- それは依存だ、愛じゃない -

「グレイ!? 大丈夫!? しっかりして!」

 もしかしたらグレイに会えるかも知れない――なんて下心を抱いて、仕事を終えた後まっすぐ帰宅するのではなく、用もなく共有スペースで時間を潰していたら、運良くばったり会う事が出来た。けれど、運が良いなんて思っていたのは最初のうちだけだった。

 話している途中、グレイは突然眩暈を起こして倒れ込んだ。飲み干して空になった紙コップを乱雑に机上に放って、咄嗟にグレイの背中に手を回して声を掛けたけれど、反応はない。
 念の為、彼の手首に指で触れる。脈はある。次いで顔に耳を近付けると、小さく呼吸音が聞こえた。命の危険があるわけではなさそうだ。一瞬安堵したけれど、そもそも意識を失う時点で安心なんてしていられない。なんとか背負って救護室へ向かわないと。
 そう思って、彼の身体を起こそうと背中に回した手に力を込めた瞬間。

「……触るな」

 誰が言ったのか瞬時に判断出来なかった。間違いなく目の前のグレイの口から放たれた言葉だというのに、そんな事を言うわけがないという思い込みで、気のせいだと無視してグレイの背中を起こそうとした。その筈だったのだけれど、一瞬の事で理解が追い付かなかった。
 グレイは自分で上体を起こし、私の手を払い除けたのだ。

「聞こえねぇフリしてんじゃねぇよ。触るな、嘘吐き女」
「え……?」

 悪い夢でも見ているのかと本気で思うほど、現状が理解出来なかった。さっきまで意識を失っていたグレイはしっかりと目を覚まし、私を睨み付けている。
 こんな表情、今まで一度も見たことがなかった。HELIOSで再会してからだけじゃない。アカデミー時代も、一度たりとも。
 グレイは呆然とする私を忌々しそうに見遣れば、何事もなかったかのように立ち上がって、そのまま歩き去ろうとしていた。
 ――駄目だ、ぼうっとしていたら。何が何だかまるで分からないけれど、とにかく私がグレイを怒らせたのは事実なのだから、その理由を確かめないと。失言があったのなら謝るべきだ。グレイが許してくれるかどうかは分からないけれど、きちんと筋を通さないと私自身が納得出来ない。

「グレイ、待って!」

 慌てて追い掛けて、無我夢中でグレイの腕を掴んだ。当然、『触るな』という言葉を無視したのだから、彼の怒りを余計買う事は当然の流れだ。

「てめぇ、俺をわざと怒らせたくてやってんのか?」
「違っ……あの、私、何かグレイを怒らせるような事言った……? お願い、悪い事を言ったなら謝るから……!」
「はっ、白々しい事言ってんじゃねぇよ」

 グレイは私をあざ笑うように、口角を上げて大きく目を見開いてみせた。見た事のない表情、聞いた事のない口調。まさかこれが、グレイの本当の姿なのか。
 彼は私の手を再び乱暴に払い除けて、きっぱりと言い放った。

「『アカデミーで同期だったらしいけど覚えていない』なんて大嘘吐きやがって。どれだけ惨めな思いをして来たか覚えてた癖によ」
「……え!? 待って、それは……」
「でなけりゃ、あんな散々なLOMを見て『本当に強くなった』なんて感想が出て来るわけねぇだろうが」

 もうグレイの顔から笑みは消えていた。私を見下ろして、心底軽蔑するような眼差しで、静かに呟いた。

「一番救いを求めていた時に何も出来なかった……いや、しなかった癖に。てめぇの自己満足に『グレイ』をこれ以上付き合わせるな」

 彼の口振りが、明らかにグレイ『本人』ではないと、冷静であれば気付く事だ。でも、この時の私はショックのあまり思考が停止していた。
 一番言われたくなかった言葉――『何もしなかった』自分を、当の本人がはっきりと非難したのだから。

