モノノ怪 日蝕 | ナノ
ま
命綱はチームの皆が握っている紐だけ。
これを離して山に一人置き去りになれば、死が待っている。
皆息を潜めて、眼の利かない闇の中を紐だけを頼りに歩いてゆく。
先導者は稀に私達に伏せろと合図を出した。
近くに狙撃兵が居るのだ。
夜が明けるまでの時間は限られている。
陽が昇れば見つかり、私達は蜂の巣だ。
けれど、焦って此処を駆けたりすれば狙撃兵に気付かれ撃たれて、結果は同じ蜂の巣。
焦ってはいけない。
分かっていても、心は悲鳴を上げている。
気が狂いそうだ。
洋館の何処かにある柱時計が二回、重たい鐘の音を奏でた。それは時刻が午前二時になった合図である。
カエの母親は薬売りが処方した薬の効果であろう、今は呼吸が安定している。薬売りは脈を測り、乱れが無いことを確認してふぅと息を吐いた。
窓を打ち付ける雨は変わらない。天気は崩れる一方だ。
レースのカーテン越しに天が光り、次いで雷鳴が大地を震わせた。
光と音の間隔は短く、そう遠くない場所で光の龍が天を走ったのだと知れた。
「……!」
何処かから女の悲鳴が聞こえた。薬売りは鬼の装飾が施されている不気味な短刀を片手に、部屋を跳びだし廊下へ出る。
雨音がザァザァと煩く、悲鳴の発信源が何処に居るのか判断がつかない。
しかし、懐中電灯で辺りを照らすように動かせば、向きによって鬼の口が動き、カシャカシャと金属が軽くぶつかり合う音を奏でる。
薬売りは迷わずにそちらへ向かった。
悲鳴はもう聞こえない。
しかし、鬼の奏でる音を探知機とでも云うかの如く、薬売りは一つの扉の前で足を止めた。
中から音はしない。何処かで天を走る稲妻の音と降りしきる雨音がするばかり。
薬売りはドアノブに触れた。
鍵が掛かっており、開く気配はない内開きの扉。
「失礼」
黒足袋を履いた片足を上げる。
しますよ、と言うと同時にドアを蹴った。
老朽化していたのだろうドアの木材は鍵の力に耐えられず壊れて、蹴られた力に任せてドアが開く。
「あっ……」
か細い、苦悶に満ちた声が雨音の隙間に聞こえた。
月明かりも降り注がない暗い部屋で薬売りは辺りを見回す。雷が光を発した時、薬売りの視界に入ったのはベッドだった。
その上に、人が二人居る。否、人というにはどうにもおかしい。
ベッドに仰向けになっている人間と、その上に馬乗りになって首を絞めている透けた人間らしきものだ。
「形を、得たり」
薬売りが告げると、鬼の刀は歯を鳴らす。
馬乗りになっていたそれは、薬売りを見た。
軍人の服を身に纏った青年の顔が、こちらを見る。その表情は薬売りには分からなかったが、まだ若いのだと、漠然と感じ取った。
そして、薬売りは袂から札を取り出し、青年に向かって投げる。
半透明のそれは、札が辿り着く前に姿を煙のように消してしまった。
薬売りはベッドに近づく。
ベッドでは女が一人、絞められていた喉を押さえながら乱れた呼吸を繰り返しながら泣いているだけであった。
『カエさん、カエさん』
いつの間にか部屋の隅に現れた半透明の青年がカエを呼ぶ。その声は水の中で聞くような、くぐもった音であった。
『カエさん、私は貴女を』
「嫌、嫌!」
カエが叫ぶ。駄々をこねる子供のように、ただただ「嫌」と拒絶の言葉を繰り返す。
すると青年は笑った。
『許さないわ』
女の声がする。見れば青年の隣に妙齢の女が立っていた。
「あ、あぁぁぁっ!」
カエはその女性を見るや、泣き崩れる。
すると青年と女は愉快そうに笑って姿を消した。
雨音とカエの啜り泣く音しかしない部屋を、薬売りはやけに静かに感じた。透けた二人の気配が無くなったからかもしれない。
「カエさん、今のは?」
両手で顔を覆い、ごめんなさい、ごめんなさいと謝罪を繰り返すカエ。
薬売りはデスクに置かれたマッチを擦り、ランタンに灯りをつけた。闇に染められていた世界に、橙の灯りが栄える。
「カエさん、これは、夢です」
「ゆめ……?」
「えぇそうです、あれは夢。だって彼は死んでいるのですから」
「し……」
「夢の中ならば、貴方は弱音を吐いても大丈夫。何故なら夢なのですから。夢の物語は夢の中に置き去りしにてうつつに帰れます」
その言葉に、カエの顔を覆っていた手が退き、濡れた瞳が薬売りを見た。ランタンの明かりを乱反射するその涙を薬売りは指先で拭う。
「貴方は何者ですか」
「ただの、薬売り、ですよ」
「何故私の夢に?」
「人の夢は何処かで繋がっているみたいですぜ」
「口が達者」
カエはクスクスと笑った。
そしてポツリと、こう言った。
「此処はうつつね」
「夢と信じれば夢に、うつつと思えば現つに」
「そうね」
カエはランタンを眺め、口を閉ざしてしまった。代わりに薬売りが口を開く。
「先の軍人はお知り合いで?」
カエは目を閉じる。
反応はそれだけだった。
「女性は、貴女のお姉さん、ですね?」
「何故、そうだと」
今度は目を見開く。その瞳に、橙に染まった薬売りが映っていた。
薬売りが似ていたのだと告げれば、そうですか。と言って俯いた。
「彼らを成仏、させたくはないのですか?」
「無理に成仏させるのは相手にとって苦痛でしょう」
「苦しませたく、ないと?」
「そんな偽善な事は言いません。これは、私の罪なのです」
「罪?」
「えぇ」
カエは薬売りを見た。変わらず橙に染まる薬売りが瞳に映し出されている。
「此処は夢なのかしら」
「えぇ、夢です。ですから、貴女が過去を語ったとて、何も恐れる必要はありません」
「……」
自分を抱くように腕を体に巻き付けるカエ。
それは自己防衛。
まだ話すか話さないか、迷っている合図だ。
薬売りは事の有様を知りたかった。
心の有様を知りたかった。
そのためには、カエの口を割らせなくてはならない。
「話さなければ」
薬売りが淡々と言葉を紡ぐ。
「夢は覚めませんぜ」
カシャン、と鬼が音を奏で、カエの瞳の中の炎が揺らいだ。
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