- 眠れる椋鳥 -

 あれからグレイは、研究部のラボで眠り続けている。今、メンターリーダーのブラッド・ビームスを始めとした上層部は、グレイの処分について話し合っているらしい。仲間を殺めようとして、しかもジェイやビリーもその状況を目の当たりにしていたというのだから、如何なる理由があっても弁解の余地はない。
 グレイが目を覚ましたら、彼はこの現実と向き合わなければならない。それがどんなに辛い事なのか、私には想像出来なかった。ずっと生温い環境で生きて来た、私には。

「大丈夫? ルリちゃんも寝てないんじゃないのかな?」
「あの、ノヴァ博士。ルリ『ちゃん』は止めてくださいよ。友達や親戚の子どもでもないのに……私もう二十五なんですよ?」
「そっか、もうそんなに経つんだねえ」

 イクリプスを撃退した後、どうしてもグレイの事が心配で家に帰ろうとは思えず、このままタワーで一晩過ごすと決めた――のは良いものの、仮眠室で寝ようにも全く寝付けず、グレイが運ばれたラボへお邪魔したのが事の顛末だ。
 幸い追い返される事はなく、ノヴァ・サマーフィールドは逆に持成すように珈琲を淹れてくれた。というか、特に研究部と深い繋がりがあるわけではないのに、『ちゃん』付けされるような関係ではないと思うのだけれど。

「レンくんにも、いつかは『子ども扱いするな』なんて言われる日が来るのかなぁ」
「『レンくん』って……ああ、ノースセクターのルーキーの子ですか。お知り合いなんですね」
「うん。というか日系人って若く見えるから、ルリちゃんも俺にしてみたら六年前と変わらないように見えるよ〜」
「……誉め言葉として受け取っておきますね」

 外見の話をしているのは分かっているのだけれど、六年経っても成長していないと思われているように錯覚して、少々微妙な気持ちになってしまった。いや、そもそもこんな雑談をしている場合じゃない。

「あの、ノヴァ博士。私……」
「グレイくんの事だよね?」
「は、はい……。グレイが心配なのは勿論、『こんな事』が起こった原因について、私が知る限りの事をお話したいと……」

 私の言葉が意外だったのか、ノヴァは眠そうな目を見開いて、身を乗り出した。

「……グレイはアカデミー時代に、現メンターのアッシュから酷い虐めを受けていたんです。誰も助けようとせず、私も……当時はアッシュが恐くて何も出来なくて……」

 こんな事は言い訳でしかない。一番辛いのはグレイなのに、私の双眸からは自然と涙が零れて、瞬く間に視界がぼやけた。この涙は、何も出来なかった自分が情けなくて、言い訳しか出来ない自分が恥ずかしい故に溢れ出るものだった。

「ノヴァ博士はもうお気づきかも知れませんが……グレイは恐らく、二重人格だと思うんです。でなければ、こんな事起こり得ません」
「『だと思う』と言っても、ルリちゃんは確信があるんだよね?」

 決して尋問されているわけではなくて、私が一方的に話しているだけだ。会話を打ち切る事だって出来るし、ノヴァ博士もそれを咎めはしないだろう。
 けれど、こんな事になってしまったのには、きっと私にも原因がある。例えグレイが私を責めなくても、『もう一人の』グレイは、はっきりと私を否定したのだから。

「……私、別人格と思わしきほうのグレイとも、会話した事があるんです。まるで人が変わって、攻撃的な物言いで……だから、アッシュがグレイにナイフで切り付けられそうになったと聞いて、間違いないと思ったんです。本物のグレイじゃない、もうひとつの人格があるって……」

 だって、私の知っているグレイは、そんな事をする筈がない。仮に他人を悪く言う事があったとしても、人の道を外れる行為だけは絶対にしない。三回もトライアウトを受けてやっと合格して、そこまでヒーローになりたかった彼が、こんな事で自分の人生を台無しにするわけがない。例えどんなに憎んでいる相手でも、仲間に手を掛けるなんてあってはならない事だ。
 復讐が悪い事だとは言わない。けれど、アッシュを殺す事で自分の人生が滅茶苦茶になるよりも、ヒーローとして歩み始めたこれからの未来を選ぶはずだ。『本物』のグレイはそうする筈だ。そう信じたかった。

「ノヴァ博士、すみません。こんな事を言っても何の証拠にもなりませんよね……」
「ううん、そんな事ないよ。医学的には――」
「過剰なストレスによって人格分裂が起こる事は、珍しい話ではありませんからね」

 突然、ノヴァではない人物の声が聞こえ、つい反射的にあたりを見回すと、少し離れた場所でヴィクター・ヴァレンタインが佇んでいた。研究部所属でありながら、今年ノースセクターのメンターに配属された、特殊な立ち位置にいる人だ。特殊というのは、戦闘の場に姿を見せる事がほぼないからだ。

