片恋の雨

 柊優花梨の告白を切欠に、ウェイバー・ベルベットの平穏な日々は一気に音を立てて崩れ去った。

 ――まさかそんな事がある訳がない。ウェイバーは一つの仮定と共に失いかけた意識を取り戻した。たとえあの若干頭の螺子が飛んでいる柊優花梨といえど、いくらなんでも大して会話もした事のない相手に、公衆の面前で愛の告白なんてする訳がない。そもそも「付き合って」という言葉だけでそのような意味だと捉えるのは早合点過ぎるのではないか。どうせ図書館に用があるから付き合えとかそういう意味だ。
 魔術師としては三流の烙印を押されているウェイバー・ベルベットという生徒が、司書としては非常に有能であるという話でも、どこぞの誰かから聞きでもしたのだろう。だから調べ物をするのに付き合えとか、そんな事に違いない。そう思うと段々腹が立ってきた。

 まるで捨てられた子犬の様な目で返事を待つ優花梨に、ウェイバーは仏頂面で言い放った。
「断る」
 教室の空気が凍りついた。
「ボクは忙しいんだ。付き添いなら他を当たれ」
 優花梨の表情を窺う事もなく、ウェイバーは踵を返して教室を後にした。廊下に出て、窓から零れる陽光を浴びながら、一仕事終えたかの如く大きな溜め息を吐くウェイバー。しかし、戻って来た平穏は束の間だった。

 教室から漏れる、誰かがすすり泣く声。
 最悪の展開が脳裏をよぎり、ウェイバーは顔面蒼白になりつつ、一度背にした教室を恐る恐る覗いた。
 案の定、泣いているのは柊優花梨で、周囲は触らぬ神に何とやらで距離を置きつつも彼女の様子を窺っていた。降霊科の講師のケイネスが、大きな溜め息を吐いて他の生徒へ早く帰るよう促すが、殆どの生徒は優花梨が気になって動こうとしない。
 いや、気になるなんて種類の感情ではない。もっと悪意に満ちた、嘲笑や侮蔑の感情だ。生徒の一人が小馬鹿にした笑みを浮かべたのが視界に入った瞬間、ウェイバーは後先の事など何も考えず、再び教室に足を踏み入れた。

「あーっもう! いちいち泣くな! こんな事で!」
 ウェイバーは周囲の視線やどよめきなど気にも留めず、優花梨の前にずかずかと詰め寄ると苛立ちの声を露にした。何が起こったのか分からずきょとんとしている優花梨を一瞥して、ウェイバーは言葉を続ける。
「いいよ。付き合ってやる」
 その言葉に優花梨は涙に濡れた目を見開き、周囲から驚きの声が溢れた。が、ウェイバーの次の言葉で教室に再び静寂が訪れる。
「で、何処に付き合えばいいんだ? どうせ図書館かそこらだろうけど」

 この瞬間、教室内の生徒全員の心が一つになったに違いない。「いや、そうじゃないだろ」と言わんばかりの視線を浴びても、ウェイバーは顔色一つ変えなかった。明らかに困惑の表情を浮かべる優花梨の返事を待つ前に、優花梨の手を取りきっぱりと言い放った。
「さっきも言ったけどボクは忙しい。とっとと済ませてとっとと帰るぞ。ほら」
 ウェイバーは有無を言わさず優花梨の手を引いて、足早に教室を後にした。


 たぶん、柊優花梨が落とした宝石を拾ったあの日から、こうなる運命だったのだ。ウェイバーはそう開き直り、優花梨の手を握り続けたまま、時計塔を脱出すべく廊下を闊歩した。


