幸せの代償

 夢を、見ていたのだろうか。
 とても甘くて、優しくて、あたたかな夢を。


 優花梨は目を覚まし、ぼんやりと白い天井を見つめた。
 何が現実で、何が夢だったのか。
 どこまでが現実で、どこからが夢だったのか。
 確か、ウェイバーに別れを告げて、時臣の元へ行って、そして。

 一気に現実へ引き戻された。
 自分を救ってくれた遠坂時臣という人間はもう、この世にはいない。



「おい」
 ぶっきらぼうな声が突然耳に入って、優花梨は恐る恐るそちらへ首を動かした。
「ウェイバー…?」
「じゃなかったら、ボクは一体誰なんだよ」

 今自分が寝ているベッドの上に座って、眉間に皺を寄せながらこちらを見つめてくるウェイバーに、優花梨はつい微笑を零した。
 ここはマッケンジー邸の一室。この家に住む老夫婦の孫に成り済ましたウェイバーの部屋だ。
 部屋の時計に視線を移すと、短い針は12の位置を指していた。外は明るい。

「とりあえず、おじいさんとおばあさんには、オマエが父親と喧嘩して家出して来たって言ってある。この後どうするかは、追々考えればいい」
「ねえ、ウェイバー」
「ん?」
「ライダーは?」

 優花梨の言葉に、ウェイバーはぴくりと肩を震わせた。でもそれは一瞬の事で、すぐに答えが返ってきた。

「優花梨。聖杯戦争はもう終わったんだ」

 聖杯戦争は終わった。ライダーは、もういない。
 それが意味する事は、つまり――
 優花梨は慌てて身体を起こし、ウェイバーに詰め寄った。

「ウェイバー!!」
「な、何だよいきなり」
「夢じゃないの!? あの、橋の上で……」

 神々の戦いと形容しても過言ではない、ライダーとアーチャーの戦闘。
 ライダーは敗れた。受肉という願いは叶う事はなかったが、彼は充分満足したとでも言いたげな表情で、あの大きな身体は跡形もなく消滅した。
 聖杯戦争には敗れた。でも、ウェイバーは生きている。
 私の願いは、叶った。

「夢じゃない。全部、現実だ」
「全部……」

 ライダーが破れて、アーチャーが去った後。
 私達は何をした?

 思い出した途端、優花梨の頬は一気に紅潮した。

「あっ、あの、ウェイバー。私、最後の方の、記憶がなくて」
「――は?」
「あんな事、起こるわけがないし。うん、あれは、夢。絶対そう。私、本当に、ライダーとアーチャーが戦った後の記憶がないの」

 そう自分に言い聞かせる優花梨に、ウェイバーは呆気に取られたが、それも束の間のことだった。
 怒声が飛ぶのに、そう時間はかからなかった。

「記憶がない!? ふざけるな!」
 ウェイバーの剣幕に、優花梨はびくっと身体を震わせた。
「覚えてないんだったら、思い出させてやるよ。全部現実だってな」

 瞬間、優花梨の唇に、ウェイバーの唇が触れる。
 咄嗟のことで、頭が真っ白になって、何も考えられなかった。

 暫くして、唇が離れる。そして、ぎゅっと抱き締められた。

「……思い出したか?」
 優花梨は目を閉じて頷いて、ウェイバーの体に身を委ねた。

 この先どうすれば良いか。考えること、やることは山積みだ。でも、一人じゃない。
 ゆっくり、前に進んでいけばいい。



 聖杯戦争は、冬木新都の大火災を以て、その激しい戦いに幕を閉じた。
 夢なんかではなかった。今までかつてない大惨事で、幾多もの死者が出ているのだ。
 被害に遭ったのは、魔術の世界を知る事のない一般人だ。

 この聖杯戦争に勝利したのは、言峰綺礼だという確信があった。根拠はないが、己の勘がそう告げている。
 結局最後の最後まで、あの男が何を考えているのか分からなかったが、私如きがそこまで足を踏み入れてはならないのだ。時臣との間に何があったのか分からないが、師弟の裏切り行為は魔術師の世界ではよくある話だ。
 なんて恐ろしい世界なのだろう。そんな世界に私は生まれ落ち、これからもそうして生きていかなければならない。

 私は自由を手に入れた。
 でも、魔術師の世界を捨てて、普通の人間として生きていく選択肢を取るつもりはない。
 思い返してみれば、時計塔での生活は、大変だとは思っても、投げ出したいと思った事は一度もなかった。
 魔術師の家系に生まれた私は、結局のところ、魔術の神秘に憑りつかれているのだ。

