モノノ怪 日蝕 | ナノ
日
暗い道だった。
綱にしがみついて道無き道を歩く。
どれだけこの綱を持つ他者を恨み殺意を抱こうと、綱を放せば己の身に降りかかるのは地獄であると知っているので、この綱を手放せる訳がない。
声も無く、息も殺して歩く。歩く。歩く。
気が、狂いそうだった。
そして私の後ろに居る女は狂ってしまったのだろう。
綱から手を、離した。
夜、薬売りは人が集まり口が緩くなる場に居た。詰まる所、酒のある席、居酒屋である。
酒好きの近所の翁から、ごろつきまで多種多様な人種が集まる場所は情報の倉庫と言えるだろう。
「見ない兄ちゃんだな、誰だあんた」
騒がしい空間で、薬売りに声をかけたのはごろつきと呼ばれる部類の人物であった。赤ら顔で酒がなみなみと入った杯を持っている。足元が少し妖しいところを見ると、だいぶ酔いが回っているらしい。
絡み酒だろうか。
薬売りは笑みを崩さないままに、自分は薬売りだと言った。
「へぇ、売薬さんかい。いや、懐かしいねぇ。戦前はオレっちも世話になったんだぜ。赤い箱が家にあってなぁ」
男は薬売りの近くに腰を下ろし、望郷の思いで遠くを見ていた。戦争で家を失ったのだろう男は、今のこの状況に何を思うのだろう。見れば、笑みを落として酒の水面を眺める姿は年甲斐もなく幼い顔をしていた。
「あぁ、いけねぇ。感傷に浸っちまった」
男は頭を掻いて、照れ臭いというように笑う。
精一杯の強がりを、薬売りは黙って朗らかな笑みのまま見つめる。
戦争で傷を負った者達は過去の傷を舐めあう事はせずに、今を生きる姿勢の者達が多い。感傷に浸っても何も生まれはしない、生きる為には現状を理解して身の処し方を考えなければならない。
その事を理解している者が此処には集まっているのだ。
「派手な着物だな、お前」
地元の者だろう、数人の男が寄ってくる。
「何の仕事やってんだ?俺等にも紹介してくれよ」
「この兄ちゃんは、売薬さんだよ。お前等、他の奴ら相手みたいに狩るなよ」
赤ら顔の男が数人の男に薬売りを紹介する。語尾を強めた赤ら顔の男の口調に、周りの男たちは怯んで分かっているよと言った。
ごろつきのまとめ役は、どうやら赤ら顔の男らしい。
赤ら顔の男は記憶の中に残る薬の事を色々と訊ねて、過去の出来事と繋げる事を楽しんだ。今だけは、酒を片手に過去を懐かしむ事にしたらしい。
よく森に入っては怪我をして帰って、薬を使うのは勿体ないからと母親がよもぎを煎じて傷口に塗ってくれたのだと、痩せて落ち窪んだ瞳を輝かせて言った。
「森、ですか?」
「そうそう、奥にある森だよ。そこにゃ洋館があってな、高い塀で囲まれてるんで、木に登ってよく覗いてたんだ」
「日向様の、ご自宅、でしたね」
「いや、兄ちゃん、そりゃぁ違う。あそこは別荘だ」
「別荘?」
「自宅が空襲で焼かれて、カエ嬢は別荘暮らしだ」
赤ら顔の男は口元軽く、笑いながら言った。
「そのカエ嬢、という方は、どういう方で?」
「何だ兄ちゃん、令嬢に興味あんのか?やめときな、あんたの手にゃぁ負えないよ」
「どうしてそう、思いますか?」
男は芝居がかった様子で肩を竦めてみせた。
しかし男は黙秘するつもりは毛頭無いらしく、また口を開く。
「不自由なく生きている人ってぇのは、小さな石にも蹴躓いて、大怪我しちまうもんなんだ」
「と、言いますと?」
薬売りの問い掛けに赤ら顔の男はニヤリと笑った。まるで魚が釣れたような、そんな満足気な表情である。