 奇しくも柊優花梨とは、時計塔に入った時期も同じで、同い年で、おまけに同じ降霊科であった。家柄の浅い自分が時計塔に招聘された事を誇りに思っていたウェイバーは、柊優花梨によってその誇りをあっさりと打ち砕かれた。
 何代にも渡る家門の生まれで、更に遠坂とかいう大層ご立派な魔術師の推薦もあり、端から見れば何の苦労もなくあっさりと招聘され優特生となった柊優花梨は、ウェイバーにとってはまさに忌み嫌う存在だった。
 ただ、優特生は優特生同士でつるむか、優特生に媚び諂う連中を従えるかのどちらかに分類されたが、優花梨はそのどちらにも属さなかった。いつも一人で行動する人間は特に珍しくもないが、如何せん講師からの評価が初めから高かった彼女は、良くも悪くも目立ち、瞬く間に羨望と嫉妬の的となった。
 ウェイバーが柊優花梨の本質を知るのは、それから数ヶ月後の事だった。

 とある優特生が、ついに柊優花梨の地雷を踏んだ。
 原因は、彼女の後ろ盾である、遠坂時臣に対する中傷であった。
 やれ実力もないのに後ろ盾だけで招聘されただの、虎の威を借る狐だのと、何を言われても無視を貫いていた優花梨だったが、そんな彼女が、ついに本性を表した。

「私の事を悪く言うのは構わない。でも、時臣様の事を悪く言うのだけは許さない」

 柊優花梨は怒りを露にして言い放ち、遠坂を中傷した連中に向かって、魔術を放った。それはもうとてつもない威力の風――まさに暴風で、それは連中に直撃するかと思いきや、彼らの頭上を通り過ぎ、教室の壁を見るも無残に破壊した。
「また時臣様を侮辱したら、次はあなたたちを同じ目に遭わすから」

 当然、優花梨はその後、ケイネスにこっぴどく叱られる事となったのだが、これが意外にも素直に反省したのだという。講師の前ではしおらしくする、というのも優特生から余計反感を買う事となったのだが、よくよく考えれば、今回の行いが結果的に遠坂の名に泥を塗る事になりかねないから、素直に謝ったのだろう。その『トキオミ様』とやらを一度見てみたいものだとウェイバーは思った。

 どちらにせよ、それ以降柊優花梨はまさに腫れもの扱いとなり、触らぬナントカに祟りなしといった所で、本当に誰も近寄らなくなった。
 ウェイバーにとっては元々関わり合いのない相手なので、別に普段の生活に何ら支障が出るという事はなかったが、彼女の優特生らしからぬ行いにはドン引きする一方で、憎たらしい優特生が腰を抜かす姿を見れて、少しだけスッとする気持ちを覚えたのも事実だった。

 だが、それはあくまで第三者的立場だから言える事だ。
 まさに今、当事者の立場になってしまったウェイバーは、手を振り解く事もなく付いてくる優花梨を一瞥して、今後の己の運命を嘆いた。


「ごめんなさい」

 ずっと黙っていた優花梨が口を開いたのは、時計塔を出てすぐの事だった。
「迷惑、だったよね。本当に、ごめんなさい」
「そう思うなら初めから言うな」
 溜め息混じりにウェイバーがそう返すと、優花梨の足が止まった。ずっと手を繋いだ状態だった為、優花梨に引っ張られるような形になり、ウェイバーは歩くのをやめざるを得なくなった。忌々しそうに振り返ると、いかにもショックを受けたと言わんばかりの優花梨の悲しそうな視線を受ける羽目になり、またしてもウェイバーは罪悪感に苛まれた。

 彼女と初めて会話を交わしたあの日もそうだった。
 優花梨が恐らくは魔術に使うであろう宝石を落とした時、ウェイバーはその場で即座に声を掛けようとしたが、結果的には出来なかった。
 落ちこぼれの烙印を押されている自分が、曲がりなりにも優特生の彼女に話し掛ける所を誰かに見られたりでもしたら、自分は兎も角彼女がまた周囲から下世話な事を言われるのではと思ったからだ。たかが落とし物を拾って渡すだけの行為であっても、彼女を中傷したがる連中が穿った見方をしないとは絶対に言い切れなかった。
 かと言ってこのまま彼女と接触せずにいたら、自分は窃盗を働いた事になってしまう。ウェイバーは悩みながらも、足は自然と彼女を追っていた。

