孤独片手に囀る



あれは一体なんだったのか。


わいわいと人で賑わう街の通りで、艶々に磨かれている林檎を手に取った名前は昨日の出来事を反芻していた。

再々呼び出しを無視していた炎柱が突然現れ、行冥とのやり取りに難癖をつけてきて
足の付け根を揉まれそうになって、あろうことが顔面を蹴って逃げた。
まだ足の指に残る他人の顔面の感触に罪悪感と
やってしまったという強い後悔が胃の腑をじりじりと焼く。

今は炎柱となった煉獄杏寿郎のことなら、なにも背負ったのは初めてではない。
確か彼がまだ新米であった時、名前もまた隠になり日も浅く、並外れた俊足と持久力を買われて厳しい現場に駆り出された。
初めて彼を見たとき、その壮絶さに誰もが息を呑んでいた。
同時自分よりもずっと経験のあった先輩さえその少年の絶え絶えの気配に気圧されて固まっていたし、名前も最初は足が動かなかった。
亡骸よりも痛々しい生の姿と5つは下であろう少年が潜る死戦の厳しさに、改めて命がけの隊士の存在に気付かされた。

やっと動いて歩いた足で、背負いあげた彼はやっぱり少年だった。
出血が酷く小さく震える彼を温めながら帰ったことは昨日のように覚えているし、だからこそ先日炎柱が重症と聞いた時には自分が行くべきだと思った。


「名前ちゃんそれ、買うかい?」

初物だよ!と笑う人のいい店主にはたと気を戻し、頂きます。
と答えると慌てて財布を出して店主に支払いを済ませる。
風が素顔をなぜる感覚が久しぶりで、なんとなく落ち着かない。

「大丈夫かい?随分疲れてるみたいだけども、奉公に通ってるお屋敷っていうのはお武家かい?」
「あぁ…そんなとこで、急な来客で大童だったものですから…すっかり疲れてしまって」
「独り住まいだろう、心配だねぇ……奥方は奉公人の嫁入りの世話はしてくれないのかい?」
「私が独りがいいと言っているので」

またいつもの中年増だの、俺の嫁はその歳でもう四人は産んでいた等の話は聞きたくない。
なんだかボゥっとする今は余計に。

手早く買い物を済ませて、あまね様から有り難く受け取った小さな家に戻ると着物の埃を払いしどけなく畳に倒れ込んだ。

筋肉痛はじわじわと広がり
今や心臓も筋肉痛になったのでは無いかと疑いたくなるほどの虚脱感を伴って座るのも億劫だ。
腕や足はもちろん痛むが、もっと奥深い体幹の筋肉にも痛みがある。
のろのろと袖で林檎を磨いて行儀悪くそのままかじりつく。
本当は食事すら辛い。
眠いが目が冴えている不思議な感覚。
火鉢に入れた火に当たりながら、これからどうするか考える。

後藤には完全に誤解された。
その上、今日は仕事を何も言わず休んでしまった。
後藤は怒っているだろう。
行冥さんはもう次の任務に行っただろうか。

本当なら今頃あの散らかった書類を纏めねばならなかったし、急な事後処理の依頼もあったかもしれない。

(家の場所くらい、誰かに言っておけば良かった)

素顔さえ誰にも晒した事がない。
自分が助けを求めるとしたら戦場くらいだと思っていたから、ほとんどない私生活は人を避けてひたすら静かに過ごしていたツケが今回ってきているのだろうか。

(疲れすぎて気持ち悪い……)

右手から滑り落ちた林檎が四畳半ばかしの狭い家の座敷を転がる。
ふと視線をあげると、鎹烏が格子の小窓に止まっていた。

(だれのー……)

ぶわりと飛んで行った烏の背をぼんやり眺めてから目を閉じる。
とにかくジッとしていれば魔法のように動けるようになるのではという気持ち半分。

(炎柱は、今もさがしてるのかな…)

昨日間近に迫った、初めて近くで見る生と活力に満ちた彼の顔を思い出すとなんだかいてもたってもいられなくなる。
なんで今だったのだろう。
最高に浮腫んで、ただでさえ小さく地味な目がもっと埋まってしまっているときに。

それに極め付けの言葉。
幻聴じゃなければ正気を疑う。
私と炎柱はまともに喋ったことすらないのだ。

(俺の子を背負って…て)

ようやくきた眠気に任せて意識を手放す。
しまった、火鉢しかない。
せめて布団くらい

そうおもった時にはすでに意識は暗い闇のなかに溶けていった。


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