歓びの空

 優花梨が時計塔に戻ってから、もうすぐで半年が経つ。
 日本を経つ時、まめに連絡するよう言ったのに、アイツからは何の便りもない。電話も、手紙も。何も。

 最初は多忙なのだと思っていた。勝手に時計塔から姿を晦まして、間接的にでも聖杯戦争に関わってしまった事は、遠坂側が根回しして、何事もなかったかのように復学出来る処置はあらかじめしているだろう。何の問題もなく、また以前と変わらぬ暮らしを時計塔で送っているはずだ。一流の魔術師になる事を目指して、日々、弛まぬ努力をして。

 だからと言って、連絡のひとつも寄越さないのは流石に違和感を覚えた。多忙とはいえ、いくらなんでも一回ぐらいは、電話や、手紙の一通でも書く余裕はあるはずだ。まがりなりにも、特別な関係になったというのに。

 特別だと思っていたのは、自分だけだったのだろうか。
 彼女にとって自分という存在は、過去の想い出として処理されてしまったのだろうか。
 決して結ばれぬ恋なのだと、彼女自身が決め付けて。

 優花梨の事を考えれば考える程、怒りが沸いて来た。本当に身勝手で、自分の言動でボクがどんな思いをしようと、アイツはお構いなしなのだ。
 嫌味のひとつでも言ってやろうと、こちらから連絡を取ろうとも考えたが、自分は時計塔と距離を置き、この冬木の地にいる身である。時計塔を経由して手紙を出したり電話をかけるのは気が引けた。
 もしかしたら優花梨はボクからの連絡を待っているんじゃないかとも思ったが、アイツもそこまで馬鹿じゃない。ボクからは行動を起こしにくい事は重々承知している筈だ。

 やはり、そういう事なのだろう。もう、彼女にとっては終わった事なのだ。
 怒りは徐々に静まっていき、代わりに寂しさと空虚感が襲う。それを誤魔化すかのように、世界を回る為の資金稼ぎに明け暮れる日々を過ごし、ふとした瞬間に優花梨の事を思い出す。その繰り返しだ。


 形容し難い感情が心を蝕む中、突然、マッケンジー邸のチャイムが鳴った。来客か荷物の配達かは分からないが、珍しい事もあるものだ。
 刹那、グレンの声が二階にまで響く。
「ウェイバー!! 早く降りて来なさい!!」
 どんな用件であれ、この穏やかな時間が流れる家で、こんな風に慌てた様子で呼ばれた事は一度もない。
 理由は考えるまでもなかった。
 考えている余裕なんてない。
 乱暴に部屋の扉を開け、うっかり足を滑らせかけながら、階段を駆け下りる。
 辿り着いた先。玄関先で来客を出迎えるマッケンジー夫妻の後姿の少し先に、彼女は微笑を湛えて、そこにいた。

「連絡もなしに、突然来てしまってすみません、グレン様、マーサ様」
「なに、挨拶なんていいから早く上がりなさい」
「長旅で疲れたでしょう? 今、お茶を用意するわね」
「いえ、お二人がお元気そうな姿を拝見出来れば充分ですので、お気遣いは……」

 そう言いながら苦笑する彼女と、目が合った。
 一瞬の事だった。
 彼女は、優花梨は、自分を見るなり、一気に泣きそうな顔になり、間もなくその双眸から涙が一気に溢れた。
 やたらと涙腺が脆いのは分かり切っていた事だが、半年間音信不通状態だったのは何らかの事情があったという事、そして、優花梨はまだ自分を好きでいてくれているという事。それは瞬時に理解出来た。言ってやりたい事は山ほどあるが、今はその時ではない。

 ゆっくりと歩を進め、優花梨の傍に行き、苦笑を浮かべながら、涙で汚れた彼女の頬を手で拭ってやった。
「おかえり。優花梨」
 優花梨は何も言わず、ただただ涙を零すばかりだった。