 結果、尾行と思われて彼女の魔術を食らう羽目になった訳だが、思えばあの時、初めて会話を交わして、柊優花梨という人間の本質を少しだけ垣間見る事が出来たのだ。
 周囲から浮いている事をしっかりと自覚しているし、悪い事をしたと分かれば素直に謝るし、話してみれば、その辺にいる少女と何ら変わりないではないか。そして、自分が最初から声を掛けなかった事が原因で傷付いたであろう優花梨を見て、ウェイバーは激しく後悔し、彼女をごく普通の同世代の異性として見ようと決心したのだった。

 そう思って、先日の無礼を詫びた矢先に、これだ。

 まさか公衆の面前で、優特生が落ちこぼれに愛の告白などという事態が起ころうとは、告白した側の人間以外、誰も思いはしなかっただろう。
 やっぱりこの女を普通の女の子として見てはならなかった。ウェイバーは己の浅はかだった考えを呪いつつ、優花梨の手を振り解いて彼女の黒い瞳を睨み付けた。
「大体オマエは一体何がどうなって、あんな場所であんな事を言ったんだよ! 考えてもみろ、逆の立場だったらオマエだって嫌だろ!」

 優花梨は声を荒げるウェイバーに驚いて一瞬肩を震わせたが、その言葉の意味を理解するや否や、きっぱりと言葉を返した。
「私は嫌じゃない」
「は!?」
「私、ウェイバー君の事、好きだし」

 更なる追いうちに、ウェイバーは最早閉口するしかなかった。生まれてこのかた異性との交際どころか告白もされた事がないウェイバーは、どうしていいか分からず完全に思考が停止した状態に陥ったが、彼女の次の言葉で平常心を取り戻すと同時に、今までかつてない羞恥の念に襲われる事となった。

「だから、友達になりたいと思って声を掛けてみたんだけど……やっぱり嫌だよね、私となんて」


 友達。

 ――友達。


 コイツの「友達を作る」という行為は、わざわざ公衆の面前で「付き合ってください」なんて台詞を放つ事なのか。本当に何がどうなってそんな結論が出たのか。コイツの思考回路はどう考えてもおかしい。

 ウェイバーはこの日、柊優花梨の本質を完全に知るに至った。この女は変わり者でも普通でもない、一般常識が著しく欠けているただの馬鹿だ。
 脱力しその場にへたり込んだウェイバーに、己の行動がどのような誤解を招いたのか全く分かっていない優花梨は、呑気に首を傾げた。翌日時計塔に行って、事の重大さを知るなり、今度は別の意味でウェイバーに謝り倒したのは言うまでもない。



 優花梨の告白紛いの友達宣言をきっかけに、ウェイバーは彼女と一緒に過ごす様になった。

 ウェイバーの認識では、そもそも友達とは事前に断って作る様な類のものではない筈だったが、大前提として優花梨に常識を求める事自体が間違っていて、そんな彼女に常識を叩き込むというのは明らかに同級生の範疇を越えている。そんな事は本来は親の仕事である。どんな育てられ方をしたのかは知らないが、知った所で彼女がまともな人間になる訳では勿論ないので、正直どうでも良かった。大事なのは、この女とこの先どう適切な距離感を取っていくかだった。

 告白翌日こそ、己の行為がどのような誤解を招いたかを漸く理解した優花梨は、ウェイバーに謝り倒したのち距離を置いていたものの、それもたった一日だけの話だった。
 次の日の朝、よりにもよってまたしても公衆の面前で、優花梨が「お友達として付き合ってください」と言い放ち深々と頭を下げて来た瞬間、ウェイバーは全てを諦めた。今更学習能力のない彼女を責めても何の解決にもならない。そもそもコイツに関わろうとしたのは自分であり、残念ながら自己責任だ。もう勝手にしてくれ。どうにでもなれ。ウェイバーは心の中で過去の自分に悪態を吐きつつ、優花梨を受け容れる事にした。