 魔術の世界に背を向けるという行為は、この聖杯戦争での出来事を、なかった事にしてしまう気がして、それだけは、避けたかった。
 私がこの先どうするか。どうしたいのか。不思議な事に、悩むことなくその答えはあっさりと見つけられた。
 これもきっと、聖杯戦争での数々の体験や、行動を起こさなければ絶対に巡り会えなかったであろう人達との出会いによって、知らず知らずのうちに自分は変われたのだろう。

 ウェイバー・ベルベット。私の敬愛する男の子。
 いつかあなたと肩を並べて、共に生きていきたい。
 その為に、私も様々な壁を乗り越えてみせる。英霊イスカンダルと共に戦い、成長した、あなたに相応しい人間になる為に。





 マッケンジー夫妻には相変わらずお世話になりっぱなしだ。この先の見通しが立ち次第出て行くつもりだが、二人の「食の細い女の子がひとり増える位、どうって事はない」という言葉に、正直甘えてしまっている。
 流石に申し訳ないので、料理の手伝いと後片付け、掃除や洗濯、食材の買い物は率先してやっている。

「うふふ、優花梨ちゃんがいてくれて本当に助かるわ」
「いえ、むしろこれぐらいの事しか出来ず、申し訳ないです。家族と話し合って、今後の見通しが立てばここを出て行きますが、それまでの間は何でも申し付けくださいね、マーサ様」
 マーサに向かってふわりと微笑んでそう告げる優花梨に、グレンはにやりと笑みを浮かべた。
「なあに、いっそウェイバーと結婚して、これからもここで一緒に住んだらどうかね?」
「えっ!?」
 優花梨の素っ頓狂な声と同時に、ウェイバーが飲んでいた珈琲を盛大に噴き出した。
「何言ってんだよ! ボク達まだ未成年だぞ!」
「おや、ウェイバーは結婚する気のない女の子と毎晩一緒に寝ているのか。そんなろくでもない孫を持った覚えはないぞ」
「ちょ、ちょっと! 誤解を招く発言はやめてくれ! ボクと優花梨はまだ清い関係だ!」

 まだ、という事は、いずれは、と思っているのだろうか。
 顔を真っ赤にして怒るウェイバーにつられて、優花梨も紅潮してしまった。

 そう思ってくれているウェイバーの為にも、ちゃんと、けじめを付けなければ。




 夜明け前。優花梨は目を覚まし、ベッドから起き上がり、床に敷いた布団で眠るウェイバーをちらりと見遣った。
 先延ばしにしていては、一向に先に進まない。今が、やるべき時だ。

『今日は出掛けて来ます。夕飯の時間に間に合うか分からないので、私抜きでごはん食べてね』
 机上に置き手紙を残し、ウェイバーを起こさないよう静かに窓を開ければ、まだ陽も昇らない薄暗い空に向かって、優花梨はその身を舞い上がらせた。

 向かう先は、遠坂のもと――すなわち、葵と凛に会いに行く。
 二人が遠坂の館に戻っているとは考えにくい。恐らくまだ禅城の家にいるだろう。場所は分からないけれど、確か、冬木から二駅離れた場所だと聞いた覚えがある。行動しなければ、何も始まらない。

 優花梨は今まで、遠坂時臣の援助で、英国に留学し、時計塔で何不自由ない生活を送っていた。
 だが、時臣が亡くなった今、遠坂家が優花梨を支援し続ける理由はない。

『凛の力になって欲しい』、時臣はかつてそう言った。今の優花梨には、その言葉の本心を理解する事が出来た。
 あの発言は時臣の恩情だ。牢獄に囚われた少女を救いたいという、純粋な願い。そんな『可哀想』な少女の自尊心を傷つけない為に選ばれた言葉なのだ。

 そもそも、魔術師は血統を重ねる事により、より優秀になってゆく。つまり、遠坂凛は、優花梨が敬慕してやまない時臣よりも、遥かに優秀な魔術師になる。そんな魔術師の力に私如きがなるなんて、思い上がりも甚だしい。おこがましい話なのだ。

 それに加え、優花梨は気付いていた。
 何故両親は、遠坂時臣が時計塔への留学の話を持ち掛けた時、実の娘である私への『教育』を放棄し、あっさりとそれを承諾したのか。
 答えは簡単だ。
 自分達の『教育』では、娘を魔術師として大成させるには限界があり、英国での生活を何年も支援し続ける事が出来る程の財産も、残念ながら無いからだ。

