モノノ怪 日蝕 | ナノ
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伸ばした手は空を掴んだ。
数歩後ろに下がればその人の背中に触れられて、その着物を少しでも掴めただろう。
そうすれば、その人は歩みを止めて振り返ってくれたかもしれない。
けれど手は何も掴まずに元の位置に戻って、その人は前へ前へと歩んでいってしまう。
見えなくなるまで見送る事しか出来ない己の身を、呪った。
敗戦で荒れた世界は色など失い、瓦礫と焼け爛れた大地だけが存在していた。
日々を食い繋ぐ物が無い為に盗みも当然のように起こるモノクロームの世界では誰もが疲れた表情を浮かべ、絶望の淵に立たされていた。
運良く空襲を免れた田舎も、働き手が戦争で駆り出されたことにより農地は手入れが行き届かずに荒れている。
そんな敗戦国、大日本帝国に、不釣り合いな人物が居た。派手な着物に身を包んだ行商人である。
本人は薬売りだと名乗り、その名の通り薬を売って各地を行脚していた。
「困窮な生活をしていてね、薬は欲しいが、金が無いんだ」
そう言ったのは、薬売りを玄関先に招き入れて話をしていた男だった。痩せこけた頬に落ち窪んだ瞳は、男を実年齢より随分と老いて見せていることだろう。
「それは、それは」
「悪いね」
「いえ」
薬売りは広げた荷を片付ける。それを見ていた男はもう一度悪いね、と口にするが、その謝罪は薄暗い玄関の四方へ拡散し、谺するほどの力も無かったのか壁に吸い込まれて消えた。
「そう云えば」
そう、薬売りは呟いた。
「此処から少し離れた、森の奥にある、西洋風の建物は、誰の物ですか?」
「ああ、そりゃあ、お前さん。日向様のお屋敷だ」
「日向?」
「行商人だから知らねぇみたいだな。日向様は将軍様だ」
「将軍、ですか」
「戦死なさったがな」
「今は誰が、住んでいるんで?」
男はしつこく訊ねてくる薬売りに不信感を抱いたのだろう、眉間に皺を寄せて薬売りをじとりとねめつける。しかし薬売りは態度を崩さなかった。元より服装も変わっているのだ。疑われ慣れているのか、男がどのような表情をしても堪える事はない。
「あのお屋敷なら薬が売れると思っているならやめときな。あそこは決まった医者からしか薬を受け取らない」
「やってみなければ、分かりませんから」
「いいや、分かっているんだ。忠告だよ、お前さん。あそこは立ち寄る場所じゃない」
「何故?」
薬売りは愉快そうに少し目を細めたが、男はそれに気付かず、苛立ちを示すように乱雑に頭を掻く。
少しの間の後、男は少し声を低くして、こう言った。
「近所を悪くは言いたかないがね、あそこにはキチガイが住んでんだ。だから、誰も寄り付きゃしねぇ」
「キチガイ、ですか」
「人間嫌いのキチガイだ。日向様はそりゃあ立派な方だったが、その二番目のご子女はからっきし駄目だ」
「一人で、住んでいるんで?」
「いいや。奥様と住んでいる」
「なる、ほど」
男は顎に手をやって少し考える素振りを見せて、それから荷を背負って立ち上がった。
「近くに宿は、ありますか?」
「宿なら左へ三件行ったところのお向かいだ」
「ありがとう、御座います」
薬売りはどんよりと曇った空の下に出て、宿のある方角へと足を進めた。宿に宿泊を願い出て、通された部屋に大きな背荷物を下ろすと必要な物だけを風呂敷に包む。
風呂敷を持って、変わらず重たい空の下へと歩みだした。進む先には森があり、先ほど話で出たキチガイで人間嫌いが住むという洋館がある。
そこまで大きくない屋敷は、西洋の建築技術をふんだんに使用したのだと一目で知れるものだった。
薬売りは自分の姿と不釣り合いな館の前で歩みを止めて、館を見上げる。森の中に存在する洋館は、曇天の下では不気味の一言だった。
その不気味さに拍車を掛けるように正門には錆びた鎖がつき、閂までされている。
薬売りは鎖に触れて、口の端を少し上げた。
城壁のように高いコンクリイトの壁が家を外敵から守っているので、正門が堅く閉ざされている今、家の玄関を叩く事すら出来ない。薬売りは門越しに庭を見るが人の姿は一切無く、正門を開けてもらうのも不可能な様子だった。