 周囲の下世話な噂話が耳につくかと思いきや、拍子抜けする程何もなかった。周囲から実際にどう思われているかは知った事ではないが、文字通りただの友達として認識されているのであれば、回り道はしたが結果的には一先ず平和的に解決出来たと言って良いだろう。その代わり、ウェイバーの平穏な生活が犠牲となった訳だが。

 一つ気になる事と言えば、自分達の師であるケイネス・エルメロイ・アーチボルトの態度が、今まで以上に刺々しくなった位だろうか。元々小馬鹿にされていた自分は兎も角、まがりなりにも優特生である優花梨までそんな扱いを受けるのはやや理不尽に感じたが、当の本人がまるで気にしていない様なので、ウェイバーもさしてそれに対し言及する事はなかった。考えてみれば、彼女の場合は絶対的存在である『トキオミ様』以外にどう思われようと、本当にどうでも良いのだろう。

 優花梨の時臣への敬慕は最早崇拝といっても過言ではなく、それは少なくとも彼女の事を少しでも知る人間であれば、周知の事実であった。他人の内情を詮索するのもどうかと思ったが、ウェイバーは優花梨と二人きりになったある日、何気無く問い掛けた。
「オマエさ。トオサカが背後に付いてるからどうのこうのとか勝手な事言われても、涼しい顔してるけど、悔しいとか思わないのか?」
 失言だとは思うが、怒ったら怒ったでその時だ。自ら望んでこのような関係になった訳ではないので、彼女に気を遣うつもりは更々ない。寧ろどんな反応を示すのか興味があった。

 優花梨の反応は想定内で、かつウェイバーにとってはつまらない答えだった。
「悔しい? どうして?」
「いや、だって、それってオマエに実力がないって言われてるのと同じだろ」
「別に。本当の事だから」
「……嫌味か、それ」
 ウェイバーはつい毒づくも、優花梨は不思議そうに首を傾げて言葉を続けた。
「だって、時臣様がいなかったら、私はここにいない。監獄みたいな家にずっと閉じ込められて、ずっと一人ぼっちのままだった。時臣様が助けてくれたの。私がここで普通の暮らしを送る事が出来るのも、全部時臣様のお陰」
 優花梨の告白に、ウェイバーは唖然とした。返す言葉すら浮かばない。
「時臣様がいなかったら、私、何も出来ない。だから、皆が言っている事は、事実」
 真っ直ぐと此方を見つめてきっぱり告げる優花梨に、ウェイバーはたじろいだが、ただ一つこれだけは言える。優花梨の考えは間違っている。

「……ボクには理解出来ない。オマエのその考え方」
 もっと他に言い方があるのは分かってはいるが、そう悪態を吐くしかなかった。今の遣り取りだけで、優花梨はただの馬鹿ではなく、相当歪んだ人物である事も把握出来た。自分が生まれ育った家を監獄呼ばわりなんて、例え両親と折り合いが悪いとしても口が過ぎるのではないのだろうか。それに、彼女の言い分だと、まるで彼女は遠坂時臣の操り人形ではないか。

「でも」
 絶妙なタイミングで優花梨が再び口を開く。
「ウェイバーと友達になったのは、私自身の意志。誰の指示でもなく、自分の意志で、行動に移したの。たぶん、こんな事は生まれて初めて」
 優花梨はウェイバーの手を取って、迷いのない瞳で、微笑を湛えて言った。
「時臣様は特別な人。でも、ウェイバーも特別。大事な人。大好きな人」

 例えその「好き」の意味が恋愛感情とは違っても、面と向かって言われると、気恥ずかしい事この上ない。ウェイバーはなんとか平常心を取り繕うと仏頂面で優花梨に言葉を返した。
「そういう台詞、ボク以外の奴に言うなよ。絶対」
「?」
 言葉の真意が理解出来なかったのか、きょとんと首を傾げた後、「よく分からないけど、とりあえず」とでも言いたげな顔で頷く優花梨に、溜息を漏らすウェイバー。しかし、言った後で自分の今の発言こそ恥ずかしい事この上ないと気付き、ウェイバーは一気に顔を赤らめた。
「ウェイバー、大丈夫?」
 相手の心境などお構いなしに、優花梨はウェイバーの額に手を当てて、心配そうに目を細めた。
「熱っぽいね。今日は無理しないで、部屋で大人しく寝ていた方が良いと思う」
 優花梨の小さな手の感触を味わいつつ、ウェイバーは心の中で「オマエの所為だ」と呟いた。

