コロコロと少しずつ大きくなる音に顔を上げると、大きなスーツケースを連れて現れた幼馴染。ほんの少し前まで、私の恋人だった人。
「おはよう。ちゃんと眠れた?目の下ひどいよ」
「飛行機の中で寝るからいいんですー」
そっぽを向いて口を尖らせる徹も見納めかと思うと、見飽きた表情さえ愛おしくなるから不思議だ。ゆっくりとした動作で隣に座った彼に、ゆっくりと息を吐き出して覚悟を決める。
「これ、やっぱり徹が持っててよ」
長かった幼馴染としての関係を抜け、初めて恋人になった日。誕生日プレゼントとしてもらった、ネックレス。これがあると、私は徹に縛られてしまう。新しい出会いも、その先の恋も、徹を引きずって前に進めなくなる。
「いらなくなったら、捨てていいから」
大きな手のひらの上で、小さく光るシルバーリング。大人になったら本物を指に嵌めさせてって、約束したのにね。
「そんな顔しないでよ、フラれたの私だよ?」
インターハイ予選で負けて、引退して。これまでほとんどできなかったデートも、回数が増えた。もちろん一生バレーを続けていくであろうこの男は、努力を欠かすことはないし、大学生や社会人チームに混じって練習を続けていた。知名度はなくとも、それなりに大学からは声がかかって引く手数多だった。どの選択肢を選んでも、遠距離になることは覚悟してたのに。
「たった12時間の時差なんでしょ?一日中飛行機乗ってれば、帰ってこれる距離なんでしょ?」
部活を引退して、妙に優しくなった徹に違和感は感じていた。急に増えたスキンシップ、たまにみせる物悲しい表情、なにかを言いかけては、やっぱりいいとそっぽを向いた。三年になって本格化した進路の話をすると、下手な誤魔化しが増えた。極めつけはもう一人の幼馴染が発した「お前、まだ言ってねえの?」の一言。ひどい焦りようで岩ちゃんだけを引っ張って走って、少し離れた先で言い訳を繰り返す姿に、徹が離れていくことを察した。
「ナマエ、俺さ・・・。ずっと言わなきゃって」
「いつ?」
「え」
「出発の日」
言わなくても分かるよ、何年隣にいると思ってるの?
バレーをする徹の側には、いつも岩ちゃんがいた。そしてそんな二人の側に、私がいた。圧倒的な才能を持った後輩が現れた日も、王者に敗れた日も、高校最後の大会で悔しい思いをした日も・・・。いつだって、どんな時だって、あなたの隣でみてきた。
「泣かないでよ」
私の方がずっとずっと、悲しいんだよ。でも笑ってるのも、なんか変だよね。あれかな、正式に一度別れようって決まって、永遠のお別れみたいに二人で涙ぼろぼろ流して、泣いたから。肝心の本番では涙が出てくれないのかな。私は別れたくなかった。遠距離でいいから、例えいくつもの国境を超える距離だろうと、恋人でいたかった。
「眠る前に電話していいよ、私早起き得意だし。徹が向こうの生活に慣れたら、遊びに行く。バイト頑張ってお金貯める」
せっかくのイケメンが台無しになるくらい、顔をぐちゃぐちゃにして泣く徹が愛おしい。愛おしくて仕方がない。私も心にないこと言ってないで、あの日みたいに感情むき出しで泣いてしまいたい。
「ほら、そんな顔してたらみんなに笑われるよ?」
国内線に比べて安全ルールがより厳しい国際線は、搭乗時刻に余裕を持って検査を受けなければならない。多種多様な人が行き交う保安検査所近くのベンチで、「絶対に着いたら連絡して」「ほんとは行ってほしくない」「私のこと忘れないで」なんて、未練たらたらな本音を必死に噛み殺す。
「みんなのとこ、戻ろうか」
徹を見送りにきたのは、当然私だけじゃない。三年間共にバレーに向き合い続けた彼らはもちろん、幼いころからずっと味方だった幼馴染も、徹の家族も。みんなが、笑顔で徹を送り出そうとしている。だから私が泣いて縋るわけにはいかない。
「あっちでナイスバディな彼女できたら、グループトークで自慢してよ?」
