ルールを踏み越えて


名前が初めて馬に乗ったのは5つの時だった。
上流階級の家の娘達が大勢ポニーに乗って避暑地のなだらかな草原を歩く。
ふりふりして咲き誇る薔薇のように煌びやかな娘達が時折楽しげに笑い声を上げるその乗馬遊びに幼かった自分も行くことになったのは、姉たちがそのポニー遊びが好きだったからだ。
たくさんの姉のいる貴族の家に産まれたこと。良い家の娘がどういう遊びを好んでどうするべきか。ということを知らぬまま、またそれが許される歳に本物のサラブレッドに出会えたことを名前は素直に幸運に思う。
あの時ポニーに乗らずに、無骨な厩の使用人に抱えてもらいながらうんと大きなサラブレッドの背に乗った時に既に自分の人生の目的は定められてしまった。と言えるだろう。









「名前、そろそろ休まないか?随分長く乗っているよ、疲れるだろう」
「いや、大丈夫だ。この子は今ようやくその気になってきたらしい。この子に合わせるよ、ありがとう」


雨の翌日の練習場の泥は柔らかく、馬の蹄が柔らかく沈み込み、後ろ足を上げるたびに黒のズボンキュロットへ泥が跳ねる。
冷たいその感覚を不愉快そうに踏みしめていた赤みのかかった栗毛の馬……プリンスローズはようやく今その不愉快な泥の感触に慣れてきたらしく、機嫌よく地面を踏み鳴らしながら嘶き始めた。
名前がこの新しい名馬に乗り換えてからひと月がたった。馬を慣らし、出来うる限りの駿足を引き出すことに限れば名前の右に出る者はいない。
毎シーズン安く新しい馬を見つけてきては、悠々と血筋正しい生粋のエリート馬たちを後方へ追いやる名前のレースはいつも注目の的だ。
先月のレースでは天候に恵まれ、このローズの一番得意とする硬い地面の上を走ることができた。いつも馬のビギナーズラックのあやかっていると名前を揶揄する者もいるが、別段名前自身はこれを気にしてはいない。それよりも名前の肝を冷やすのは、他のジョッキーよりも群を抜いて身軽なその体型が馬にとって良いのだ。とか、柔らかい雰囲気が所謂ユニコーン伝説的に馬を落ち着けるのだとか、そういった類の批評であった。
スピードを上げる、さらに派手の泥を撒き散らしながら馬が駆ける。盛大に跳ねた泥が目の下にべちょりとかかり、名前の目線はそこからローズの目に映る。
跳ねる泥を嫌がらなくなってきた。これでこの子も、ぐしょぐしょの土の上で前を行く馬の飛ばす泥にいくらか怯まなくなっただろう。

馬の上で名前は、今日の夜帰ってくる両親のことを思った。
頻繁に領地を回る両親は実にできた人間で、その帰りを待つ姉達も贅沢を好まない実に淑やかで優しい淑女達である。
そんな家族の中で一番、わがままを通している自分だけがいつも喜ばしい両親の帰還に頭を悩ませることになる。

イギリスの才能あるジョッキー。と新聞に書かれる名前は生物学上まごう事なき女であった。
それを自分のやりたい事をするために無理矢理事実を捻じ曲げ世間へほらを吹く娘……息子を、両親は実に呆れた様子で見ている事を知っている。
家族の優しさにとことん甘えている自分は実に我儘でどうしようもない人間である。