 思えば、いつから彼女は自分の事を呼び捨てで呼ぶ様になったのだろうか。
 いつから、一緒にいる事が当たり前と感じる様になったのだろうか。
 果たして、自分はこんなに面倒見の良い人間だっただろうか。
 正直言って、優花梨には散々振り回されているが、不思議と嫌ではなかった。本当に嫌なら、適当に理由を付けて、とっくに彼女を突き放している。
 きっと、ずっとこんな調子で日々が過ぎていく。ウェイバーはそう信じて疑わなかった。





 ウェイバーと優花梨が出会ってから数年経つにつれ、二人の距離は徐々に離れていった。単純に、互いに時間に追われる様になった所為である。ウェイバーは論文の作成に明け暮れ、優花梨は優花梨で、降霊科の講義以外にも、独自で魔術の勉強をしている様だった。
 会えば会ったで話はするし、一緒に居る事は苦ではない。それでも、出会った頃と比べて、距離を感じる様になった。まさにウェイバーが出会った当初に願った「適切な距離感」を維持出来ているという事になるが、何処となく寂しさを感じていた。

 理由は、互いに時間がない事だけではなかった。
 根底の理由は、優花梨が過去に、所謂「里帰り」で日本へ一時帰国する際に、ウェイバーが彼女の地雷を踏んでしまったからだ。遠坂時臣に会う事を楽しみにしていた優花梨に対し、ウェイバーはつい口を滑らせた。
「オマエいっつもトキオミ様とか言ってるけど、少しは両親にも感謝しろよ。オマエに魔術の才能があるのだって、元はと言えば両親のお陰だろ」
 優花梨が両親と折り合いが悪いのは、察してはいた。だが、それでもお粗末な魔術回路しかない自分の境遇を思うと、ウェイバーとしては彼女があまりにも遠坂時臣「だけ」を慕うのは、はっきり言って良い気分はしなかった。
 唯一の肉親である母親も亡くし、残された財産を全て犠牲にして時計塔の門を叩いたウェイバーには、帰る場所などない。そんな彼にとって、優花梨の言い分は贅沢であり、我儘だと思えたのだ。

 ウェイバーの言葉を聞いた途端、優花梨の顔はみるみるうちに青ざめていった。
「……ウェイバーは」
 優花梨の声は震えていた。瞳に涙を湛え、泣くのを堪えている様だった。
「ウェイバーは、まともな親に育てられたから、そんな事が言えるんだよ」
「おい、いくらなんでもそんな言い方…」
「魔術師ってね、自分の子供なんて代を重ねる為の道具としか思ってない。優秀な魔術師にする為なら、何だってやる。虐待だって、監禁だって」
 ウェイバーは絶句した。優花梨が嘘を言っている様には、どうしても見えなかった。
「勿論、そうじゃない魔術師もいる。時臣様は私を救ってくれた。この時計塔へ、私を逃がしてくれたの。私にとっては時臣様が全て。家になんて帰らない。時臣様に会いに行く為に、日本に帰るの」
 また始まった。ウェイバーはわざと大袈裟に溜息を吐いた。優花梨の言葉は止まらなかった。
「ウェイバーは知らないんだね、魔術師の本当の恐ろしさ。でも、知らない方がいい。知らない方が幸せ」
 流石にウェイバーも黙っていなかった。優花梨にそんな気があろうとなかろうと関係なく、完全に馬鹿にされていると感じたからだ。
「もういい。オマエは一生そうやって遠坂時臣に縋って生きていけよ。誰かに縋って何の苦労もなく生きていけるんだから、良い御身分だよな。やっぱり、オマエとボクは住む世界が違う」
 そう言ってウェイバーは踵を返した。優花梨が子供の様にしゃくり上げて泣く声が聞こえたが、振り向く事もしなかった。

