに。

2020/09/28
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