半魚人と特別な"人"



案の定、人間を眠らせる音波が出せます。
という特技は空条先生には大ウケだった。
耳栓の上から耳当てをした先生が自分の歌声を録音する。しかも、最初に照れ混じりに適当にチョイスした歌が西野カナだったせいで、真顔(多分ほとんど聞こえてはいないだろうが)の空条先生の前でうろ覚えの同じ歌を何度も何度も繰り返す。というネオ地獄に、人子は既に始まって2時間で家に帰りたくて………


「ふ……震える…!」
「?……なんだ。それはあの歌の続きか」
「きっ……聞こえてたんですか!?」
「いや……唇の動きだけだ」


なぁんだ。良かった。とりあえず、しっかり取られてしまった自分の録音テープは、先生がお手洗いにでも行っている間に上書きしてやろう。
そう考えながら今時古風な音楽プレイヤーの側に置かれたナンヨウハギの水槽をみつめた。
他の魚に効果がないか。とかを、先生は知りたくて人子の側にわざわざこれを持ってきたようだった。
机の上には水槽とプレイヤーが置かれ、その真ん前に座った人子は魚がぐるぐる泳ぎ回るのを焦点の定まらない目で見つめていた。
今日は珍しく、空条先生の自宅ではなく、深夜人のいなくなった大学で実験をしていた。
初めて会った時に自分達が運び込んだ水槽が相変わらずずらりと並んでおり、あの日自分が正体と引き換えに守ったナンヨウハギもこうして元気に水槽を泳ぎ回っている。


(…もし、許してもらえるなら、あの子をお家に連れて帰りたいな……想い出…じゃないけど、あの子がいなくなるのはなんだか寂しい)


1Kの……大した物など何もないアパートに、この子の泳ぐ水槽があればどんなにいいだろう。
ジッと見つめていると、あのナンヨウハギもこちらに気付いたようで、スッと水槽のガラスに張り付くように近づいてきた。
こういうあまりにも哺乳類から遠い生き物とは意思疎通もほとんど取れないが、それでもその子が自分に対して好意を持って近づいて来ていることだけはわかる。

今時テープで録音。なんて破壊工作しやすくて古典的な先生に感謝しながら、視線をナンヨウハギから空条先生に戻すと、先生がジッとこちらを見ていた事に気付いて少しだけむせそうになった。


「な……なんでしょう!」
「その子なら研究には使わない。だから安心しろ」
「……そう、ですか」
「さて……それじゃあ一度きちんととれているか確認するか」
「え………まさかそれ今再生するんですか?」
「実際に聞いてみない事にはな。テープ録音で効果があるのかも興味がある」


今にもスタートボタンを押そうとする先生の指から再生ボタンを防御するために、手でずらりと並んだプレイヤーのボタンを覆った。
困る。そんな。どこのバツゲームだそれは。


「……なんだ?」
「先生、喉渇きません?」
「喉……?」
「あぁ…!ほら!私結構頑張って声出しちゃって、凄い喉が渇いたんですよね!」
「…………わかった。私の教授室に貰い物のジュースがあった」
「わぁい!じゃあ私ここで待ってますね!」


半ば追い出すようにして先生を部屋から送り出すと、遠ざかる足音を確認してからプレイヤーからカセットテープをとりだし、巻き戻っているのを確認して上から録音をやり直す。
ザーッとテープの回る懐かしい音が水槽だらけのこの部屋に静かに響く。テープを壊しても良かったけれど、すぐにバレる破壊工作をわざわざする必要はないだろう。
なるべく。とりだして確認した感じでは、先生は毎回重ね取りをしていたのだろう。自分の歌声が部屋の静寂に塗りつぶされているかを確認してから、人子は漸くひと息ついた。
喉が渇いているのは本当で、少しだけ乾燥した喉が引っかかって咳き込む。
その小さな声と同時に、ドアから入ってきたのは予想外の人物だった。


「空条先生。昼に仰っていた資料なんですが………あ」
「えっ…と、空条先生なら教授室に行かれた…と思います」


姿を現したのは、細身で背の高いスーツを着た黒髪の女性で、離れたところから見てもじゅうぶんに美人だという事がわかる。
凛とした佇まいに、あ。この人を知っている。と確信したと同時に感じたのは、相手からの訝しげな視線だった。


「あなた………海洋生物学部の学生さん?」
「あ……いえ、でも、お手伝いというか…そういうのを」


してます。と続けるよりも先に彼女はドアを閉めると空条先生が机の上に開いたままにして行っていた……自分に関する事が書かれているだろう資料へと手を伸ばしていた。
反射的に人子もそこへ手を伸ばす。思えば彼女はきっと事務員のような仕事をしていて、そこに散らばったままの紙があったから整えようとしただけなのだろう。
それでも、人子にとっては大事な自分の秘密がそこにある。
慌てて前へ出した腕は水槽にぶつかり、驚いた数匹のナンヨウハギが大きく跳ねた。
水面が激しく波たつ。
雫が手の甲をポタポタと濡らす感覚に焦って手を引っ込めた。