「てめぇはグレイの事なんか好きでも何でもねぇんだよ。ただ自分可愛さに嘘を吐いて、今更グレイに優しくする事で、許された気になってるだけだ」



 気付いた時には、私だけがその場に取り残されていた。グレイが何処に行ったのか分からないし、追う事も出来なかった。そもそも、今の私に追い掛ける権利なんてない。
 グレイが言った通り、私は彼が一番辛かった時に何も出来なかった。アッシュに歯向かったら面倒な事になるし、周りも黙っていない。でもそんなのは言い訳で、彼の言う通り、私は自分可愛さにあえて何もしなかったのだ。
 そして、今頃になって、お互いに安全圏にいる状態で優しくしたところで、彼にとっては意味のない行為だ。今更優しくするぐらいなら、どうしてアカデミー時代にそうしなかったのか。今更仲良くしたところで、グレイの過去の傷が消えるわけでもなければ、私の『何もしなかった』罪が許されるわけでもないのに。

 それどころか、下手に嘘を吐いたせいで余計にグレイを傷付けた。だからあれだけ激高したのだ。あんな口調で怒る姿、本当に見た事がない。それだけ私の嘘に腹を立て、傷付いたという事だ。
 今日、まっすぐ帰っていればグレイと会わず、こんな事にならずに済んだんじゃないか。
 ――いや、違う。嘘だと分かるのがほんの少し先延ばしになるだけだ。

 こんな事なら、初めから下手な嘘なんて吐かなければ良かった。後悔してもしきれない。私はいつだって後悔ばかりだ。アカデミー時代から何も変わっていない。何も成長していない。
 私はただ、グレイと仲良くなりたかっただけなのに。若かりし頃に出来なかった事を、大人になった今叶えようとしていただけなのに。決してジェイやブラッドに頼まれたからではなく、私自身がグレイに優しく接したいと心から願っていたのだ。
 でも、それ自体が間違っていた。昔のグレイを知っているなんて言ったら、彼のトラウマを刺激して距離を置かれそうだからと、敢えて覚えていないと嘘を吐いたけれど、こうして余計に彼を傷付けてしまう結果になったのだから、どう足掻いても彼と友好的な関係を築くなんて不可能だったのだ。





 翌日から、私の生活は一気に暗くなった。外に出てこつこつと任務に励んでいる時は、全てを忘れて没頭できるからまだ良い。問題は、休憩時間やタワー内にいる時に、周りから気に掛けられる時だ。

「ルリ、最近元気ないけど……イーストセクターのルーキー君と何かあった?」
「な、何もない……大丈夫」
「絶対何かあったな……よし、それじゃ景気付けに今晩飲みに――」
「ごめん、今は一人でいたいんだ……」
「…………重症だわ、これ」

 同僚や比較的仲の良い人が言いふらしたわけでは勿論ないけれど、偶然会話を耳にした人や、私の様子が明らかにおかしいと気付いた人たちによって、いつの間にか『私とグレイが喧嘩したか別れた』なんて噂が一部で広がり始めていて、余計に気が滅入った。私ひとりが落ち込むだけならまだしも、グレイだって嫌な思いをするのは明白だからだ。
 そしてその噂は情報通であるビリー・ワイズの耳に即入り、同じイーストセクターのメンターであるアッシュの耳にも届いてしまうのは、言うまでもない話だった。



 次の日の昼、特に行く当てもなくグリーンイーストヴィレッジを歩いていると、すぐ横の車道でバイクが突然止まり、不躾に声を掛けられた。

「おい、ルリ。今から付き合えよ」
「は?」

 ふと横を見ると、そこには愛車のバイクに跨るアッシュが有無を言わさぬ勢いで、私に後ろに乗るようジェスチャーで促していた。

「なんで?」
「うるせぇ! 俺の言う事が聞けねぇのか!」
「いや、別に断るわけじゃないけど……」

 アッシュはどういう風の吹き回しか、ご丁寧に私の分のヘルメットまで用意していて、私にそれを投げ付けて来た。キャッチし損ねてアスファルトの上に落とそうものなら未来永劫罵られそうだし、と仕方なく受け取って、訳が分からないまま後部座席に乗らせて頂く事にした。