 遠坂時臣はもういない。遠坂家の新たな当主は、まだ幼い凛だ。
 ましてや父親を失ったばかりだ。凛は勿論の事、妻である葵も、覚悟は出来ていたとはいえ、心の整理が付くまでには、長い時間が必要になるだろう。
 そんな二人に、時計塔で学ぶ為の援助を求めるなんて、どう考えても有り得ない。恥ずかしい行為である。ちっぽけな私にだって、人間として最低限のプライドというものはある。

 つまり、時計塔に戻る事は、極めて困難だという事だ。

 ただ、あの用意周到な時臣の事だ。きっと私への資金援助を続けるよう、遺言を残しているかも知れない。というか、ほぼそうであるに違いない。でなければ、今まで私に投資して来た意味もないし、聖杯戦争が行われている冬木の地に乗り込んだ私を連れ戻して、英国へ帰らせようとはしないだろう。

 だからこそ、凛と葵にははっきりと意思を伝えなければならない。
 どんなに時間がかかってもいい。私は、自分自身の力で、魔術師としての道を歩いていくのだと。


 夜が明けてきた。空を浮遊しているところを、一般人に見られるわけにはいかない。
 優花梨は冬木の鉄道駅の近くまで行くと、人気のない場所で下降し、ふわりと地へ舞い降りた。
 辺りを見回す。もう朝陽が昇り始めている。危なかった。そう思った瞬間、人の気配を感じた。

 間違いない。
 こちらに向かって来ている。
 一気に血の気が引く。
 呼吸が荒くなる。
 体が動かない。
 思考が、停止する。


 その男はゆっくりと歩を進め、何食わぬ顔で、優花梨の目の前で立ち止まった。
「成る程、英雄王が言っていた事はあながち間違いではないようだ」
 どうして。
 どうしてそんな、何事もなかったかの様な顔で、平然と私の前に現れたのか。
「元気そうで何よりだ、優花梨。亡き師も、今の君の逞しさを見れば、さぞ喜ぶに違いない」

 言峰綺礼。
 彼の師である遠坂時臣を、私の敬愛する時臣様を、殺した男。

「……貴方と話す事は何もありません、綺礼」
「ほう? 英雄王の話では、君は事の顛末を理解し、受け入れたと聞いていたが」
「あの時の私は、あくまで時臣様が召喚された英霊に、敬意を払ったまでの事。貴方の裏切りを、私は一生赦すつもりはありません」

 会話すらしたくない。優花梨は綺礼の顔を見ようともせずに、踵を返して、駅へ歩を進めた。

「優花梨」
「何度も同じ事を言わせないでください。貴方と話す事は、何も」
「師の奥方が、病に伏せられた」
 優花梨は足を止め、困惑の表情で振り返り、初めて、綺礼の顔を直視した。その表情からは何も窺う事が出来なかった。思わず綺礼の両腕を掴む。
「葵様が!? どういう事なのですか、綺礼!!」

「此度の聖杯戦争に巻き込まれたのだ」
「一体誰が! 誰が葵様を」
「君も知っている人物だ。――バーサーカーのマスター、間桐雁夜」
「……そ、そんな…嘘…」
 幼い頃、赤の他人の私にも優しくしてくれた、優しかった男の人。そんな事、する訳がない。
「私が嘘を吐いた所で、互いに何の利益もないのは、考えなくても分かる筈だが? 因みに、彼もまた聖杯戦争で命を落としている」

 優花梨はあまりのショックで立っていられず、ふらりと倒れそうになった。その身体を、綺礼が抱き止める。優花梨が窺い知れないその表情には、邪悪な笑みが零れている。

「優花梨。私達は今、偶然出会ったのではない。私は君を待っていた。そろそろ心の整理も付いて、今後の事について話し合う為に、禅城の家に向かう頃合いだと思って見張っていたが、想像より立ち直りが早くて感心した。さすがは師が目に掛けた魔術師だ」

 綺礼が何を喋っているのか、何も分からなかった。
 時臣様が命を落とし、葵様までもが聖杯戦争に巻き込まれ、病に伏した。
 今、凛はどうしているのか。どんなに辛い思いをしているのか。
 桜だけでなく、凛までも――何故、何の罪もない少女に、神は試練を与えるのか。