「………あなた」
「すいません。濡れなかったですか…、私ちょっと、手を洗ってきます」
「待って……!」


ぐっと腕を掴まれ体がこわばる。
彼女の方を振り返ると、彼女は人子の目をじっと見つめていた。呼吸が止まりそうだ。でも、手は少ししか濡れていないはずだ。まだ人間の形をしている手を視線をそらして確認する。


「あなたのその目…!」
「目……」


言われてはたと気がつく。
雫だ。あの子たちが跳ねた時の飛沫が片目に入っていたのだ。
縦長くなっているだろう瞳孔を見られたのだと気づき思わず目を閉じた。
もうダメかもしれない。私の楽しい大学生活も、空条先生とのこの日常も、すべてここで終わってしまうのだ。
目の前の女性は、先生の資料と自分を見比べている。


「そう……なの。空条先生は……その…あなたが…そう…だから。でも、じゃああなた、人じゃない、の?」


激しく動揺しているものの、どこか理性的な声音に恐る恐る首を縦に振ってみる。
女性もまた、緊張で硬くなった体を、その瞬間まるで安心したかのように息を大きく吐いて緩ませた。


「え…っと、あの…」
「そう……そうなの。なんだ……ごめんなさい私、安心してしまって…」


ほぅ。と息を吐ききった女性の声は穏やかだ。その意外な反応に警戒しながらも声をかけると、時々研究室に電話をしてくる子よね?と聞かれ、頷いた。
自分の身元を明かすなんて、とはおもったが、不思議と女性からは敵意のようなものは感じられなかった。


「あぁ…!ごめんなさい。私、安藤夏子っていいます。空条先生の研究室付きの事務員をさせて頂いてます」


ぺこり。と丁寧に頭を下げた彼女は、やはり昔、居酒屋で空条先生を見かけた時に隣に座っていた女性だ。
微笑む彼女……夏子さんに敵意がない事に少しだけ胸を撫で下ろた。
親切にハンカチを貸してくれる彼女は、居酒屋でのツンとした印象に比べると随分優しい空気を持っていた。
もしかして、こちらの方が本当の彼女なのかもしれない。
少しだけ好奇心に満ちた彼女の目は、その資料のタイトルと人子を見比べている。
今すぐに自分をどうにかしよう…。という人間にはあまり見れないその姿は、どちらかといえばこちらに気を使ってくれている優しいお姉さん。といった風だ。


「あの……えっと、ひとつだけ聞いてもいいですか…?」
「あ…!はい…!良いですよ」
「さっき……その、夏子さん、安心したって言っていたじゃないですか…?その……何に安心したのかな………なんて」


それは素直に抱いた疑問だった。
むしろ、夏子の柔らかい態度に安心したのはこちらの方である。
人じゃない物を見つけて安心した。と言うのは些か腑に落ちない。
夏子はその人子の質問に少しだけ顔を紅潮させ、視線を泳がせた後意を決したように口を開いた。


「それは………その、私……こんなこと言うと嫌な女だと思われちゃうかもしれないんですけど、実は空条先生の事がずっと好きで……1度食事に誘って頂いた事があるんですけど、それからなかなか上手く行かなくて……最近よく先生と会っている学生さんがいるってわかってから、もうダメなのかなぁ。と思ってたんですけど………ここであなたと実験していたんだ…ってわかって、安心しちゃったんです」


おずおずと話す彼女の言葉に、頭を殴りつけられたような衝撃を受けた。
彼女は続ける。人の良い笑顔のまま


「あなたが人じゃないってわかって、あぁ、空条先生は特別な関係の人と会ってたんじゃないのか…って、ごめんなさい。こんな話……興味なんて無いですよね……でもそれで安心しちゃって……」


あなたのこと、だれにも言いません。もちろん、空条先生にも、今日あったことは言いません。
穏やかに、人子を安心させるようにそう続ける彼女の言葉は嫌に心に刺さった。
特別な関係の"人"。
それはなぜだか耳の奥ににべったりと張り付いて、彼女の優しい言葉を素通りさせる。
そっと彼女が出て行った後、どんな顔をしてここにいれば良いのかわからなくなってしまって、鞄を掴んで静かに部屋を後にした。
なぜだか無償に、どこかへ底の無い暗い海に飛び込んでしまいたい。とそればかり考えていた。

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