「俺様がバイクに乗せるなんて滅多にねぇんだから、感謝しろよ」
「本当、どういう風の吹き回し?」
「……つくづく可愛げのねぇヤツだな、だからギークに振られるんだよ」
「ギークって誰。ちゃんと名前で言わないと分かんないよ」

 アッシュの返答を待たずに、エンジン音を上げてバイクが走り出した。振り落とされないよう腰に腕を回しているけれど、誰に何を言われても『断じてそういう関係ではない』ときっぱり言い切れるし、アッシュも同じくそう言うだろう。
 下手に誰かに見られたら、あらぬ噂を立てられそうなのに。アッシュ自身嫌がりそうな事なのに、そこまでして私をバイクに乗せてどこかに連れて行こうとするのは――さっきの数少ない遣り取りでも分かる。

 アッシュは昔からグレイの事を『ギーク』と呼んで蔑んでいた。その単語が出て来た時点で、私とグレイの事で何かしら問い質したい事があるのだろうと察するのは容易かった。



 連れ去られた場所は、フライドチキンが美味しいと評判のお店だった。

「アッシュ、自分が食べたい為だけに私を誘ったの?」
「ああ? ルリ、俺のチョイスに文句付けんのかよ」
「文句は言ってないでしょ。私も鶏肉好きだし……」

 目の前に置かれた大量のフライドチキンを挟んで、色気のない会話を繰り広げる男女は、どう見てもデートではないと誰が見ても分かるだろう。変な噂が立たないようにとアッシュが気を回してこういう店を選んだとは思えないけれど、寧ろ今は雑に扱われるぐらいの方が気が楽だ。落ち込んでいる時に優しくされると、余計に自分が情けなくなってしまうからだ。完全に自分に非がある時は、特に。

「それで、アッシュ。なんで私を誘ったの?」
「お前がギークに振られたって聞いたんだよ。聞いてもいねぇのに聞かされたっつう方が正しいけどよ」
「……ビリーくんか」

 アッシュは他人の噂話なんて興味がない人間だし、かつてメンター潰しなんて言われた彼にそういう話を振ってくる強心臓の持ち主なんて、ビリーぐらいしか思い付かない。

「アッシュ、私を慰めようと思って誘ってくれたの?」
「んなわけねぇだろ!」
「じゃあ、うちのルーキーに迷惑掛けるなっていう牽制?」
「……どうしてそうズレてんだよ。俺はお前に苛ついてんだよ! つい前まで相手もいねぇのに結婚したいだの現実逃避してたかと思いきや、ギークなんかに惚れやがって……」

 いくらランチタイムで騒がしいとはいえ、割と大きな声で言うものだから、一気に顔が熱くなった。後半はまだしも『相手もいないのに結婚したい』のくだりは恥ずかしすぎる。

「アッシュ、もっと声のボリューム下げて!」
「下げねぇよ、恥ずかしいと思うならヒーローとして結果を出しやがれ! ルリが今やるべき事は、ギークなんかに現を抜かす事じゃねぇだろ!」

 あまりにも正論で、早くも何も言い返せなくなってしまった。アッシュは私を心配しているわけではなく、ヒーローとしてあるべき姿ではないと苦言を呈する為に連れ出したのだ。それもある意味『心配している』の範疇なのかも知れないけれど、どうでもいい相手なら無視するだろうし。……いや、アッシュなら気に食わないと思った時点でとことん相手を追い詰めるか。

