モノノ怪 日蝕 | ナノ
蝕
進みだした私達の耳に銃声が響いた。
その音はとても近く感じたけれど、先導者は歩みを止めない。
それは、私たちが狙われる距離ではないという事。
悲鳴が聞こえた。
次は獲物を追い込んで遊ぶように連射されている。
悲鳴と交ざって、笑い声が聞こえた。
彼等は、猟を楽しんでいるのだ。
ごうごうと風が唸る。雨戸をバシバシと叩くのは大きな雨粒だと想像に難くない。
とても眠れる音ではない。
ならば誰かと酒を片手に談笑して過ごすかと考えたのは一体この宿に何人居るのだろう。しかし、考えただけで誰も動く気配が無い。
折角民宿に居るというのに、気楽に嘘も真も舌に乗せて話が出来る者達が居るというのに、誰一人部屋から出なかった。部屋から出るどころか、ある者は布団に頭まで隠してしまう。
それは、恐ろしい雨音が空爆を思い起こさせるからかもしれない。
誰もがもう戦争の傷など癒えて生きているのだと云う面構えだが、その実、何も癒されてはいないのだった。虚勢を張っていなければ過去から動けないために、皆平気な顔を繕っているだけ。一人の夜ほど、過去が這い寄ってくる時間はない。
その頃、鬱蒼とした森と同化するように存在する豪邸は慌ただしかった。カエの母親が急激な気圧の変化か、はたまた空爆の悪夢に囚われたか、体調を悪くした。
体調を悪くした、と生温い言い方は好ましくないだろう。彼女は高熱を出し、少しでも水分を摂らせようとすれば吐き、焦点も合っていない。
このままでは死んでしまいます、と女中は泣いた。
しかし、主治医は居ない。
戦争の傷跡を修復するために、明日の夜まで帰ってこないと聞いている。それまで宜しく頼んだよ、カエ君。という柔らかい声音をカエが聞いたのは昨日の朝だった。
ベッドに伏した母をただ見守る事しか出来ないカエは己の腑甲斐なさを耐えるように拳を握り、険しい表情で、母の手を握って床に膝をつきながら俯きさめざめと泣く女中を見る。
女中に近付き、床に膝をついて目線の高さを同じにしたカエは、労るように女中の肩に優しく手を置いた。女中が涙でぐしゃぐしゃになった顔を向けると、カエは笑顔を見せて、口を開く。
「お母様を見ていてちょうだい。少し落ち着いたら塩を含ませた水を少量ずつ飲ませ、タオルをこまめに変えること。出来るわね?」
子供に語り掛けるような口調だった。子供をあやすような口調だった。
女中は頷いて、カエは乱れた女中の髪を一度梳くと立ち上がった。
「お嬢様、何処へ」
「薬売りを呼びに行くわ」
「こんな嵐の中行くなんて無謀です!」
「でもこのままではお母様が危ない。それは貴女も分かっているはずよ」
「ですが」
「大丈夫、私は貴女よりは夜目が利くわ。お母様を頼むわよ」
言葉だけを残して、カエは乗馬具を置いた部屋を開く。この部屋は乗馬をしなくなった為に使わなくなってかなりの歳月が経つが、中は黴の臭いも無かった。
改めてカエは女中の働きに気付かされ、小さく笑んだ。
合羽を取って羽織り、裏庭に出る。合羽を着て正解だった、と思った。
木はしなり、雨は合羽越しにカエの身体を叩きつける。
風に倒れそうになる身体。利かない片足を引きずるように、カエは前へ前へと進んだ。
近くに馬小屋があるのだ。足を悪くしても馬の世話だけは欠かさずカエが行っていた為、馬もカエの特徴ある足音を耳にしてヒヒイと声をあげた。
カエは愛馬の前に来てその顔を一撫ですると柵を外し、手綱を引いて正面の道まで出る。そして手綱以外は何もつけていない裸馬の首にしがみついたカエは、悪い足をものともせずに器用に馬に乗った。
その身のこなしから、足を悪くする前までは運動能力の高い娘だったのだと知れる。
カエは手綱を握り、馬の腹を蹴った。雨降りしきり風が唸る闇の道を白馬が泥水を跳ねさせながら疾走する。カエは裸馬に乗っているというのに振り下ろされもせず、まるで馴れているというように軽やかに馬を扱っていた。