 冷静になって思い返してみると、明らかに言い過ぎた。だが、間違った事は言っていない。本当の友達ならば、時には厳しい事もしっかり言うべきなのだ。ウェイバーはそう自分を正当化したものの、きっと、元の関係には戻れない――そう思うと、胸がちくりと痛んだ。

 優花梨が日本から帰国した際、ウェイバーは普段通りの態度を心掛けたが、優花梨はぎこちなく微笑むだけだった。この時から、二人の間に深い溝が出来てしまったのだ。互いの傷は時間と共に癒えたが、それと同時に二人の距離はゆっくりと離れていった。


 二人が19歳になったある日、優花梨は突然、話したい事があるから付き合って欲しいとウェイバーに告げた。最初の頃はそれがごく当たり前の事だったが、最後にそんな事を言われたのはいつだっただろうか。

「ごめんね、急に誘っちゃって」
「別に。いつもの事だろ、オマエの場合」
 見慣れたロンドンの街並みを、特に行く当てもなく、二人肩を並べて歩く。出会った頃と比べて、優花梨は大分普通の女の子に近付いたと感じた。少なくとも、遠坂時臣を貶されて、怒りのあまり魔術で壁をぶち壊していた、あの頃の優花梨はもういない。
「で、何だよ。話したい事って」
「ずっと謝りたいって思ってたの。私が初めて日本に一時帰国した時の事」
 ウェイバーは思わず足を止めた。優花梨も足を止め、真っ直ぐにウェイバーを見つめる。意思の強い瞳。そういう所は変わっていない。
「私、ウェイバーの事、何も知らなかった。ごめんね、勝手に調べたの。お母様を亡くされた事、家や財産を全て売り払って時計塔に来た事」
 ウェイバーは明らかに見てとれる様に不機嫌極まりない表情を浮かべた。己の出自を同情されるのは屈辱だった。
「私が自分の両親を悪く言う事に対して、ウェイバーがそれは我儘だって思うのは、ごく当たり前の感覚だって気付いたの。だから、ごめんなさい」
「いいよ。今更」
 ウェイバーが仏頂面でそう返すと、優花梨は寂しそうに微笑んだ。
「本当、今更だよね…」

 ウェイバーも同様に、あの時は言い過ぎたと謝ろうとした。まさか久々に二人きりで過ごすなんて思ってもいなかったので、必死に頭の中で紡ぎ出す言葉を整理する。漸くウェイバーが言おうとした「ごめん」の一言は、優花梨によって遮られた。

「こないだね、また日本に一時帰国したの」
 そういえば、最近降霊科の講義に来ていなかった時期があった事を、ウェイバーは思い出した。ケイネスがその事に対して嫌味を言っていた。
「時臣様には、2人の子供がいたんだ。私の家と遠坂のお家は元々交流があって、遠坂のお屋敷にお邪魔する機会は何回かあったから、その子達の事はよく知ってる」
 突然何の話をするのかと思いきや、また遠坂の話か。ウェイバーは呆れて脱力したが、優花梨の言葉を脳内で反復し、思わず声を出した。
「子供が……いた?」
 優花梨は目を伏せて、言葉を続ける。
「2人共、まだ幼いけど物凄い才能を持った子達。私なんか、比べ物にならない位。でもね、家を継げるのは一人だけ。だから、一人の子は養子に出されたの。他の魔術師の家へ」
「は……?」
 ウェイバーは優花梨の言っている事が理解出来なかった。一人しか家を継げないから、もう一人は養子に出す? 意味が分からなかった。
「魔術師って、そういうものなの。時臣様の事は尊敬してる。神様みたいな人だと思ってる。でも、桜ちゃんの事を知って、私……」
 優花梨も言いたい事が纏まっていないのか、今にも消え入りそうな声でたどたどしく言葉を紡いだ。
「私は、時臣様のお陰でここにいる。遠坂家の援助も受けてる。だから、生涯時臣様に…ううん、遠坂家に仕えないといけない。両親が今の状況を許してるのも、私を連れ戻さないのも、遠坂家に仕えれば柊家は安泰だから。私の人生は、敷かれたレールをただ走るだけ」
 優花梨の独白を一通り聞き終え、ウェイバーは深い溜息を吐いた。要するに彼女は、自分にどうして欲しいのだろうか。可哀想だと同情して慰めてやれば良いのか。いや、そんな事は求めてないだろう。ただ吐き出したかっただけなのか、何か答えを求めているのか。