「私が君に会いに来たのは、師の遺言を伝える為だ」
 時臣様の、遺言。優しい、優しかった時臣様。説明されなくても、時臣様なら何を残すか、私には分かっていた。
「柊優花梨。君への資金援助は今後も遠坂家が行う。君が時計塔で引き続き勉学に励み、優秀な魔術師へ成長する事。それが、師の願いだ」
「……それは、受け入れられません。葵様が病に伏せられているのなら、尚更です。今は、凛ちゃん…遠坂家の当主である遠坂凛を支える事が、私の為すべき――」
「遠坂凛の後継人は私だ。君の出る幕はない」
 綺礼は手を解くと、優花梨の顎をくいと摘んで、感情のない表情で淡々と告げた。

「そもそも、理性を捨てて一時の感情に任せて冬木の戦地に赴き、あまつさえライダーのマスターと行動を共にした君の行為は、師に対する立派な裏切りだ。師が許したとはいえ、君の行為を今の凛が知ったら、さぞやショックを受けるだろう」

 綺礼の言っている事は正しい。
 例え綺礼が許されざる行為を行っていても。

 私もまた、罪を犯している。

 綺礼を非難する権利など、初めから存在しなかったのだ。

「魔術刻印の摘出もある。師の葬儀は大分先になるだろう。君が今すべき事、それは時計塔に復学する事だ。それが、師が柊優花梨という哀れな少女に授けた唯一の望み。己の愚行を少しでも悔やむ気持ちがあるのなら、君に選択肢は無い」

 そう言って、綺礼は手を離して、その場を後にした。


 優花梨は暫しの間、呆然と立ち尽くしていた。
 何を思い上がっていたのだろう。
 後先考えずに、大好きな男の子を追い掛けて、彼の優しさに甘えて。

 自分だけ幸せになろうだなんて、そんな事、許されない。許されてはいけないのだ。





「おかえり。早かったな」
 マッケンジー邸に戻り、ウェイバーの部屋に入った優花梨を、ウェイバーは意外そうな顔で出迎えた。
「余裕で夕飯に間に合う時間じゃないか」
「ウェイバー」
「ん?」
「私、時計塔に戻るね」
「……ああ、そうか。だよな、まあ、そうなる…よな」

 ウェイバーも、いちいち聞かずとも分かっていた。
 今後どうするか、遠坂家と話し合いをしに行ったのだと。
 優花梨の性格上、割と早い段階でこの家を出て行くという予感はしていたし、自分と違って彼女は才能がある。遠坂家も今は当主を失って大変な時だと思うが、遠坂時臣が長年彼女を支援し続けた事を考えると、援助を打ち切る事はないだろうと思った。

「で、いつごろ時計塔に戻るんだ?」
「明日」
「そうか…――って、はあ!?」
「明日。航空券も取った。もう、キャンセルはしない」
「待て待て待て! いくらなんでも急すぎるだろ!」
 困惑と、また自分に相談もなしに勝手に行動された苛立ちで、ウェイバーは怒気を帯びた声を上げた。

「ごめんなさい」
「謝るんじゃなくて、説明しろ! もう、一人で抱え込むのはやめろって言っただろ!」
 怒りの形相で迫られて、優花梨はおずおずと、拙い口調で経緯を説明した。

 流石にウェイバーも閉口せざるを得なく、ただただ、溜息を吐いて、ぽつりと呟いた。
「はあ、本当にボクは『なってない』。口先だけで、結局オマエの為に何も出来やしないんだな」

 そんな事ない。一番辛い時に傍にいてくれた。それだけで充分救われたのに。
 私がそう訴えても、今のウェイバーの耳には届かないんだろうな、と思って、優花梨も黙り込んでしまった。




「優花梨ちゃんがいなくなると、寂しくなるわねえ」
「ウェイバーがいるから大丈夫ですよ」
 夕食、最後の団欒。マーサ夫人は出来る限り、手の込んだ食事を作ってくれた。あたたかな食卓。きっと、普通の家庭では当たり前の光景。
 凛と桜が今どんな思いをしているか。そう考えると、自分がこんな風にのうのうと幸せに身を委ねる事は許されない。許されてはいけない。そう自分に言い聞かせた。
 でも、今日でこの平穏な生活を終わらせなければならないと思うと、泣きそうになった。涙を堪えるのに必死だった。