「ノヴァ。彼女の話は真実だと捉えて間違いないでしょう。私がグレイから直接聞いた話とも一致しています」
「うん、俺もルリちゃんが嘘を言うようには思ってないよ」

 私は保身の為に嘘を吐ける女だし、それを先日もう一人のグレイに面と向かってはっきり言われたのだけれど。
 悪意は一切ないであろうノヴァの言葉に頬が引き攣ってしまったけれど、それ以上にヴィクターの発言を無視するわけにはいかなかった。自然と立ち上がって、ヴィクターに向かって恐る恐る口を開いた。

「あの、ヴィクターさん! 聞き間違いでなければ、その、グレイから直接話を……?」
「ええ。よく立ち眩みが起こる、意識が途切れる等、体調不良について相談を受けていました。詳しく話を聞いていくうちに、過去のトラウマが影響しているのではないかと私も同じ結論に辿り着きましたから」
「そうだったんですか……グレイ、前々から身体に不調が出ていたなんて、私、何も気付けなくて……」
「淡雪ルリ。あなたはメンターでもチームメイトでもないのですから、気付かないのは当然の事では? それとも、あなたはそれほどグレイと深い仲なのでしょうか」
「……いえ、私が一方的にグレイを想っていただけで……」

 こんな事を馬鹿正直に答える時点で、私こそどうかしている。私がグレイに片想いしている事を二人に伝えたからといって、グレイが救われるわけでもなければ、何かが解決するわけでもないのに。

「『想っていた』とは、具体的にどういった感情なのでしょうか?」
「そういう野暮な事は聞いちゃ駄目だよ〜、ルリちゃんも勇気を出して告白してくれたんだから」

 ヴィクターが会話に入って来た事で、話が脱線してしまっている気がする。私がグレイの事をどう思っているかなんて彼らには関係ないし、そんな話をしている場合ではない。
 グレイはこの後、どうなってしまうのか。過去に何があったとしても、凶器で相手に危害を加えようとしたのは紛れもない事実であって、当然処罰は受けるだろう。でも、一体どんな罰なのか見当もつかない。単なる喧嘩ではなく、相手を殺そうとしたとなれば、例え未遂でもヒーローとして許されない事だ。

「……ノヴァ博士、ヴィクターさん。それで、グレイは大丈夫なんでしょうか」
「大丈夫、とは具体的に何を指して言っているのでしょうか。グレイの体調について、メンターを殺害しようとした事への罰則について、それとも――」
「全部です……」
「困りましたね。漠然とし過ぎている以上、我々が答えられる事をお伝えしたところで満足しないでしょうし」

 ヴィクターはそう言いつつも困った素振りなど一切見せず、淡々とした様子でノヴァへと顔を向ける。

「うーん、こればかりは俺たちではきちんと答えられそうにないかな、申し訳ないけれど……グレイくんの処分を決めるのは上層部だからね」
「そうですよね……すみません、私もどうしたら良いのか分からなくなってしまって。これ以上ここにいても、お二人を困らせてしまうだけですね」

 本当に今の私はどうかしている。二人はグレイの身体を診る事は出来ても、目覚めた後の面倒を見てくれるわけではない。寧ろ私がここに居続ける事で、彼らの仕事に支障が出たらそれこそ問題だ。淹れて貰った珈琲も飲み切れず申し訳ないけれど、早々に退散しなくては。そう思って踵を返した瞬間。
 背後からわしゃわしゃと乱暴に髪を撫でられて、思わず振り返ってしまった。まるで悪びれもせず気の抜けた表情で笑みを浮かべているノヴァは、一体何を考えてこんな事を。

「ノヴァ博士……あの、私子どもじゃないんですよ?」
「というか、俺としてはルリちゃんの事も心配なんだよね。今回はかなり大暴れしたって聞いたけど、あまり焦らないようにね」
「大暴れって……普通にイクリプスと戦っただけですよ」

 どれだけ誇張して伝わっているのかと少しばかりうんざりしたけれど、別にヒーローとして当然の行いをしただけなのだから、堂々としていれば良い。経緯はどうであれ、やっと前向きに頑張ろうと思った矢先にこんな事が起こって、もう自分の事どころではなくなってしまっているけれど。
 そんな私の葛藤を見透かすように、ノヴァは苦笑交じりに呟いた。

「焦って頑張り過ぎると、またオーバーフロウが起こって君の身体を蝕む可能性がある。上手くコントロール出来るようになるまでは、無理しちゃ駄目だよ」
「ですが、コントロールする為にはオーバーフロウを起こす必要があるのでは……」
「焦る気持ちは分かるけど、故意的に起こすのはどうかと思うんだよねぇ〜」