「で、オマエはこんな話して、ボクにどうして欲しいんだよ?」
 自分はあくまで彼女の友人であって、カウンセラーではない。ウェイバーは開き直って訊ねると、優花梨は眉間に皺を寄せて言った。
「私の言ってる事も間違ってないって、ウェイバーに知って欲しかった」
「は?」
「魔術の才能があるからって、それが幸せとは限らない」
 優花梨の主張にウェイバーは閉口した。

「本人の意思とは無関係に、養子に出される。魔術師の血を絶やさない為に、好きでもない相手と政略結婚させられる。ケイネス先生の婚約者が良い例」
 自分達の師であるケイネス・エルメロイ・アーチボルトと、降霊科の学部長の息女ソラウ・ヌァザレ・ソフィアリの婚約は、ウェイバーも当然の如く知っている。二人の婚約は時計塔内で大騒ぎとなった。
「……好きでもない相手とって、どうしてそう言い切れるんだよ」
「私には分かる。女の勘」
「……」
「あの人、何もかも諦めた顔してた」
 優花梨の断言が正しいかはさて置き、ウェイバーは優花梨が本当は何を言おうとしているのか、漸く察しが付いた。
 恐らく、自分もいずれはソフィアリ家の息女と同じ事になると言いたいのだ。優秀になればなる程、周囲は放っておかないだろう。
 胸の奥が痛むのは、気のせいだろうか。

「……それで、ボクにどうしろって言うんだよ」
「何かして欲しい訳じゃない。ただ、才能のある魔術師だからって、立派な家柄だからって、それが幸せな事とは限らないって、分かって欲しかった」
 優花梨が求めている事は、本当にそれだけなのだろうか。ウェイバーは必死で返す言葉を探すも、優花梨によって阻まれた。結局、いつも彼女のペースに引き摺られている。
「ウェイバーは自由だよ。選択肢はたくさん溢れてる。未来がある。何だって出来る。私に無いものをたくさん持ってる。私の憧れ。だから、自分を卑下しないで」
 優花梨の言わんとする事は分かる。だが、ウェイバーが求めているのは自由ではなく、優花梨が既に得ている魔術師としての称賛だ。だから、彼女の主張に頷く事は出来なかった。

「私はきっと、時臣様か私の両親が決めた人と結婚させられる事になると思うんだ。好きな人が出来ても、絶対に一緒になれない。ソラウさんを見て、自分の未来は初めから決まってるって事が、嫌って程分かっちゃったんだ」
 優花梨は既にウェイバーから顔を逸らしていた。曇り空を見上げて、誰に向けるでもなく言葉を紡ぐ。
「……叶わない恋なんて、しなきゃ良かったな」

 曇り空からぽつりぽつりと雨が落ち、瞬く間に地面を濡らす。
「ウェイバーは、私の分も幸せになってね」
 優花梨はそう言ってウェイバーに向き直って、精一杯の笑みを浮かべた。彼女の頬が濡れているのは、雨で濡れた所為なのかは分からなかった。
 ウェイバーは何も言えなかった。優花梨が自分の事を本当はどう思っていたのか、知ったところで一体自分に何が出来るというのか。自分の無力さを改めて認識させられると同時に、ウェイバーはこの時初めて、自分が優花梨へ抱いていた感情を知った。

「オマエの言う通りだ。叶わない恋なんて――」
 ウェイバーの声は雨音に掻き消されて、優花梨の耳には届かなかった。

2014/09/23


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