モノノ怪 飽和する世界 番外 | ナノ
朝御飯
結局眠れたのか眠れていないのか分からない頭はぐわんぐわんと揺れるようだ。
リビングに干した洗濯物の湿気のにおいと、それから食器を洗ったせいで少し自分の手から匂う石鹸のオレンジっぽいにおいと、今寝転がっているソファのにおい。今までは気にも留めなかったそれらのにおいが、私の家のにおいなのだなぁと感傷的になる。
頭が痛い。さらに目も泣きすぎて水分と言う水分が枯れてしまったのか、乾燥して痛い。そろそろ朝日が昇って幾分経つ。お隣さんが雨戸を開ける音がして、ああいつもの変わらない日常が始まるのだなと思った。
私は雨戸を開けることすらない。だって今日は役所を回って、そのあとに薬売りさんの家を見に行って、部屋に何を運ぶかを考えて帰るのだ。帰りが遅くなるかもしれない。日が暮れてから雨戸の空いた家に帰るのは嫌だ。防犯も考えると、雨戸は占めたままのほうが良いだろう。
でも、日光が差し込まないこの部屋は、まるで世界の日常から隔離された場所のようだ。
口から勝手に親を呼ぶ声が出そうになって、唇を噛み締める。カサカサになっていた目元がまた潤んで、その熱さに頭痛が悪化する。
無駄にテレビをつけると、今日は天気がいいだとか、今の流行だとか、今日の星座占いとか、そんなものが笑い声と一緒に流れてきた。ああ、いつものニュースだ。なんだ、私の星座、一位か。
7時になったから、起き上がってパジャマから着替える。
いつもなら制服に着替えるのに、今日は私服だ。平日なのに私だけ休日になっている。
役所に行くとなると、学生手帳と、保険証が必要になるのかな。保険証ってどうなるんだろう。親の扶養だったけれど、その親が居なくなったらどうなってしまうのだろう。税金だって全く分からない。そういったのを今日するのかな?それなら親の通帳とかも必要になるのかな。
印鑑や通帳と言った大事なものが入っている場所はお母さんが教えてくれていた。食器棚の中を漁って、その箱を見つける。
「……」
その箱には私がまだひらがなを書き始めたばかりに書いたのだろう、お母さんの名前と自分の名前が油性ペンで描かれていて、お母さんがこの箱が宝物だと笑っていたのを思い出してまた涙が零れてしまう。
零れる涙をそのままに、箱をバッグにそのまま入れる。
きっと今中身を確認したら泣いてしまうから。
外で開ければ、周りの目もあって泣かずにいられるから。
色々用意していると時間はあっという間に過ぎてしまって、否、私がのろのろと動いていたからなのだろうけれども。とにかく、約束の9時かやってきて、時間ぴったりにチャイムが鳴った。
「はい」
「俺です」
「今開けます」
玄関を開けると、そこには昨日のお兄さん。昨日も思ったけれども、本当に綺麗な人だな。
朝日がとても似合う人だ。
「おはようございます」
「おはようございます」
「おや、もう鞄を準備して、いたんで?」
「はい。一応役所に行くのに必要そうなのは持ちました」
「ではこのまま向かいますか?戸締りはしましたか?」
「昨日の夜に戸締りをして、そのままなので大丈夫です」
「分かりました。では、行きましょうか」
私は出しっぱなしにしていたローファーを片付けて、沢山歩くだろうしと考えてスニーカーを出す。
それを履いて立ち上がると、少しだけ気持ちがしゃきっとした。
玄関の鍵を鞄から出して閉めて、心の中で小さくいってきます。と呟く。
「西明さんは、朝御飯、食べましたか?」
「え?……食べ、ました」
咄嗟に嘘をつけなくて、でも心配はかけたくなくて、白々しい嘘を口にすると相手はふむ、と顎に手を当てて相槌。
この人、役者かな?仕草がちょっと演劇っぽい。
「実は、俺はまだでして。良かったら、付き合ってはくれませんか?」
ちらりと流し目で見られて断れない雰囲気に頷けば、相手は少し口の端を上げてふふ、と笑った。
まだそんなに日が高くない時間だからだろう、薬売りさんの顔には影が濃く出ていて、鼻の高さや、柔らかそうな頬の曲線が強調されてより美しく見える。
きっと、彫刻を前に鉛筆を持つ人はこんな気持ちなのかもしれない。カメラマンなら、きっとこの美しい一瞬を切り取りたくてカメラを向けることだろう。
モーニングの文字が出ている喫茶店を薬売りさんが指さして、あそこに入りましょうか。と言った。
私は見慣れない店だったけれども、一つ返事でついていく。