「何があったのか知らないけど、連絡のひとつくらい寄越せよ。どれだけ心配したと思ってるんだ」

 夫人が用意した珈琲と茶菓子を持って己の部屋に戻るなり、ウェイバーは肩身が狭そうに座る優花梨に悪態を吐いた。
 マッケンジー夫妻が変な気を遣って、あえてダイニングで皆で談笑するのではなく、直接2階の部屋へ行くよう優花梨を促したのだ。

「ごめんね、ウェイバー」
「今無理に事情を説明しろとは言わないけどさ。まあ、話すのは心の整理が付いたらでいいから」
「ありがとう。相変わらず優しいね」
「優しくないだろ、別に」

 一度は心を開いてくれたと思ったが、やはり元に戻ってしまったというか、どうしても優花梨はなんでも自分で背負い込もうとする癖がある。やはりまだ自分を信頼してくれていないのか、それとも、迷惑を掛けたくないという思いからなのか。
 いや、考えてもキリがないし、今はまだ追究すべき時ではない。ウェイバーは珈琲と茶菓子が乗った盆を優花梨の傍に置くと、すぐ隣に腰を下ろした。

「遠坂の葬儀は? もう終わったのか?」
「明日」
「……いや、オマエの事は充分熟知しているつもりだが…相変わらず何もかもが急だよな」
「真っ先にウェイバーに会いたくて、来ちゃった」

 懐かしい味がする珈琲をゆっくりと味わいながら、ほんのりと頬を染めて笑みを浮かべる優花梨を見て、ウェイバーは安堵の息を吐いた。ここに来て初めて、作り笑いじゃない笑みを見たからだ。これでも、無理しているかしてないか位は判断出来ているつもりだ。

「今日、うちに泊まるんだろ?」
「え?」
「オマエの事だから、『遠坂の家に泊まるのは気が引ける』とか考えて、遠坂……凛だったか? その子ともろくに連絡取ってないんだろ」
「うっ…」
「オマエも充分知ってる通り、うちは基本いつでも泊まり可能だからな。まあ、気にするなよ」

 優花梨が謝罪の言葉を口にする前に、ウェイバーは彼女の髪を優しく撫でてやった。
「疲れてるだろうし、少しゆっくりしていけよ」
「……うん」
 そう言うと、優花梨はウェイバーの肩に身を寄せて、それ以上何も喋る事はなかった。

 穏やかに流れていく時間。
 聖杯戦争があったあの頃と比べ、季節はすっかり移ろいゆき、やや暑い位の陽光が窓から二人を照らす。
 ずっとこんな日々が続けばいいのに。あの頃もそう思っていた。

 ウェイバーは温くなり始めた珈琲を手に取り、ふと優花梨の顔をちらりと見遣ると、思い切り目が合った。コイツ、いつから自分の事を見つめていたのか。
「な、何見てんだよ」
「半年ぶりに逢えた大好きな人の顔を見つめるのは、悪いこと?」
 思わず赤面し珈琲を落としそうになりながら狼狽するウェイバーに対し、優花梨は平然と言ってのけた。それこそ告白である。
「……いや、悪くない」
「あんな事もしたのに、今更照れるなんて、変なの」
 優花梨の言う『あんな事』。考えるまでもなかった。ウェイバーの顔が更に紅潮する。
「私、世界で一番大好きな人以外に体を許すなんて、絶対しないよ」

 完敗だ。世界で一番大好きな女の子に、ここまで言われて黙っていられる程、自分も情けない男ではない。昔の自分とは、もう違う。
「ボクも好きだ。優花梨、オマエの事が、世界で一番」
 未だ火照った顔で、ウェイバーはなけなしの勇気で、優花梨を見つめ返してはっきりと告げた。
 瞬間、優花梨の頬も一気に朱色に染まる。

「ほら、オマエだって今更照れてんじゃないか」
「す、好きな人にそうやって言われたら、誰だって照れるよ…」
「オマエさっき『今更照れるなんて変』って言ったよな?」
「うう…」
 降参とばかりに俯いて黙り込んだ優花梨の顔を覗き込んで、ウェイバーは彼女の唇に口づけをした。
 切なげに目を細める優花梨の表情を見て、このまま時が止まってしまえばいいのにと、らしくもない事を考えてしまった。