「……そうだね、私……自分を見失っていたかもしれない。でも、グレイの事を悪く言うのだけはやめてあげて」
「断る。よりによって相手がギークだから余計に腹立つんだよ」
「アッシュ、グレイはもう昔とは違うんだよ? トライアウトに合格した時点で、ヒーローとしての実力があるって正式に認められたわけだし」
「いいや、俺はそうは思わねぇ」

 どうしてそこまで言い切れるのか。昔からアッシュはやたらとグレイを目の敵にして、アカデミー卒業までずっと虐めを繰り返していたのは分かっている。でも、どうしてあれから六年経った今も態度を軟化させるつもりがないのか。理由もなく相手を罵るのは、メンターとしても、ひとりの大人としても問題がある。

「アッシュ。そこまでグレイの実力を認めないのは、何か根拠があるの?」
「俺だって名ばかりのメンターなんかじゃねぇ。ビリーと比べてもアイツはやる気がなさすぎるんだよ。どういう手口を使って合格したのかは知らねぇが……」
「……まさか、トライアウトで不正行為か何かでもしたって言うの? いくらなんでも有り得ない」
「じゃあ聞くけどよ。トライアウトに合格する実力のあるヤツが、LOMであそこまで何も出来ない醜態を晒すのは何故だ?」

 アッシュの問いに、何も答えられなかった。彼が納得出来る理由が思い付かなかったからだ。普段の任務では実力を発揮出来るのに、LOMでは出来なかった、というならまだ説明が付く。LOMでは相手が他セクターといえども同じHELIOSの仲間だからこそ、攻撃するのが躊躇われるだと、あの日のグレイを見た時は感じていた。ノースセクターとの対戦で、ビリーと協力して良い線まで行ったかと思いきや、グレイは隠し持っていたナイフでノースの如月レンに傷を付けた瞬間、動きが止まり、まるで怯んでしまったように見えた。その後の展開は言うまでもなく、ノースセクターの勝利に終わった。
 けれど、『敵ではない人を傷付けたくない』という理由で実力を出せないのなら、トライアウトでも同様のはずだ。実技では試験官相手に戦わなくてはならないのだから、そこで実力を出せるならLOMでも同様の行動が取れる筈だ。

「……ルリにギークの不正を認めろとは言わねぇ。ただ、そんなヤツに構う暇があったらやるべき事をやれ。それだけだ」
「グレイの事については頷けないけど、私がヒーローとしての責務から逃げていたのは事実だから……そこは心を入れ替える」

 決して怠っていたわけではないけれど、メンターに選ばれるレベルの人間から見て『そう』見えるのなら、絶対に改善しなければならない。リリー教官のライフスタイルを見て、自分もいずれは結婚を、なんてぼんやりと考えていたけれど、まずはそれこそ彼女のようにヒーローとして結果を出す事が大前提だ。
 思い返してみると、『グレイの事を気に掛ける』という行為以上の接触の仕方をしてしまっていた。偶然会ったら声を掛ける、ただそれだけで良かった筈なのに、逆に相手に気を遣わせた結果一緒に食事をしたり、更には個人的に何かをプレゼントするなんて、あまりにも踏み込み過ぎていた。
 グレイにはっきりと拒否されたのは、お互いの為にも良かった事なのかも知れない。

「アッシュ、ありがとう。目が覚めた。私、また一から頑張ってみる」
「ったく、たった一度の失敗で潰れてんじゃねぇよ。ヒーローとして立ち直れば、もっといい男に出会えるだろ」
「……本当に、どういう風の吹き回し?」
「お前は本っ当にいつも一言多いんだよ!」

 お互い悪態をつきつつも、なんだかんだで励まされてしまったけれど、グレイの事については結局何も解決しなかった。あんなに優しかったグレイにあそこまできつい態度で拒否された事がショックで、『本当の』グレイならあんな事を言うわけがない、という単純な事実に気付く事が出来ないままでいた。その見えない真実が、やがてアッシュの抱いている疑念にも繋がるなど、まだ分かる筈もなく。

2021/03/07
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