席に座ると、禁煙席へとそのまま通してもらえた。もしかしたら薬売りさんは常連なのかもしれない。
テーブルに置かれたメニュー表を見ると、ドリンクだけを頼んでも必ずパンはセットでついてくるようだった。
「注文しないのは失礼でしょうし、西明さんも、良かったらモーニングを頼んでください。食べられなくても結構ですから」
「分かりました」
あれ?私お財布の中身どれくらいだったかな?最近スマホで決済しているから、現金をいくら持ち歩いているか分からない。
ここって雰囲気的に老舗っぽいけれども、スマホで支払いできるのかな……。席がレジから遠くて支払方法が見えない。
分かりました、と言った後にお金がありませんでしたごめんなさい。は笑い話では済まない。
無銭飲食と同じだ。
財布の中身を確認しようと鞄のチャックを開けると、ここは甘えてくださいよ。と薬売りさんに言われる。
「え?」
「お金の心配など。俺が誘ったのですから」
「いやでも」
「大人を立ててください」
「……」
それを言われると何も言えなくなってしまう。私はしょせん子供なのだ。
「ご馳走になります」
「それで、よろしい」
で、決まりましたか?と聞かれたので一番安いセットを指さすと、育ち盛りなのだからとサンドイッチかトーストとベーコンセットのどちらかにしろと言われる。
どっちもメニューの中で一番高い品だ。
「サンドイッチで……」
「分かりました」
ピーンポーン、と聞きなれたボタンの音が響いて、店員さんがやってくる。
薬売りさんは一番安いトーストセットを。そして私はサンドイッチのセットを注文された。
「薬売りさんがお腹空いてたんじゃないんですか?」
「大人は低燃費なんですよ」
「お父さんは朝がっつり食べてましたよ」
「体質でしょう。あなたのお父さんは体格もよかったですから」
「まぁ、そうですね。お父さん、私から見ても三食共に食べる量多かったですから」
薬売りさんを改めて見る。
本人に言ったら気を悪くされそうなので言えないが、中世的な顔立ちだし、全体的にほっそりしている。服装もユニセックスにすれば、もしかしたら女に間違えられることもあるかもしれない。
というより、爪もきれいに手入れされているし、マニキュアが塗られている。
私よりよほど【美】だ。圧倒的な美。
月とスッポン、という言葉を思い出す。今このテーブルを囲んでいるのは月とスッポンだ。月とスッポンが対面しているのだ。
寝不足な上に泣いてむくんだ顔でこの人と並んで役所を回るの嫌だなぁ。とぼんやり思ってしまう。
「これからする手続きの中で、一つ、説明しておきます」
「はい」
「この後、役所に行って色々手続きをして、西明さんの未成年後見人に俺はなる予定です。未成年後見人についてはご存じで?」
「いえ、全く」
その単語もなんだそれ、状態だ。未成年なのはわかる。私は未成年だから。高校生だし。
でも後見人って何だろう?
「簡単に言うと、未成年者は様々な契約が出来ませんよね。それを代理でする人の事です」
「ああ、成程」
「それから、本来ならば後見人が財産管理もしなければならないのですが、西明さんはそこら辺しっかりしているでしょうから、お任せしようかと」
「ええ!?私にお金の管理は出来ませんよ。税金とかも分かっていないのに」
「では、一緒にやっていきましょう」
お待たせしました、とモーニングがテーブルに置かれる。
温かいうちに食べましょう。と言われて、いただきますと二人で言った。
温かい湯気の上がる紅茶と、サンドイッチとサラダ。サンドイッチにかじりつけば、口の中が久しぶりに味を感じたような気持ちになった。
「おいしい」
「それは良かったです」
薬売りさんはパンを一口サイズにちぎって食べている。噛り付くタイプではないのか。
空いていなかったお腹は水を得た魚のように急に活発になって、どんどん食べ物を胃の中に入れろと訴えかけてくる。
サンドイッチを平らげて、サラダも食べて、温かい紅茶も飲んで、ほうっと一息吐く。
「ご馳走様でした」
「ご馳走様でした」
伝票を取った薬売りさんは、ついでに私の荷物も持ってしまう。
「重たいですよ」
「尚の事、持たせられません、ね」
いろんな荷物が入った鞄を軽々と持って、支払いまで済ませてしまう大人。
今まで大人と言えば先生や親しかいなかった私には、どう反応していいのか分からなかった。
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