 夕方はマッケンジー夫妻と共に、ダイニングで4人で夕食を共にした。久々の団欒だからだろうか。優花梨が時折涙を堪えているのが気になって、ウェイバーはその度に何度も実のない話をして、場の雰囲気を和ませた。
 まあ、異国の地である時計塔で、コイツの性格上一人で勉学に励んでいるわけだし、半年ぶりにこうして気心知れた家族の様な人達と共に過ごすのは、優花梨にとっては涙が出る程嬉しい事なのだろう。

 実際は、そんな単純な話ではなかったのだが、その時はそう思っていた。




 再び二人きりになる夜が訪れた。明日には優花梨はここを離れてしまう。彼女の事だ、以前と同じ様に、急に現れては去っていく。そんな予感はしていた。
 時間は刻一刻と迫っていく。そんなウェイバーの気持ちも知らずに、優花梨はあどけない笑顔で囁いた。
「ウェイバー、あのね」
「ん?」

「一緒に、空を飛ぼう」

 この女、いや、優花梨が何を言っているのか分からず、ウェイバーはぽかんと口を開けたが、コイツが魔術で空中飛行が可能なのは何度も見て来た。とは言え、自分はそんな魔術など身に付けていない。
 何だか嫌な予感がする。
 嫌な予感は的中するのだ。




「うわああああああ!!! 降ろせ!! 今すぐ!!」
「叫ばないでウェイバー。ちゃんと私に掴まっていれば大丈夫だから」

 事の発端は、優花梨が返答も待たずに、満面の笑顔で有無を言わさずウェイバーの腕を掴んで窓を開け、無謀にも飛び降りた事から始まる。
 あまりにも突然の事で、絶叫する前に失神しかけたウェイバーの身体が、優花梨の風の魔術で宙に浮く。
「私を抱き締めていて。それなら大丈夫だから」
 頭が真っ白になった状態のウェイバーは、優花梨に言われるがまま、その小さな身体を抱き締めた。なんだか、以前よりもか細くなったような気がしないでもない。が、そんな悠長な事を考えている余裕はなかった。
 優花梨の魔術で二人の身体はぎこちなくも、徐々に夜空へと舞い上がっていった。

 そして今に至る。
 二人抱き合いながら夜空を浮遊している。優花梨に暗視の魔術をかけられ、「目を開けて」と言われて目を開くと、眼前は闇に包まれていた。「下を見てみて」、優花梨のその言葉に恐る恐る視線を真下へ遣ると、遥か先に煌々と輝く夜景があった。
 落ちたら間違いなく死ぬ。
 ウェイバーは本能でそう理解し、男の面目など形振り構わず、絶叫するに到った。

「突然落とされると思ってる? 私の魔術が、私がそんなに信じられない?」
「そ、そうじゃない!!」
「それなら恐れる必要なんて、何もない」

 優花梨の言葉に、ウェイバーは少しずつ冷静さを取り戻した。確かにコイツの言う通りだ。絶対的な自信があるからこそ、こんな事が出来るのだろう。
 心を落ち着かせ、今一度、眼下に広がる光景を見遣る。幾多の建築物が色とりどりに光を放つ。ロマンチストの欠片もないので、どれもこれもこんな時間も働いている人間の努力の結晶だと思うと、ある意味同情を覚えた。

「綺麗でしょ? ウェイバーに見せたかったの」
 ウェイバーの気持ちなど知る由もなく、優花梨は嬉しそうに囁いた。
「初めてこの冬木の地で空を飛んだ時……そう、ウェイバーに会いに行った時。とても感動したの。だから、どうしてもウェイバーにも見せたいなって」

「ああ、綺麗だ」
 それは、夜景ではなく、優花梨に対しての言葉だった。


 帰宅した頃には、優花梨も長旅の疲れのせいか相当負荷が来ているようで、大人しく寝る事を勧めた。久々に一つのベッドに二人で寝るのは、やはり気恥ずかしさが生じたが、やはり優花梨は本当に疲れていたらしく、気付いた頃には規則正しい寝息を立てていた。