一際大きな音と共に吹き出した鼻水に笑いつつ、ポケットティッシュを差し出す。泣いてばっかりだった徹が、鼻をかみながらようやく笑った。ああ、ほんとうにこれが最後だね。
「ナマエこそ、俺以上のイケメンと付き合えると思ってる?」
「なに言ってんの、彼氏くらいすぐできるわよ」
「目玉焼きも焦がすくせに?」
「なっ!れ、練習するわよ!料理だって化粧だって、今よりもずっと上手になってやるんだから」
私も頑張るよ。大学でいっぱい勉強して、アルバイトと両立しながら一人暮らしするんだから。そして、今よりもずっとずっといい女になって、あの時別れなければ良かったって後悔させてやるんだから。
「今よりも魅力的になってどうするの」
言葉と共に頬をすりっとなでる太い指に、必死に堪えた涙が押し寄せる。だめ、絶対に泣かないって決めたんだから。ここまで我慢したんだから、絶対に泣きたくない。
「本当は今すぐこのリングをここに嵌めて、これからナマエが出会う全ての男に『だめだめー!及川さんのですー!』って言いたい」
「またくだらないこと言ってる・・・」
「結構本気だったんだけど」
さっきまで顔をぐちゃぐちゃにして泣いてた男と同一人物だなんて、信じられないくらいスッキリした顔の徹。対照的に嘘ばっかりついたツケは、鉛のように重く心を沈ませた。
「寂しくなったら連絡、してよ」
まるで俺からはしないから、そう言いたげに見つめられて、頷くことができない。ふった側なのだ、そう簡単に連絡できないとか思ってるんだろうけど、私から連絡したら未練があるってバレてしまいそうで。
「徹こそ、泣きながら電話してこないでよ」
「俺はもう大丈夫、泣かない」
こうして会うのも、これで最後。徹の無理して作った笑顔を見るのも、きっと最後。ほら、ハジメちゃんが様子見に来てる。もう行かなきゃ、みんなのとこに。
「これを俺に持っとけって、やっぱナマエだけズルいよね」
「徹が返せって言い出したのに」
「返せとは言ってないじゃん!」
「ふふっ、そうだった?」
話している間、ずっと握り潰されていたシルバーリング。開かれた手のひらで、寂しそうに私を見ている。
「ナマエのこと思い出すの、俺ばっかりになりそう」
そんなことはありえないから安心して。そう思うけど、絶対に言ってやらない。一生バレーに生きて、一生完璧に満足することのない人生を送ったらいいんだ。
「次に徹と会うときには、カッコいい彼氏連れてるかも」
思ってもないことをつらつらと話す口に、心が痛い。私が未練をみせれば、笑って別れることができなくなる。ギリギリのところで本音を堰き止めている防波堤が、決壊してしまうことがなによりも怖い。
「その時は」
さっきまでのふざけた空気は一変、真剣な表情になったかと思えば、ゆっくり近づいてくる整った顔。スローモーションの世界で、軽く触れ合ってすぐに離れる唇。
「全力で奪い返すから」
自信に満ち溢れた顔で、私のウソに上手く騙されたフリをする徹が憎い。あと少しだったのに。このまま、さよならを言ってみんなのとこに合流するつもりだったのに。
「ぜんぜん・・・、寂しくなんか、ないんだから」
「うん」
「向こうで彼女できたら、わたしのおかげだって思って」
「そうだね」
「なんでフラれたか分かんないって電話してこないでよ?もう・・・そんな話聞いてあげないから」
「分かった」
止まらない涙も、鼻水も、全部ぜんぶ、徹の服につけてやる。服がカピカピになって、笑い者になっちゃえばいいんだ。ごめんね、みんな。見送り用に作った横断幕、持てないや。笑顔で送り出す強さは、私にはなかった。
「必ず、連絡する。だから待ってて」
無言で何度も頷くことしかできない私を、徹の二本の大きな腕が強く抱きしめる。洋服越しに伝わる高めの体温も、一定のリズムで背中を叩く手も、心地いい心臓の音も。徹のいない明日からを生きていけるよう、しっかりと記憶に焼き付けた。