薬売りが訪問した際、カエの母親は薬売りの宿泊先を聞いていた。それをカエに告げたのは、雨が降り始めた時分。
もしかすると、薬売りに宿泊先を訊いた時から、体調が崩れるのを予期していたのかもしれない。
此処から薬売りの元まではそう遠くない。カエは闇夜の世界の中、頭の中で必死に地図を描いて走る。手綱を握る指は力を込めすぎて色を無くしていたが、それに気付く者は誰一人として居なかった。
薬売りは雨戸を開けてガラス窓を叩く雨粒をただただ眺めていた。眠るつもりが無いのか、その服装は昼間と変わらない。
唸る風と雨粒の音が耳を常に犯し、かすかな音には気付かなくさせる。そのせいだろう、馬の走る音に薬売りは気付かなかった。
二階に居る薬売りは目蓋を閉じ、そろそろ寝巻になろうか、そんなことを考えていた。
しかし、そんな考えは騒音で掻き消える。
一階が何やら騒がしい。誰かが来たようだ。
おおよそ、この嵐に困った旅人が泊めてくれと来たのだろう。そう、薬売りは勘違いをしていた。
「薬売り!」
一階から、大きな声がした。
夜の民宿だというのをお構いなしの大きな声は、迷子が出すような声だった。薬売りは驚きもせず、割り当てられた部屋から出て一階へと向かう。
そこには民宿の経営者である夫婦と、合羽を羽織ってはいるが顔や手足がびしょびしょに濡れ、前髪が顔に張りついているカエが居た。
「カエさん、こんばんは」
「母が体調を崩しました」
「それは、大変だ」
薬売りは悠長に言葉を紡ぐ。カエは拳を握っただけで、表情は変えなかった。
「母の主治医は今、他の地へ行っています」
「それは困った、困った」
「私には、母の具合を良くする知識がありません」
「普通は、皆、そうですよ」
のらりくらりとした会話に、カエは唇を噛んだ。
「こんな嵐の夜に、無理を承知で言います。母を診に来てください」
カエは頭を下げた。
戦争が終わって以降、人間らしさもなく、人を見下げた態度を取っていたカエのその行動を見た民宿の夫婦は、驚いて互いに顔を見合わせている。
「私には、頼れる人が、貴方しかいないのです」
頭を下げたまま、そう呟いた声は風と雨の音に掻き消されそうな程か細くて、薬売りは口元だけで微かに笑った。
「行きましょう」
薬売りのその言葉に、カエは頭を上げた。
安堵したのか、ほぅと息を吐く。
「どうやって行くんだい?」
そう問うたのは、民宿の女将だった。カエは馬が一頭、と言う。
女将が少し外に顔を出して見れば裸馬が嵐の中に一頭居るだけで、あれまっ!と大きな声を出した。
「こんな嵐の中を裸馬で駆けてきたっていうんですか!危ないことをしなさって!」
「他に足が無かったもので」
カエがそう告げれば、女将は旦那に車を持っている客を連れてくるよう指示を出した。旦那は任せろと言って階段を駆け上がり、程なくして細面の男を一人連れて一階に降りてきた。
寝巻姿ではあるが、顔には眠たげな様子が無い。
「俺の車、四人しか乗れないですよ」
「構いませんよ。あの兄さんとお嬢さんを乗せて欲しいんです」
細面の男は薬売りとカエを見て何事かを悟ったのか、サンダルを履くと車を店先に持ってくるとだけ言って出て行った。
カエの合羽を女将は預かると言った。確かに水浸しの合羽を着たまま車に乗るわけにはいかない。馬も小屋に入れると言ってくれたので、カエは安堵の表情を見せた。
合羽を女将に渡してすぐにガルン、と燃費の悪いエンジン音が聞こえる。カエは何も言わずに、ただただ慈悲深い夫婦に頭を深く下げて、車に向かった。
薬売りも車に飛び乗る。細面の男が行き先を教えてくださいね、と斜め後ろに居るカエに言った。
カエははい、と返事を返して、道案内をする。