 食事を終えて、洗い物をしていると、グレンが声を掛けてきた。
「ご家族と話し合って、自分の意思で決めたのかね」
「はい。逃げていても、何も始まりませんから」
「優花梨ちゃん」
 グレンは詳しい事は何も聞かず、優花梨の頭を優しく撫でて、諭すように言った。
「逃げることは悪いことじゃない。辛くなったら、いつだってここに帰って来なさい」
 その優しさに耐え切れなくなって、声を押し殺して、大粒の涙を零してしまった。




 夕食とお風呂を終えた後、二階のウェイバーの部屋で、優花梨は荷造りに勤しんでいた。
「なあ、ボクも何か手伝う事…」
「ない」
 この家に居候して、なんだかんだで荷物が増えてしまった。最低限の服を着回ししているのを見かねて、マッケンジー夫妻が服を買い与えてくれたのだ。

 荷造りを終えて、優花梨はウェイバーの傍に駆け寄った。
「あのね、ウェイバー」
「うん」
「何ヶ月後になるか分からないけど、また冬木に来る。時臣様の葬儀があるから」
「何ヶ月って…そんなにかかるもんなのか?」
「魔術刻印の摘出をしないといけないから。いずれ、新たな当主の凛ちゃんへ移植する為に」
 浅い血統の自分には想像もつかない。ウェイバーは聞き流す事しか出来なかった。

「それでね」
 優花梨は神妙な面持ちで言葉を紡いだ。
「その後は、もう、冬木には戻らないと思う。時計塔で頑張って、立派な魔術師になるって、決めたの。それが、私に出来る、遠坂家への唯一の償い」

 ウェイバーにとっては、何故優花梨がそこまで自分を責めて、追い詰めるのか、理解出来なかった。
 彼女の背負っているものを理解する事なんて、所詮自分のような落ちこぼれには不可能だ。
 だが、もし自分が彼女の立場だったら。
 きっと同じ事を考える、と思った。
 悲しいかな、自分は何も出来ない。無力だ。この先出来る事と言えば、手紙や電話で連絡を取り続けて、優花梨を励ます事ぐらいだ。

「何か出来る事なんて、ないよな、今のボクには」
「ある」
「…え?」
「私が魔術師の世界とは無縁の、普通の女の子でいられるのは、今日が最後」
 優花梨はウェイバーの頬に触れて、瞳を潤ませて、呟いた。
「思い出が、欲しい」

 その言葉が何を意味しているのか。ここまで来て、流石にそれが分からない程鈍感ではない。
『据え膳食わぬは男の恥』。英霊イスカンダルが過去に放った言葉が、ウェイバーの脳裏を過る。
 だが待て。優花梨の事を大切に思っているからこそ、軽率な行為は控えるべきではないのか。

 眉間に皺を寄せて悩んでいると、ぐず、と鼻をすする音がした。
 案の定、優花梨が今にも泣きそうになっていた。

「ウェイバー…やっぱり、私なんかをそういう目で見るのは、無理…だよね」
「違う、そうじゃない! あーもう! 分かった! 分かったから泣くな!」





 正直言って、上手く出来たのかそうでないのかは分からなかった。お互い初めてでろくな知識もない。これで本当に良かったのか…と疑心暗鬼になりつつも、ウェイバーは隣に横たわる優花梨を抱き寄せて、髪を撫でてやった。優花梨は愛おしそうに目を細めれば、掠れた声で言葉を紡いだ。

「ウェイバー。私ね、本当に幸せ。私を女の子として、恋人として、見てくれて。今日という日を、私は一生忘れない。この想いを、ずっと大切にして、生きていくから」
「今生の別れでもあるまいし、大袈裟な事言うなよ」

 ウェイバーはそう言ってみせたが、優花梨はそうは思っていないらしい。暫くしてしゃくりあげる音が聞こえた。全く、オマエの涙は無限に流れるのかよ。夕食の時に涙を堪えてたのも、後片付けしてる時に泣いてたのも、全部気付いてるんだからな。そう毒づくも、こうして振り回される日々ももう終わってしまうのかと思うと、とてつもない寂しさに襲われた。泣きたいのはこっちだ。泣けるオマエが羨ましいよ。ウェイバーは心の中で悪態を吐いた。

 優花梨は泣き疲れたのか、いつの間にか眠りに落ちていたが、ウェイバーは結局一睡も出来なかった。





「今までお世話になりました。本当に、ありがとうございました。このご恩は、いつか必ず…」
 翌朝、玄関先で深々と頭を下げる優花梨に、マッケンジー夫妻は苦笑した。
「なあに、また遊びに来なさい。半年後だって、一年後だって、何年後だって、いつだって歓迎するさ」
「そうよ、優花梨ちゃん。なんたって私達の可愛い孫の、未来のお嫁さんなんだから」