「戦争で許婚がおっちんじまったんだよ。何千と戦争で家族や許婚や友人を亡くした人は居て、それでもそいつ等は頑張って生きてる。だがな、カエ嬢は俺ら雑草と違って一回踏まれただけで枯れちまう植物だったんだ。だからたった一回の衝撃で心が挫けちまった」
黙って耳を傾けていた薬売りは、嘲るように笑って酒を呷る男に目を細めた。
「他にも、何かあるのでは、ないですか?」
その問い掛けに男は片眉を上げた。杯を机に置いて、薬売りをじとりと睨む。
「兄ちゃん、綺麗な顔して何考えてんだい?」
「何も」
「本気でカエ嬢を落とすつもりか?」
「俺はただの、薬売り、ですよ。カエ嬢とやらに、薬を売りに行くならば、事前に少し情報が欲しい、というだけです」
「ハッ!仕事熱心なこったな!じゃあ話してやるが、カエ嬢はな、満州にお姉さんと行ってたった一人で帰ってきたんだ。俺も徴兵されてたから何があったかは知らねぇが、それからは家に籠もりきり。昔は愛想の良い可愛い嬢ちゃんだったんだがな。今じゃあ許婚が死んだ事と、満州での出来事のダブルパンチでキチガイだ」
「満州に……」
薬売りは小さく呟いた。赤ら顔の男は、何だ疑っているのかと突っ掛かったが、薬売りは笑みを返すだけで言葉は返さなかった。
しかし酒の席である為に男は自分に都合の良い解釈をして、また笑顔に戻る。
薬売りは赤ら顔の男に一杯の酒を奢って、席を立った。
「何だ、行っちまうのか」
「はい」
「またな、売薬さん」
居酒屋を出た薬売りは空を見上げる。
相変わらずの曇天で、月すら見えない夜だった。
翌朝の空は、昨日の鉛色とは異なって鮮やかな青が広がっていた。日向カエは鎖と閂を外した正門に立ち、落ち着かないのだろう、手櫛で髪を梳いたり爪先で地面を掘ったりして時間を潰している。
遠くからエンジンの奏でる音がして、カエはパッと顔を上げた。黒い排気ガスを撒き散らして走る車に乗っているのは二人の男。カエは怯えた表情を浮かべ、しかし車が近づくにつれて表情を引き締めた。
「ご機嫌麗しく、カエちゃん」
髭を生やして質の良い衣類を身に纏った男二人は、互いに四十過ぎに見える。カエも頭を下げながら挨拶をした。
男は人が好みそうな笑みを浮かべて、カエに大きな茶封筒を幾つか渡す。それは一つ一つが厚く、カエは困惑気味に俯いて目を伏せた。
「良い返事を待っているよ」
一人の男がカエの肩を叩く。カエは何事も言わず、礼を示すように頭を下げるだけだった。上流階級の男二人は車に乗るとまた黒いガスを吐き捨てて去っていった。
男たちはカエに声が届かないところまで来ると、溜め息を吐いて肩を回す。
「まったく、日向さんも嫌な遺言を残したものだ」
「さっさと何処かに嫁いでくれませんかねぇ」
男二人はカエの父と親しい間柄で、カエの父親は自分に何かあった時はカエを頼むと言い残していた。カエを見捨てるのも後味が悪いと、二人は見合い写真を持って行ってはカエにそろそろ身を固めてはどうかと持ちかけている。しかしカエは断り続け、あの洋館にひっそりと身を潜めているのであるから、二人にとっては目の上のたんこぶだ。
カエは車が完全に見えなくなると、埃を払うように肩を叩いた。
その肩は先程、父の友人である男が触れた場所である。
見合い写真の入った茶封筒を持つ指先は力の入れ過ぎで色を失っている。
口を一文字に引き結んで去った場所を睨むその姿は、まるで敵と対峙した時のようだ。
「こんにちは」
後ろからかかった声にカエは驚いた様子で振り返る。
そこには昨日曇天の下にいた、自称『薬売り』が居た。
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