 今は一時的に離れているとしても、いつか、毎日こんな日々が送れるようになればいい。ウェイバーは優花梨の髪を愛おしげに撫でると、その細い身体が壊れないように、優しく抱き寄せて眠りについた。




 翌朝。ウェイバーが目を覚ました頃には、既に優花梨の姿はなかった。それどころか荷物もない。置き手紙もない。彼女の行動パターンを考えれば、それが何を意味するのかすぐに分かる事だった。
「あの、馬鹿……!」
 優花梨が自由奔放で勝手極まりないのは重々承知していたが、半年ぶりに再会してこの別れ方は有り得ない。本当に人の気持ちを考えるという頭がないのか。絶対に見つけ出して徹底的に叱らないと自分の気が済まない。
 恐らく今日、遠坂の葬儀に参列した後、そのまま英国に戻るに違いない。何としてでも見つけ出してやる。
 今度こそ、選択肢は間違わない。





 罪を犯した人間は幸せになってはならないと思う。少なくとも、償い終えるまでは許されず、贖罪が一生続くのであれば、そもそも幸せを求める事が間違いだ。この考えを他者に押し付けるつもりはないけれど、少なくとも私には幸せになる権利はない。
 無償の愛を与えてくれる人がいるのなら、それは頑なに拒まなければならない。受け入れる事、傍にいる事、それらが必ずしも互いにとって幸せな事とは限らない。相手に重荷を背負わせない為に離れる事、それもまたひとつの愛のかたちだ。

 彼もまた、いずれ重荷を背負う事になる。彼が今の時計塔、及びアーチボルト家の惨状を知ったら、何を思い、何を為すのか。ずっと、ずっと見てきたのだから、それくらい想像が付く。それならば、せめて私という重荷は背負わせてはいけない。もしもこの先彼が私を追って来たとしても、現実を知れば、互いに諦めるしかない事を分かってくれるはずだ。

 私たちはいつまでも子供のままではいられない。彼より先に真実を知った私が、一足先に大人になる。ならなければならない。
 私たちの夢物語は、もう終わったのだ。




 遠坂家のかつての当主、遠坂時臣の葬儀は、ごく僅かの縁者のみを集めてしめやかに執り行われた。柊家が遠坂家に生涯仕える為の一族である事は、ここにいる全ての人間にとって既知の事実であったため、優花梨の存在を訝しむ者はいなかった。
 喪主を務めたのは、病床に伏せる葵ではなく、まだ幼い娘の凛だ。そんな彼女に追い打ちをかけるかのように、灰色の空からは延々と雨が降り注ぐ。凛がひた隠しにしている苦しみを表すかのようだった。

 葬儀が終わり、優花梨は他の参列者と共に墓地を後にした。凛とは一言も会話を交わしていない。綺礼に牽制されているのは事実だが、それがなくとも、遠坂家を裏切るような真似をしてしまった自分が、今の凛に声を掛ける権利などない。

 遠坂凛という少女はもう、自分を姉のように慕ってくれた子供ではない。凛は自分なんかよりも、強制的に大人にならなければならなかった。今の自分に出来る事は、いずれ偉大な魔術師となる凛に己の全てを捧げるべく、時計塔で鍛錬に励む事だけだ。罪滅ぼしというより、自分は元々その為に生まれてきたのだ。この世に生まれ落ちる前から確定していた道をただ歩んでいるだけである。
 罰が与えられない今の状況が、まさに罰そのものだった。凛が自分を罵り、憎んでくれたらどんなに楽だろう。だが、それは身勝手で傲慢な願いでしかない。許しを乞うのと同義だからだ。

 もう、少なくともあと数年は冬木を訪れる事はない。一人前の魔術師になるまでは戻らないと決めた。もう遠坂の援助はいらなくなる、その日まで。その時に初めて、遠坂凛への謁見が許されるのだ。そして私は彼女に誓う。操り人形ではなく、私自身の意志で凛に仕えるのだと。それが私の生きる理由であり、為すべき事であり、唯一出来る贖罪だ。



