小説(HQ)

最悪だ、どうしよう。
気まずい空気から逃げるように部屋を飛び出し、ポケットに入れたままだった鍵で自室へ逃げ帰ったまではよかった。大急ぎで洗濯物を取り込み、誰も当てられなかったパステルピンクのブラジャーとショーツを握りしめながら打ちひしがれる。

スマホを忘れてきた。

私のために木兎さんが走って買ってきてくれたホールケーキ。箱の中で動いたのだろう、少し傾いていたが、気持ちが嬉しかった。蝋燭の火を消す前に写真を撮ろうと、机の上に置いたのがいけなかった。主人に置き去りにされたスマホは、いまどんな気持ちで彼らの会話を聞いているのだろう。
「はぁー・・・。さすがに戻れないよ」
ハンカチは泣く泣く諦められたが、スマホはそうはいかない。電車の定期も入ってるし、キャッシュレスアプリには多めにチャージしたばかり。ロックをかけているとはいえ、中は個人情報の塊なのだ。
すっかり酔いが醒めてしまった今の私は、空も飛べなければ、大笑いしながら隣の部屋へ戻る勇気もない。酔拳の使い手への道は果てしなく遠いのだ。
「・・・誰でもいいから届けて。救世主って呼ぶから、お願い」
随分と静かになった隣の部屋に向かって、手を合わせながら無茶なお願いをしてみる。どうか私の気持ちを察してください、ポストにそっと入れてくれればいいの、多少傷がついても怒らないから。そうすれば今日のことは全部水に流して、何事もなかったかのように明日から振る舞うから。心の中で願いながらしばらく玄関を見つめてみるが、何の音もしない。
我ながらなんと都合のいい考えだろう。自嘲気味に笑いながら、ベッドへダイブする。もういいや、明日考えよう。正直、黒尾さんには一番会いたくない。いい人だって信じてたのに、あれではまるでペテン師だ。大丈夫、なんとかなる。黒尾さんに会わずにスマホだけ回収する方法、きっとある。明日の私、任せた!
根拠のない自信でなんとか自分を納得させ、重たくなった瞼を下ろしかけた時。

短めに鳴ったインターホンが、意識を覚醒させた。救世主が現れた、きっと気づいて届けに来てくれたんだ、この際扉の向こうにいるのは誰だっていい!おかえり、私のスマホ!今迎えに行くよ!
「・・・あっ」
勢いよく玄関へ向かって鍵を開け、扉を開けたまではよかった。いや、その先に立つ相手が赤葦さんだったことも良かった。彼は唯一、自身の意思では色当てに参加せず、なんなら木兎さんを止めようと必死だったのだから。
「え、えっと・・・、すみませんでした」
「なにがですか」
怖い。とても怖い。冷や汗が止まらない。
ただ立っているだけなのに無言の圧を感じ、ひたすら頭を下げる。なにも悪いことはしてないはずなのに、赤葦さん怒ってる。だって数時間前に説教された時と同じ、いや、その時よりも怒ってるかも。
「・・・ハァ。いいですか、ナマエさん。女性の一人暮らしはあなたが考えている以上に危険です」
「はい、存じております」
「ではどうして、ドアスコープを使わずにいきなり出るんですか」
「うっ・・・!」
だって、覗いてたらバレてるぞ!って言われたんだもん。それに、このタイミングならアナタ達三人の誰かかなって確信があったんだもん!それに、インターホンの押し方に配慮を感じたというか、気遣いを感じて、あの三人の中ならきっと赤葦さんかなって、
「俺じゃなかったらどうするんですか」
「ハッ・・・!赤葦さん、もしやエスパー!?」
「顔に出過ぎ」
どうしよう、木兎さんを押さえて一番いい人だと思っていたのに、赤葦さんが手強い。木兎さんはアレだ、いい人だと思ってたのに、下着事件で株は大暴落、黒尾さんは論外の男。大丈夫、赤葦さんは一番話が通じる常識人のハズ。ちゃんと話し合えば和解できる・・・!
「これにはちゃんとワケがあっ・・・」
「木兎さんのこと、嫌いにならないでください」
「へ?」
「すぐに調子に乗るし、悪びれもなく失礼なこと言っちゃう人です。でも」
「あ、あの、大丈夫です。本当にいい人だから、赤葦さんもずっと一緒にいるんですよね」
大学生になってからもよく会う仲なのだ、素直に二人の関係を羨ましいと思った。時には、赤葦さんが木兎さんのお母さんにしか見えないが、私には知り得ない深い絆があるのだろう。
「紙とペン、貸してください」
「えっ、あ、はい」
慌てて靴箱の上に置いてあったペンと、なぜかポケットに入っていた割り箸の袋を差し出す。なにも言わずにサラサラとペンを走らせる赤葦さんからは、もう怒っている空気は感じない。
「黒尾さんになにかされたら、連絡して。話くらいは聞けるから」
くしゃくしゃの痕がついた細長いメモには、アットマークに続くアルファベットと数字の羅列。恐らく通話アプリのIDだろう。一緒に差し出された見慣れたスマホを受け取り、向けられた背中に礼を言う。振り返ることもなく隣の部屋に吸い込まれた赤葦さんに、次会ったときどんな顔をすればいいのか分からなくなった。

また会う約束など、していないのに

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