 心配してくれるのは有難いけれど、その恐怖を乗り越えない事には先に進めない。ノヴァの気遣いに感謝しつつ、私は今度こそラボを後にする事にした。出る前に、少しだけグレイの様子を窺ったけれど、目を覚ます気配はない。

「ごめんね、グレイ……」

 ジェイやブラッドからグレイを気に掛けるよう言われていたというのに、結局のところ私は、グレイの優しさに甘えて表面上良い顔をするだけで満足してしまっていた。例えもう一人のグレイが拒んだとしても、もっと深く関わるべきだったのだろうか。恋愛云々じゃなくて、友達として、一人の大切な人を救う為に。こうなる前に、もっと様々な事が出来た筈だ。そう思うと、悔やんでも悔やみ切れなかった。





「ルリ」

 ラボを出てからそう時間も経たないうちに、背後から声を掛けられた。普段関わりのない人物であっても、つい先程まで会話していた相手なら顔を見なくても誰なのかは判断が付く。

「ヴィクターさん、私に何か御用ですか……?」

 振り向いた先にいる人物――ヴィクター・ヴァレンタインは、感情の読めない冷たい笑みを湛えながら私を見据えていた。まるで、実験体でも眺めているかのように錯覚したけれど、さすがにそれは先入観を持ち過ぎだと思考をリセットした。

「ルリ。あなたは故意的にオーバーフロウを起こしたいのでしょうか?」
「え? ええと……そうですね、普段の力では勝てない程の強い敵と対峙しない限り、オーバーフロウは起こらなさそうなので。自分の意志で起こせたらどんなに良いか……」
「可能ですよ」

 耳を疑った。顔色ひとつ変えずにあっさりと告げるヴィクターに、唖然として言葉も出て来なかった。そんな私に、ヴィクターは何かを差し出した。錠剤だ。

「この薬を飲めば、オーバーフロウを起こす事が出来るんですか?」
「ええ。『まだ』正式に許可を得ている物ではありませんが」

 許可を得ていない――つまり、副作用や何が起こっても責任は取れないという事だ。まさか本当に私を実験体にしようとしているとは。さすがに不安にならざるを得ない。

「……この事は、ノヴァ博士はご存知なんですか?」
「私独自の研究ですので、どうか他言無用でお願いしますね」

 怪しいと言っているようなものではないか。そんな私の胸中を察したのか、ヴィクターは淡々とした口調で言葉を紡ぐ。

「あなたが怪しむのも無理はありません。ですが私も研究者として、オズワルドの意志を継いでいる事だけは理解して頂ければと」

 オズワルド・サマーフィールド。ノヴァの亡き父君であり、サブスタンス工学の第一人者だ。彼なくして、このHELIOSがここまで巨大な組織になる事はなかったと言い切れるし、世界の秩序が保たれているのは、彼の功績の賜物と言っても過言ではない。

 そんな偉大なる御方の名前を出す以上、責任と覚悟は持っていると信じたい。ヴィクターはれっきとしたノースセクターのメンターであり、この配属にはブラッドの一任だけではなく、上層部の許可も必要なはずだ。本当に怪しい者を就任させるわけがない。

 息をんで、覚悟を決めた。ヴィクターが差し出した錠剤を受け取り、改めて彼の顔を見上げた。少しばかり、満足げに微笑んでいるように見えなくもない。

「あなたなら受け取ってくれると信じていましたよ、ルリ」
「……そんな、大袈裟ですよ。今日初めて会話した程度の関係で、信じる信じないなんて……」
「あなたが私の事を知らなくとも、我々はあなたの事を熟知しています。過去にオーバーフロウで生死の境を彷徨った事、その後成績が低迷している事……才能あるヒーローをこのまま腐らせておくのは忍びない。それは私もノヴァも同じ気持ちです」

 私が普段気にしていなかっただけで、ヴィクターの言っている事は間違いなく事実だろう。皆、末端のヒーローの事まで理解していて、どうすればより力を発揮する事が出来るのか、日々研究に励んでいるのだ。研究部だけでなく、多くの部署が。そう考えると、自分の不甲斐なさに改めて恥ずかしさを感じてしまった。

「この薬を飲むかどうかはあなたにお任せします。ただ、接種後は定期的に私の元へ来てください。自覚症状のない副作用が出る可能性もありますから」

 本当に実験体になりかけているけれど、薬を飲む事を強制せず私に判断を委ねるあたり、ヴィクターにはまだ人の心があると思う事にしよう。
 もしグレイがこんな事にならず、以前と変わらず普通に話せる関係のままでいたとしたら。今の私を知ったら、そこまでする必要はないと止めるのだろうか、それとも――。

2021/04/29
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