 フライトまではまだ随分と時間があったけれど、真っ直ぐ空港に来てしまった。冬木の街に滞在する理由はないし、なにより、あの地に居続ける事が辛かった。楽しかった事、思い返したくもないくらい辛かった事。あの街は、想い出で溢れている。私を造り、彩った全てのものが詰まっているのだ。
 今の私に感傷はいらない。感傷に浸る資格すら、今の私には無いのだから。


「おい」
 ふと、後ろから聞きなれた声が聞こえたけれど、気のせいだ。幻聴まで聞こえるなんて、どれだけ未練がましいんだろう。
 そもそも、昨日彼に会いに行ってしまった事自体がどうかしている。約束していたからと言えば聞こえは良いけれど、別れの挨拶もしないで黙って出て行くくらいなら、会わないままでいた方が絶対に良かったのに。最後の最後まで、散々彼を振り回して。彼の言う通り、私は自己中で、悲劇のヒロインぶってて、わがままで。

 ウェイバーはどうして、こんな私なんかを好きになってくれたんだろう。

 ラウンジの空いている席に腰を下ろした瞬間、すぐ隣に人の気配を感じた。混んでいるわけでもないし、わざわざ私の隣に座らなくてもいいのに。小さな溜息をひとつ吐いて、横目に隣人を見遣った瞬間、優花梨の思考は停止した。

「……ウェイバー、どうしてここにいるの?」
「いたら悪いか」
 優花梨の視線の先、すぐ隣に座っているのは、紛れもなくウェイバーだった。幻覚ではないのかと思ったけれど、心身共にそこまで疲弊はしていない。これは間違いなく現実だ。優花梨は顔を向けてウェイバーをまじまじと見遣るも、うまく言葉が出て来ない。
「どうして、ここに」
「オマエの行動パターンくらいお見通しだっての。葬儀に出た後さっさと時計塔に帰る事くらいな。ボクへの挨拶も何もなしに」
「……ごめんね」
「オマエにも色々と事情があるのは百も承知だ。全てをボクに打ち明けたくないっていうのも。それだけ頼りにならないっていうのは分かってる。でも」
 ウェイバーの手が優花梨の髪に触れる。
「例えオマエがボクを拒んでも、ボクはいつだってオマエの味方であり続ける。これからも、この先も、ずっと」


 どこまでもまっすぐな瞳で見つめられて、そんな風に言われてしまったら。
 決めたのに。背負わせたくないって。もう、これ以上迷惑を掛けたくないのに。
 それなのに、決意が揺らいでしまいそうになる。

「お願いだから、もう私に優しくしないで」
「嫌だ。もうオマエの言う事は聞かない。ボクの好きにさせて貰うからな」
「後々、ウェイバー自身が傷付く事になる。これ以上重荷を背負わせたくないの」
「何度でも言うが、ボクはオマエを重荷だと思った事は一度もない。それはこの先、何があっても変わらない」

 ウェイバーのあたたかな手のひらが髪を擽る度に、涙が零れてしまいそうになる。どうしてこんなに優しくしてくれるんだろう。私なんかに構ったところで、何の得にもならないのに。それどころか、いずれ私はあなたの枷となってしまうかもしれないのに。

「ったく、泣きたいなら我慢しないで泣けって前も言っただろ。本っ当に人の話聞かないよな、オマエって奴は」
「……ごめん」
 さっきまで優しく髪を撫でてくれていたかと思いきや、今度は親指で乱暴に涙を拭われて、つい目を閉じてしまった。
「いずれはボクもそっちに行くから。それまで、一人で頑張れるか?」
 私は平気だ。一人ぼっちなのは、ウェイバーと出会う前の日々と変わらない。それよりも、ウェイバーが時計塔に来た後の事を考える方が辛かったけれど、今言うべき事ではないので、無言で頷いた。
「ていうか、辛かったらいつでも日本に来ればいいんだし……それ位したってバチも当たらないだろ」
「ううん、そういう訳にはいかないの」
「……そっか」
 ウェイバーはそれ以上追及する事はなかった。以前の彼なら、自分自身が納得できるまで説明を求めて来たと思う。それだけ、彼も変わったのだ。聖杯戦争を通して、大人になったという事だ。私は無意識に彼を軽視していたのだろうか。きっと今の彼は、私よりもずっと大人だ。

