戻れない幸福のそとに(下)

どうして俺から、そんなに簡単に離れた。
その言葉は、自分の喉に張り付いたまま遂に彼女へ向けられる事はなかった。
君が戻るのならなんでもする。と大人になった今なら、離れていく君に幾らでも言えるのに、高校生の自分にはそれができなかった。

自分達はあの命懸けの旅を共に過ごし乗り越えたかけがえのない仲間だった。
だからこそ、自分は勝手に名前には言わずにも伝わる何かがあると信じきっていた。彼女はわかっている。彼女は変わらず自分の側にいるなんて、今思えば馬鹿馬鹿しくて笑える。
あの子はあの頃、たった17歳の少女だったというのに。











この小さなアパートの一室は、名前で埋め尽くされていた。
洋服ダンスや、メイクボックス。お風呂場を覗けば27になった名前が、いつもどんな風に暮らしているのか、どんな香りがするのかがすぐに解る。
承太郎はそこで、当然の様に彼女のベッドに腰を下ろしていた。

高校生の自分は、実に軟弱な精神の持ち主だったと思う"私は病気で長くはないから、残りの時間をせめて貴方と一緒にいたい"なんて女の嘘に何年も付き合って、気づけば名前を失っていた。
本当に馬鹿だった。愚かだった。
彼女がその気になればいくらでも自分を避けられる事なんてわかっていた筈なのに。
下らない結婚を止めて、最初に恐ろしく自然に思いついたのは新しい結婚だった。

"名前と結婚しなくては"

その言葉は酷く常識を逸脱しているのに、不思議と本当に、そうしなければいけないような強い引力があった。
魅力的な思いつきだった。
けれど、良いだろう。だって本当はきっと何年も何年も前に、俺たちはそうなっている筈だった。
想いあっている。その確信があった筈なのに、ただ一時の事だと彼女から離れたのは本当に馬鹿だった。
でも今ならまだ遅くないのではないだろうか。
きっと彼女と俺はまだ、今も想いあっている。









せわしないヒールの音が、部屋の前で止まる。
慌てて鍵を差し込んで回す音が響いた後、全くの無音になる。
今日というこの日に、わざと鍵を開けたまま忍び込んだ甲斐があった。
この薄い扉の向こうに、自分の存在に心臓を激しく動かしている彼女がいる。
今まさに自分が、空条承太郎が彼女の頭を支配しているのだ。
きっと彼女は今、家の鍵を回して固まっているのだ。


(迎えに行ってやるか……)


相当動揺しているらしい彼女は、自分のスタンド能力を使う事もなくただ馬鹿みたいに突っ立っている。
承太郎は腰を上げて扉の前まで行くと、薄く扉を開き、素早く名前の手首を掴んで引き摺り込む。
抵抗よりも、反射的に体を強張らせてしまった彼女はもう恐怖に強張って満足に暴れる事もできないだろう。
10数年前、命掛けで恐怖と戦っていた彼女も、今やただの女性……ということだろうか。
真っ暗な部屋の中で、名前を腕に抱く。柔らかい髪が自分の胸に埋まって、ふわりと香る匂いはお風呂場にあるシャンプーのものだ。
やっぱり彼女しかいないのだ。こんな風に腕に抱いて、自分の心が穏やかになって……この女の為なら何だってしてやれる。


「名前………!」


名前を口に出して呼ぶ。
信じられない程の幸福感が胸に押し寄せてくる。
やはりこうあるべきだった。
こうして二人で体を寄せ合うこれが、間違えようのない正解だ。


「名前……もうずっと一緒だ。俺たちはやっぱり、こうあるべきだった」
「ッ………!」


パン。と乾いた音が暗闇に響く。
頬に感じるヒリリとした痛みと、小さな掌が頬へ触れたらしい感触に、ようやく自分が名前に頬を打たれたらしいと気づいたのは、キッとこっちを睨みつける名前と目が合った時だった。


「名前……?」
「やめて……ふざけないでよ!私……貴方とは違うの…!もう高校生じゃないの…貴方を追いかけてた頃とは何もかも違うのよ!」


その強い眼差しに、彼女にもまだこんな強い一面が残っていた事に驚いた。と同時に彼女の言葉とは反対に同じだ。と思う。
名前がどんなに否定しても、変わらない。承太郎には名前は、いつまでの自分の為に存在していたあの頃の名前に見える。
承太郎の腕の力が緩んだのを見計らった様に
名前が体をよじる。
彼女が何をしようとしているのか理解できなくて、軽く小首を傾げながら名前の細い手首を掴んだ。