「お嫁さん、かあ。夢のような話だね」
 空港までの道程。優花梨の荷物を担ぎ、付き添ってくれるウェイバーにそんな事を呟くと、淡々とした声が返って来た。
「ま、夢は叶えるものだけどな。叶うだろ、普通に」
「え?」
 まさかそんな事を言われるとは思っていなくて、優花梨は思わず立ち止まって素っ頓狂な声を上げた。
 
「叶えてみせるから、ボクが」
「えっ、あ、あの」
「時間はかかるけど、どうか待ってて欲しい」

 ウェイバーは迷いのない真っ直ぐな瞳でそう告げた。
 優花梨の頬が一気に紅潮する。

「………」
「…返事は?」
「えっ!? は、はいっ」

 慌ててこくこくと頷く優花梨。ふと見ると、ウェイバーも頬を赤く染めて眉間に皺を寄せていた。

 幸せだ。本当に、幸せだ。
 この幸せな、幸せだった日々は、今日で終わってしまうのだけれど。
 構わない。この想い出を胸に、私はこれからも、生きていける。
 たとえ、夢が叶うことはないと分かっていても。


「荷物持ち、ありがと」
 空港に到着し、優花梨はウェイバーから荷物を受け取った。瞬間、予想外の重さに優花梨は思わずよろけてしまった。
「オマエ本当に大丈夫か? ちゃんと時計塔に辿り着けるのかよ」
「だ、大丈夫だよ、さすがに。時計塔と冬木は何回も行き来してるし」
「不安だ…」

 ウェイバーの失礼な言葉を他所に、優花梨は搭乗手続きを済ませた。時計塔と遠坂家を散々行き来していたので、手慣れたものである。この荷物の重さも、ゆくゆくは良い思い出のひとつになるだろう。

「じゃあ、ここまで。送ってくれてありがとう」
「え? あ、ああ…」

 微笑を向けた後、踵を返す優花梨。ウェイバーは一瞬頷きかけるも、慌てて優花梨の細い腕を掴んで振り向かせた。
「って、おい! 別れの挨拶ぐらいちゃんとさせろ、馬鹿!」
「今生の別れじゃないんでしょ?」
「だからってなあ…数ヶ月は会えなくなるだろ…」
「時計塔にいた時も、何ヶ月も会わないことあったのに」
「あの時と今じゃ全く違うだろ、ボク達の関係は」

 優花梨はうーんと考え込んだ後、背伸びをして、ウェイバーの唇に軽く口づけをした。
「お別れのキス。時計塔にいた時は、こんな事出来る関係じゃなかったよね」
 悪戯な笑みを浮かべて小首を傾げる優花梨を見て、ウェイバーは何処か違和感を覚えた。
 間違いない。今、彼女は、演技をしている。泣かないように、頑張って明るく振る舞って。
 自分の前で我慢する必要なんてないのに。でも、きっと、そう振る舞わないと、自分を保っていられないのだろう。

 今ならまだ、間に合う。
 いっそ冬木でこのまま一緒に暮らして、二人で頑張ってお金を貯めて、一緒に世界を旅して、それから時計塔に復学したっていいじゃないか。
 そうは思っても、遠坂の呪縛が彼女に自由を与えさせてくれないのは、分かっている。頭では分かっているのだが。
 やっぱり、自分は無力だ。
 結局、引き留められなかった。

「時計塔に行っても、まめに連絡よこせよ」
「うん」
「遠坂の葬儀でこっちに帰ってくる時は、ちゃんと前もって知らせろよ」
「うん」

 ただ相槌を打つだけの優花梨に、ウェイバーは不安を覚えずにはいられなかった。

「今日、これが最後なんて、絶対に思うなよ。そんなの、ボクが絶対に許さないからな。オマエはボクの恋人だ。今、この瞬間も、この先も、ずっと」



 優花梨はウェイバーの言葉を無視して、背を向けた。
「もう、行かなくちゃ」
「優花梨」
「ウェイバー、本当に、本当にありがとう」
「優花梨、ボクは」
「もう何も言わないで。これ以上優しくされたら、私、時計塔で一人でやっていけなくなっちゃうから」

 そう言った優花梨の声は涙声で、肩は微かに震えていた。
 ウェイバーは、もう、何も言えなかった。
 ただただ、愛する少女の小さな背中を見送る事しか、出来なかった。

2016/02/20


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