 背負わせたくないなんて、私の思い上がりなのかもしれない。ウェイバーは優しいけれど、簡単に流されるような人間ではない。確固たる信念を持って生きている。彼ならば、乗り越えてみせるだろう。この先何が待っていようとも。
 それならば、せめて私は彼の枷にならないように。私も彼のように、強く生きてみせる。


「ねえ、ウェイバー」
「ん?」
「この先、何が待ち受けていても、何があっても、私はずっと、いつまでもウェイバーの味方だから」
「ボクの言葉の受け売りかよ」
「でも、これも私の本心」
 ウェイバーの手を取って、きっぱりとそう言って微笑してみせた。私はうまく言葉を伝えるのが下手だけれど、ウェイバーがそう思ってくれるなら、私も同じ気持ちを返すまでだ。何か言ってくるかと思ったけれど、返答がない。よくよく見つめると、ウェイバーは何故か頬を赤らめて視線を逸らしていた。今更照れることなんてないのに。そういうところだけは、変わっていない。




「長い時間付き合って貰ってありがとう」
「気にするなって。また暫く会えなくなるし、逆に時間が足りない位だ」
「これからは、ちゃんと手紙も送るし電話もするから」
「当たり前だろ。この半年、ボクがどれだけ待ったと思ってんだ」
「本当にごめんね……これからは、素直になる」

 私だけが先に大人になっていたなんて、恥ずかしい勘違いをしていた。私は大人になりたいだけの子供だ。
 彼に頼るのではなく、共に肩を並べて歩いていけるように。それが出来た時、その時に私はきっと大人になれているのだと思う。

「ねえ、ウェイバー。貴方が時計塔に戻ってくるその日までに、私、ウェイバーに相応しいひとになってみせるから」
「……は?」
「なれてなかったら、私の事は忘れて。でも、もし、ウェイバーにとって私が『そういう』存在であり続けていたとしたら、その時は、貴方の傍にいさせて」
 意味が分からない、何なんだこの女は、と言わんばかりに口をぽかんと開けて呆けた顔をしているウェイバーを見て、優花梨は激しく後悔した。
 言葉を取り繕うのは本当に苦手だ。結果が全ての時計塔では、極端な話魔術さえ出来れば優秀と称されるし、言動がおかしくてもただの変わり者扱いで済むけれど、そういう世界で甘やかされてしまうと、こういう時に普通の会話が出来なくて落ち込んでしまう。

「変な事言ってごめんね。今のは忘れて」
「いや、そうじゃなくて」
 伝わっていないと思っていたのは優花梨の思い込みに過ぎなかった。ウェイバーとてだてに優花梨と付き合いが長いわけではなく、どんなに拙かろうとその真意を把握するのは容易い事だった。
「相応しい、なんて。それこそボクの台詞だ。オマエの両親にも、遠坂にも、誰にも文句は言わせない人間になってみせるから。それまで待ってろ……って言うのはさすがに酷か。ボクはオマエが幸せになれるなら、それでいい」
「私の幸せは、貴方がいないと成り立たないよ」
 素直になる、そう決めたから。
 背負わなければならない事。償わなければならない事。たくさんあるけれど、せめて大好きな人の前でだけは、ありのままの私でいたい。
「いつか迎えに来てね、待ってるから」
 そう言うと、優花梨はウェイバーの身体を抱き締めた。この言葉が彼の負担になってしまったらどうしようと一瞬思ったけれど、本当にそうならそもそも今この場に彼はいないのではないか。不確かな仮定は、ウェイバーがすぐに抱き返してくれた事で、あっさりと確証へと変わった。ずっと見てきたのだから、分かっている筈の事なのに。今の今まで、私は彼を分かろうとしていなかったのだ。