薬売りは何を思ったのか、いつ雨が降ってもおかしくない空模様だというのに森の中に足を踏み入れ、奥へ奥へと進む蔦が絡む壁に沿って歩いていると、裏へ来たところで小さな扉を見つけた。
ドアノブに触れると鍵が掛かっておらず、少し押すだけでギィと錆びた音を鳴らしてあっさりと開いた。少し小さく作られた扉なので、薬売りは屈んで庭に入る。
勝手に入った裏庭には西洋から運ばれてきたのだろう、日本では見ない花々が咲き誇っていた。
「きゃあっ!」
花を見ていた薬売りの耳に、女特有の甲高い声が響く。薬売りが振り返れば裏口に娘が立っていた。
割烹着を着た、若い娘である。
「何処から入ったんですか!勝手に入られたら困ります!」
「花の良い香りがしていたので、誘われて、来ちまいました」
薬売りは指先で花に触れた。その姿は雅で、割烹着姿の娘は薬売りに魅入ってしまいそうになるが、娘は何事かに気付いたようで慌てて口を開いた。
「早く出ていって下さい!お嬢様にバレたら私が叱られます!」
「もう、遅いみたいですぜ」
薬売りが洋館を見上げると、二階の窓には人影。ガラス越しに見下ろす顔は無表情で、建物と同じように冷たそうであった。
「カエお嬢様!」
割烹着の娘は恐ろしいものでも見たかのように顔色を悪くした。
カエと呼ばれた妙齢の女性は窓を開ける。
「カエお嬢様、申し訳御座いません!すぐに追い出しますから!」
「そう急がなくても良いわ。貴女がいつもゴミ捨ての際、鍵を締めずに行く事は知っていたから」
抑揚無く告げられる言葉たちに、割烹着の娘は泣きそうに顔を歪めた。カエは窓の縁に手を添えて、薬売りを見下ろす。
「どなたかは存じませんが、降りずに此処から話す事をお許し下さい。今日は調子が良くないもので」
つらつらと薬台本の台詞のように発せられる言葉たちに売りは少し笑った。
「体調が悪いのでしたら、良い薬が、ありますぜ」
「貴方が薬を?薬売りならば、薬箱を背負っていらっしゃるはずですが」
薬売りという商人ならば大きな木箱を背負い、薬を売り歩いている。しかし庭にいる薬売りと名乗る男は木箱を背負っておらず、派手な着物を身に纏い、顔には隈取りをしている。カエは胡散臭い者を見るように、男を見下ろした。
「荷は宿に、置いてきました」
「それでは信用に足りません。どうぞお帰りになって」
「足が、悪いのでしょう?」
薬売りの発言にカエは驚いた表情を浮かべた。それは薬売りの言った事が当たりだという証拠である。
カエは唇を引き結び、薬売りを見下ろした。
「私の身体の具合をどなたからお聞きになったのかは存じませんが、私には掛かり付けの医師がおります。貴方に診て頂かなくて結構です。お帰り下さい」
それだけを告げてカエは窓を閉めた。片足に難があるのだろう、背を向けて去る際に頭がひょこひょこと上下していた。
「済みません、お兄さん。出ていっていただけますか?これ以上此処に居られては、カエお嬢様の機嫌が更に悪くなってしまいます。そうなったら私はクビです」
仕事の無い時代、仕事に有り付けるのは有り難い事である。だからこそ、雇い主の機嫌を損ねて次の働き口も見つからずに解雇されたら困るのだ。
「帰る前に、一つ、お尋ねをしたいのですが」
「何ですか?」
割烹着の娘は薬売りに早く出て行って欲しいのだろう、早口で問い返した。
「彼女は人間嫌いの、キチガイ、ですか?」
割烹着の娘はポカンと間抜けな面をした後、憤慨した様子で壁に立て掛けてあった箒を手に持つと薙刀のように構えた。
「カエお嬢様を侮辱するのは許しません!出ていって!」
顔を怒りに赤くした娘が箒を振る。薬売りは箒を避けながら、実に楽しげに笑った。
「また、来ます」
「次は鍵を掛けていますからね!」
箒を避けているとそのまま裏口に追いやられる。薬売りは小さな扉を屈んで、外に出るとすぐに大きな音を立てて扉が閉ざされて、次いで、施錠される。
音風が吹き、森の木々が葉を擦れ合わせて音を奏でた。空は変わらず曇天で、今にも大きな雨粒が降りそうである。
薬売りは洋館を見上げて、そして、帰路についた。
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