足を緩めながら厩へ戻る。
随分息の落ち着いたローズは今はもう泥の中へ足を埋める喜びよりも新しい草の芳しい香りで頭がいっぱいである。
するりと馬から降り、ヘルメットを外して歳老いた厩の使用人……ゼペットへ手綱を預けシャツの袖で乱暴に汗を拭った。
その様子を咎めるでもなく眺めているこの老人は、初めて自分を馬に乗せた日から少しも変わらないゴツゴツとした手のひらで馬の首を撫ぜた。
成長していくにつれてわかってきたのは、あの日自分が馬に乗せてもらったこの場所は、若く才能あるジョッキー達がこぞって馬を預ける有名な厩であった事だ。
広い練習場から外へ出れば広い草原があり、少ししか都会から離れていないはずのこの場所には、馬と人間が真摯に向き合う為の全てが用意されている。
そんなこの場所が騒がしいのはいつもの事だったが、今日は一際喧しい。
馬の嘶きではなく、人間の起こす喧騒だ。
練習場から聞こえるその騒ぎの正体を確かめようと練習場へ足を踏み入れると、そこにいたのは、真っ白な馬に跨り駆ける美しい青年だった。
堂々と駆ける彼らの息は例の如くピッタリと合い、計算され尽くした足並みには思わず舌を巻く。
最も、この喧騒の正体である新聞記者達には、跳ねる度に揺れる男の金髪や、恐ろしく均衡のとれた顔立ちとミステリアスな生い立ちにしか興味はないらしく、男が馬から降り一般人とジョッキーを隔てる柵の前へ降り立った瞬間慌ただしくシャッターを切り始める。
その様を見かねて思わず名前の足は前へ出た。
新聞記者達の我先にと繰り広げられる男への質問を聞き流しながら一直線へ、その一頭と一人の側へ向かう。
名前がそこへ向かう理由はこの喧騒をどうにか収めようと思ったわけでも、ましてや一瞬うざったそうに顔をゆがめて、すぐにニコニコと愛想を振りまき始めたこの男を助ける為でもない。
繰り広げられる無遠慮なシャッターに目を白黒させ、今にも落ち着きなく走り出してしまいそうな若く美しい白馬の為である。


「ディエゴ!前回のレースでは2位という結果に終わったわけですが、次のレースへ調整はもう始まっているのでしょう!?」
「レースの前日に貿易商の令嬢と一緒にいたそうですね!彼女ともしかして何かあったんですか?」
「ブランドーさん!最近貴族との遊びが目に付きますが、もしかしてあなたが馬に乗る理由は……」


他人からしてもわざわざこの場所に来てまでぶつけるべきとは思えない質問に思わず失笑しながらも、男の手からそっと手綱を取る。
伏せていた顔をそっとあげると、意外そうな顔をしたディエゴと目が合う。
途端にニヤリと笑ったその男は、名前の腕を無遠慮に掴むと思い切り引き寄せ肩を抱く。全くの不意打ちで記者達のフラッシュの前に引き摺り出され、こんどは名前が目を白黒させる番だった。


「皆んな知っているだろう?前回のレースで俺から優勝をかっさらっていった名前名字だ。今回はこいつと調整中さ。お互いライバルであり親友でね。まぁ、貴族との付き合いも増えたが仕方ないだろう……彼といるとどうしたって貴族のお嬢さんと会う機会が増えるしな」


途端に激しくなるシャッターに、思わず顔が引きつる。
やけに馴れ馴れしくさらに体を寄せてくるこの男に良いように利用されている事に憤りを覚えるが、それよりも早く、名前はさっさとこの場から離れて2度とこいつと関わり合いになりたくない。という欲求の方が強くなってくる。
新たなネタに満足して帰っていく記者達の背中を見送るや否や、ディエゴの腕を払いのけて奴の馬に跨る。驚いた様に耳を立てた馬の首に優しく手を添えて端的に指示を伝える。
主人とは違い随分従順な馬は戸惑いながらも指示に従おうと踵を返した。


「おい…!何してる。俺の馬から降りろ」
「知るかクソ野郎。"親友"なんだから馬ぐらい貸してくれたっていいだろう」


口に出せばその言葉は思っていたよりも嫌味ったらしく聞こえて、少しだけ気が晴れる。
駆け足を指示してさっさとディエゴから遠ざかる。お互い馬垂らしではあったはずだが、どうやら自分の方が、馬の手懐け方は上手いらしい。


「……良いのか名前!すぐに後悔することになるぞ!」
「言ってろ!負け犬!」


後ろからかけられた言葉の意味を名前が本当の意味で知るのは、それから数日後の事だった。

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