「名前……?どこに行く…?」
「どこにって……!ここじゃないどこかよ!私結婚するの、こんな……こんな事したの、許さないんだから…絶対、出るとこ出てやる、これで彼と何もかも台無しになったら私、承太郎の事一生許さない!」


余りに強い彼女の口調と、彼と呼ぶその男との親密そうな響きに無意識に掴んだ手に力がこもる。
わかっていない。
何もわかっていないんだ名前。
俺が一体どれだけ、お前の事を考えていたか。
すんなり離れていくお前にどれだけ心を痛めたか。

カッと頭に血が上っていく。
何やら遠くで女が泣き叫ぶような声が聞こえて、掌に何かが砕けるような感触。
瞬間、耳を劈くような悲鳴がクリアに聞こえて、それが名前の声だと気づいた時には名前は承太郎の足元でだらりと力なく弛れた手首を押さえて蹲っていた。


「……名前」
「ヒッ……!いや……!いや…」


肩に触れた体が跳ねる。
呻き声を漏らす名前に、ようやく自分が彼女の手首を砕いたのだと気がついた。


「……ッ悪い。お前を傷つけるつもりじゃなかった…」
「うぅっ……!来ないで…!近寄らないで……もう、顔も見たくない…怖いの、どうかしてるのよ貴方!」


ぐしゃぐしゃに濡れた名前の目が自分を捉える。
その瞳に映った自分は笑っていて、思わず息を飲んだ。
固まる自分に、傷を負って興奮した名前はしゃべるのを止めない。


「ずっと後悔してた……!承太郎と関わった事を!貴方とあってから私、辛い思いしかしてないわ………わからない?貴方が嫌だから離れたの!関わって欲しくないから避けてたのよ!」


そうして彼女はついに、一番触れてはいけないところに爪を立てたのだ。
しんと、脳味噌の奥の方が冷えていくのがわかる。
目の前で泣いている女が無性に憎くて愛おしい。
手を伸ばして彼女の小さな頭に手を置く。柔らかい髪をクシャリと掴むようにして撫ぜる。懐かしい感触、昔はよくこうして撫ぜては『絡まっちゃうから止めて』とむず痒そうに笑ってそう言っていた。
その髪を根本から乱暴に掴んで引っ張る。
痛みを訴える悲鳴が足元から聞こえたが気にしない。
痛みに抗えず付いてくる彼女の存在を足元に感じながら歩みを進めた。


「君が気付いたらすぐに一緒に暮らそうと思っていた。急な事になるだろうから、部屋を借りていて本当に良かったよ」
「痛いッ…!も……本当にッ!!」


マンションの廊下に自分の革靴の音が響く。
名前が好きな間取りなんて解らないし、何が気にいるか解らないから、この階の部屋は全て借りた。
彼女の声がどんなに廊下に響いても、扉を開けて出てくる住人は誰もいない。
適当に開けた部屋に彼女を放り込む。
電気も付いていない暗い部屋には、開いたドアから漏れる廊下からの明かりだけが差し込んでいる。
使えない片手をかばって受け身の取れなかった彼女は随分痛そうに体を玄関の床へしこたま打ち付けていた。


「ご………ごめんなさいッ…!ごめんなさい!!ごめんなさい!!もう何も言わないからッ…!」
「名前、少しだけ待っていてくれるか。せめて今夜2人で眠れるように簡単なマットレスと……シーツだけ揃えてくる」
「ぃ…いたい…んです…!てくびが……いたくて…しびれて私……びょういんに…」
「そうか、手首の事を忘れていたな。大丈夫だ。どんなに酷くなろうが元どおり治せる奴が身内にいる。心配するな」
「そうじゃないの……!そうじゃないんです…!ごめんなさいッ…何でも……今日だけはなんでもするから……!帰……」
「名前」


とびきり優しく。
名前の頤に手をそえる。
ふっと穏やかに笑う自分の瞳も、きっと彼女には逆光で見えてはいないだろう。


「すぐに戻る。離れるのは少しの間だけだ。待っててくれ」


名前の部屋から拝借したガムテープをコートから取り出せば、いよいよ彼女は大きく目を見開いてボロボロと泣き始めた。
足と手首をぐるぐると拘束しながら、こんなものを取っておいた自分にはきっと、彼女が自分なんかを今更求めちゃいない事を本当は解っていたのだろう。
と思う。それでもこの真っ暗な部屋で、何処にも行かない彼女を作り上げた承太郎の心は、遥か昔砂漠でそっと背中を合わせて2人眠った時と同じくらい。穏やかで満たされていた。

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