 愛する事を恐れてはならない。
 愛される事に臆病になってはならない。
 互いに心から信頼し合えた瞬間、私達の絆はきっと永久へと変わる。




 第四次聖杯戦争から10年。かの極東の地で、また新たな戦いが幕を開けようとしていた。
「凛ちゃんから手紙が届いたの。時臣様の意志を継いで、聖杯戦争に参加すると」
 ここは英国、時計塔。この10年で、腐り切った体制は完全に変わりはしてはいないものの、新しい風は徐々に吹き始めている。主に、彼の功績によって。
「心配か? 君の仕えるべき主人が」
「ええ、今すぐ冬木に駆け付けたいくらい。でも、私なんかが行っても足手纏いかな。凛ちゃんは時臣様を遥かに超える魔術師なんだから、心配するのは彼女に対して失礼かもね。まあ、万が一の為に戦地に赴いておきたい気持ちはあるけれど」
「心配なら素直にそう言えばいいだろう。全く、君はそういうところは昔とまるで変わっていないな」
「そう? 随分と大人になったと思うけど。私も、貴方も」

 この10年間、色んな事があった。私は単に勉学に励んでそれなりの魔術師になって、結局冠位には至らなかったけれど、有り難い事に色位の称号を与えられた。順当に魔術師としての人生を送っていると言えよう。
 凛との関係は時間が解決してくれたと言うか、そもそも凛自身が幼少期から綺礼を快く思っていなかった事もあり、いつからか彼の目を盗んで私に連絡を取るようになっていた。
『優花梨が聖杯戦争に関わろうと関わらなかろうと、お父様はこうなる運命だったと思うの。だから、自分を責めるのはやめてね。そんな事は望んでないから。私も、きっとお父様も』
 数年前に彼女からそう言われて、己の罪が消える事はないけれど、随分と生き易くなった気がする。

 それよりも大きく変わったのはウェイバーだ。時計塔に復学後、第四次聖杯戦争で犯した己の罪を償おうと行動を起こした結果、ロード・エルメロイII世の名を冠する事となった。尤も、本人はそれを嫌がっているようだし、その経緯については私としても納得いかない事が多々あるのだけれど。私がどうこう言える立場ではないので、悶々とするしかないのが本当に悔しい。

「――そうだな、10年も経てば嫌でも大人になるさ」
「10年前か、懐かしいね。私はあの時誓った、貴方に相応しいひとになれているのかな」
「それは私の台詞だ。私のような『祭位』如きが、君のような『色位』と肩を並べるなど」
「私が言ってるのはそういう意味じゃないんだけど」

 あの頃よりも随分と背が伸びて、顔つきも変わって。彼の周りにはいつだって人が集まって、たくさんの生徒達に慕われて。随分と遠く離れた存在になってしまったと感じるけれど。それでも。

「ねえ、ウェイバー。迎えに来てくれて、ありがとう」
 いつも眉間に皺を寄せて苛立ってばかりの彼だけど、たまに昔の面影を感じさせるような優しい笑みを浮かべる事がある。例えば今、この瞬間もそうだ。
「当然だ」
「これからも、貴方の傍にいさせてね」
「嫌だと言っても聞かないだろう、君は」
「嫌なの?」
「おい、誰もそんな事言ってないだろ」
 たまに昔の口調に戻りそうになることもあって。変わらないところもある。

「……優花梨」
「なに?」
「私は、結局君に自由を与える事など出来なかった。こんな無力な男で、君は本当に幸せなのか」
 自分を過剰に卑下するところも変わっていない。まあ、彼が何を言ったところで、私はそれを全て論破してやるだけの話だ。
「何を以て自由と言うのか知らないけれど。私は充分幸せだよ、ウェイバー。こうして貴方と一緒にいられる事を、ずっと夢見て来たんだから」
「全く、本当に昔から変わり者だな、君は。この先後悔しても知らんぞ」
「貴方こそ」
 二人して笑い合って、どちらともなく互いの唇が触れる。
 私たちはすっかり大人になってしまったけれど、私たちの夢物語は、これからも続いていく。きっと、永久に。

2016/12/01


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