ワイパーがカコン、カコン、と一定の感覚で音を奏で、車を叩く雨粒が不規則な音を作っていた。その時間は実に奇妙なものだった。
男は重苦しい空気に気を遣いやたらと喋るのだが、カエは相槌も適当に道案内を、薬売りに到っては口を開きもしない。
薬売りは隣に座るカエをチラリと見る。座席の上に置かれた手は柔らかなクッションを握ってカタカタと震えていた。
最初寒いのかと思ったが、その表情は別の何かを述べていた。カエは怖いのだ。帰った時に母親がどうなっているのか、怖くてたまらない。
間に合わなかったらどうしよう。そんな気持ちがあるのかもしれない。
日向邸に着くと、運転手に感謝を述べたカエは直ぐに車を降りた。正門の閂を外して、薬売りを招く。
薬売りも男に感謝を言うと車から降りた。それだけで身体がすぐに濡れる。
「玄関の鍵です、先に」
正門にしがみついているカエは家の鍵を薬売りに渡す。
「貴女は」
「私は歩みが遅いのです」
馬に乗って疾走してきたカエの膝は限界なのだ。
自分を置いて早く行けと言うカエに、薬売りは一言失礼、とだけ言って抱き上げる。カエが驚きに身体を緊張させているうちに、薬売りはそのまま玄関まで走った。
高下駄だからか、泥は服を汚しはしない。
薬売りが走れば十秒程で辿り着いた玄関。カエを抱えたまま器用に鍵を開けて、雨風から逃れるように家の中へ滑り込んだ。
抱き抱えられた状態から下ろされたカエは、膝にグッと力を入れて自立を確保する。
玄関の音が聞こえたのか、二階の一室から女中が出てきてお嬢様!と安堵の色を滲ませた声を上げた。
「母の部屋はあそこです」
カエはそれだけを言って、玄関を施錠する。自分はついていかないと、そうびしょ濡れの背中が言っていた。薬売りは病人が寝ている部屋へと足を向けた。
一人用にしては大きなベッドに横たわる小さな身体。熱によって上気した頬、荒い呼吸。薬売りは漢方などを煎じて様態緩和を行う薬師であって、病状を診る医師ではない。
それでも老婆が危険な状態であると一目で分かった。過去の経験と書物より得た知識を活用して薬を煎じていると、片足を引きずりながらカエが部屋に訪れた。その手にはタオルと着替えがあった。
「此方に置いておきます」
濡れたまま調合している薬売りにカエはそれだけを告げた。薬売りはカエを見る。カエは肩にタオルこそ掛けているが濡れたままで、前髪は額に張りついたままだ。
「カエさん」
カエは弱り切った母親に向けていた視線をずらし、薬売りを見た。その表情が母親は大丈夫なのかと、心配でたまらないのだと言っているが、薬売りは大丈夫だ、等とは気休めにも言えなかった。
それを理解しているカエも、不安を口に出さなかった。
窓ガラスを叩く雨粒の音と、風の唸り声が部屋を満たし、冷気を誘う。
「湯に入り、しっかり温まって、寝て下さい」
それがあなたの仕事です。
そう告げれば、カエは役立たずという意味と解釈したのだろう。眉を下げて、喉元まで出かかった言葉を飲み込んで、擦れた声で分かりました、とだけ言った。
「あなたの部屋も用意しています。どうぞ、休んで下さい」
「では、薬を調合して、飲ませたら」
「はい」
カエは片足を相変わらず引きずりながら、部屋を出て行った。薬売りは調合した薬をやつれた老婆に飲ませると、カエが持ってきたタオルで体を拭う。
着替えはそのまま、手を付けない。
薬売りの着ている着物は確かに大粒の雨に打たれて水を含み重たくなっていたが、今はどういう訳か、乾いている。短時間で乾燥するはずはなく、また何かをした訳でもないのに乾いていた。
薬売りは荷から奇妙な刀を出す。
鬼の面が彫られ、宝石を散りばめたそれを薬売りが一撫ですると、鬼の面は口を動かし、カチャカチャと金属がぶつかるような音を奏でた。
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