「綾瀬先輩!」
語尾にハートでも付いてそうなくらい甘えた声で名前を呼ばれた。振り返ろうとする前に後ろから抱き着かれ、体勢を崩して危うく転びそうになってしまう。
「おっと、大丈夫っスか?」
「…お前な、いきなり抱き着いてくんなよ」
「恥ずかしい?」
「ちげーよ、馬鹿」
抱き着いてきたのは一つ下の後輩で、野球部に所属している御幸一也だった。コツンと軽く額を小突いてやれば、御幸は笑いながら俺から離れる。
「危ないからやめろっつってんの」
「あ、いきなりじゃなきゃいいわけ?」
「何でそうなるんだよ…野郎に抱き着いて楽しいのか?」
「そりゃあ楽しいですよ。綾瀬先輩限定ですけどね!」
御幸は「先輩以外の野郎相手に抱き着くなんてお断りっスよ〜」と言ってるが、俺と他の野郎では何が違うのだろうか。俺は可愛らしい顔立ちもしていなければ、小柄なわけでもない。おまけに身体はそこそこ鍛えてるし、抱き心地なんて良くないだろう。抱き着きたくなる要素なんて全くないはずだけどな…。そんな事を思っていたのが顔に出てしまったらしい。御幸は小さく溜め息を吐いて肩をすくめてみせた。
「やっぱ、綾瀬先輩ってすげェ鈍感だわ」
「は? 何が」
「こんなにもアプローチしてんのに、全然気付いてくれねーじゃんか」
「アプローチ、って…お前、何言って…」
「あ、分かんない? …こういう事っスよ」
御幸は意地の悪い笑みを浮かべた後、俺の腰に腕を回して自分の方へと引き寄せた。咄嗟に離れようとしたけれど、御幸は"逃がさない"と言わんばかりに俺の後頭部にも手を回した。"ちょっと待て"と喉まで出かかった言葉は、御幸に口を塞がれたせいでそのまま飲み込まれてしまう。
「ん、ぅ…っ!」
御幸のかけているメガネのフレームが俺の顔に当たる。でもそんな事は気にならなかった。それより、何で俺はこいつにキスされてんだよ…! 我に返った俺は御幸を突き飛ばし、口元を制服の袖で拭った。御幸はニヤニヤと口元を歪めて笑いながら、メガネを指で押し上げる。
「お、前…っ!」
「少しは意識してくれました?」
「ふざけんな! 学校でこんな事するとか、何考えてんだよ!」
「周りには誰も居ませんって。ま、別に俺は見せつけてもいいんスけどね?」
そう話す御幸の目は本気だった。待てよ、いきなりこんな事をされてこっちは混乱してんだよ。つまり、何だ…こいつは俺の事が好きだとでも言いたいのか? …それで何でキスしてきたんだよ、もっと他にあるだろうが最初にしなきゃならない事が!
「それじゃ、先輩。返事はゆっくり考えてもらってからでいいんで――」
「おい、待てよ。…やり直せ」
帰ろうとしていた御幸の腕を掴んで引き止め、睨み付けるようにそう言ってやる。それまでニヤニヤと笑っていた御幸は驚いたように目を丸くしていた。キスだけして満足したように帰ろうとしてんなよ…返事って何の返事だ、俺はお前に返事をしなければならない事なんて言われてないだろうが。
「は…? せ、先輩? やり直せって…」
「俺の事を鈍感だの自分はアプローチしてただの言ってたけどよ、お前は俺に気持ちを伝えた事が一度でもあったか? 返事が欲しいならちゃんと言葉で伝えろよ」
「えっ、い、いや〜…それは…」
さっきまでの余裕そうな態度をしていた御幸は何処へ行ってしまったのか。目を泳がせながら口ごもり、御幸は俺から逃げようと後退る。でも残念ながら俺に腕を掴まれているから逃げれないぞ。
「何だよ、言えないのか? 抱き着いたりキスしたりは平気でしてきたくせに」
「分かりましたよ、言えばいいんでしょ。お…俺は、先輩の事が――」
「あ、ちなみに俺はお前の事好きじゃないからな」
「す…えっ、先輩このタイミングでそういう事言う!?」
「付き合ってもないのにキスしてくる奴なんか嫌だっての。そういう順序守らない奴は嫌い」
「…順序守ったら可能性あったりします?」
「さあな」
意地が悪いかもしれないけど、恋愛感情なんて抱いてない同性相手に唇を無理矢理奪われたんだ。このくらいの意地悪はしても構わないだろ? 「ほら、返事が欲しいならさっさと伝えろよ」と急かせば、御幸は「…俺は先輩が好きです!」と自棄になったように伝えてきた。遠回しにアプローチせずに最初からそうやってちゃんと伝えろっての、この馬鹿。
(悪いけど俺は御幸に対してまだそういう感情抱いてないから、ごめんなさい)
(期待させといて結局フるんじゃねーか! …って、"まだ"? え、もしかしてチャンスある?)
(分かりにくいアプローチしてないで、今後はちゃんと直球で勝負しろよな。…そしたら答えてやらなくもない、かもな)
(…あーもう、先輩のそういうとこ好き!)
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ダイヤのAで御幸夢
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