世界

旅立ちは真夜中だった。
流石にこのご時勢に堂々と昼間に娘を外国へやる姿をみせるわけにはいかないと、真っ暗な船着き場に少ない灯を手にした妹と母、それから腕組みをした父が足場の前に立つ時雨の前に並んでいた。道中気を付けてという母はやはり青い顔をしていて、昔気質な母が最後まで父のこの決断に反対していた事を思い出す。
私がいない間にもう嫁に行く事が決まっている二つ下の妹もどこか不安気に自分の手に昔二人で作った、上等な千代紙でできた栞を握らせる。活発な妹と穏やかな事の好きな時雨は、これを2人で作った時くらいしか、思い出に残せるような遊びをしたことがなかったな。そう思っていると、父が重い口を開き、何処ぞ立派な貿易商人の妻になっても恥じぬように語学を嗜んで帰ってくるように。と言うと、大きな荷物を下男に船へと運ばせた。
やがて一番夜の深い時間になる。それではもう時間ですので、と橘さんが声をかけるまで、母は自分の手が真っ白になるまで強く時雨の手を握っていた。
大きな船の甲板に上がると、乾いた板を踏みしめる音がする。ゆっくり船が動き出し、橘さんとこれからの段取りについて話す。

「橘さん、お世話に成ります」
「いえいえ、私がお世話できるのはイタリアに入ってから、また出る時だけです。向こうであなたを預かってくれるご婦人とも連絡は取れたようなので、それまでお嬢さんも語学の本でも嗜んでいてください。向こうに着けばすぐに必要になりますよ」

ニコリと笑う初老の男性は、外交官という仕事柄当然外国にも行きなれているのか、余裕のあるその笑みに時雨は心底ホッとする。道中はこの人と一緒にいれば、やはり父も言う通りまずいことは何も起きないだろう。あれやこれやとこれからも起こるであろうことに思案していると、橘は軽く時雨の肩を叩く

「あれをご覧なさい。お嬢さん、あなた必ず帰って来なけりゃならんですよ」

振り返り、夜の真っ暗な港を見ると、妹が持った小さな灯が、やはりいつまでも消えずそこに浮かんでいた。











やはり時雨も外国に大きな期待をしていたのは確かだ。伊太利亜に行けるとわかってからは父の書斎にひっそりと置かれている伊太利亜の写真の載った本を眺めて、見たこともない景色や食べ物、彼らの生活を眺めては憧れ夢想していた。
だがしかし、やはり見慣れぬものも多ければ多い程もはや恐怖である。
あまり日本人と言うことがわからないように、と母が用意した丈夫なシルクのスカーフを目深にかぶり、物心ついてからは初めてではないかと思えるようなスカートのワンピースを着て、大勢の外国人の群れの中で、時雨は呆然としていた。
どこかしこから聞いたことのない言語の言葉が洪水の様に溢れていて、何やらガラクタの様な物を持った小さな子供に突然話しかけられては罵倒される。

「お嬢さん、こっちですこっち」

人波をかき分ける様にして橘がやってくる。
ここは駅のホーム。急に婦人との待ち合わせがベネチアという街になり、時雨は訳もわからないまま焦る橘手を引かれ巨人の様な白人の間を縫って移動する。
ようやく人波から離れ、船着き場に行くと、橘はようやくといった様に息をついた。

「あのぅ、それで、ベネチアにはついたんでしょうか…?」

全く見当違いな質問だな。と時雨は自分でも自分の言ったことに呆れる。しかしながらわずかな英語表記と、あとはイタリア語の情報しかないこの世界では本当に自分がどこにいるのかわからない。

「大丈夫です。万事順調ですよほら、おいでなすった」

そう言って橘がさした方向には、今ついたばかりの小さな船と、時雨が今まで見たこともないほと美麗な美貌をたたえた長身の婦人が立っていた。
橘に手を引かれ彼女の前に立つ。この方がそのご婦人だと言われるのをまるで現実感がない様子で見ていると、その美女がとても澄んだ声で話しかけてくる。それが英語だとわかって焦りながら必死で聞き取ろうとして、何度も聞き返したどたどしい自己紹介を終える。
今度は橘から彼女に引き渡される荷物の様に、彼女……リサリサ様に手を引かれて小舟に乗る。何だか二言三言話しただけで自分の未熟な英語が恥ずかしくなってしまって、船が陸に着くまで時雨は黙り込んでしまった。


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