prologue



「もう少しで終わりますよ。」
ホワイトポイントをシリコンに付け替えながらちらりと壁掛け時計を見る。予想より早く診療が終わりそうだ。これなら次の患者の予約まで充分な余裕がある。忙しくて食べ損ねたお昼もコンビニに走れば何かしら食べられそうだ。もう一度口の中に手を入れ、奥歯にシリコンポイントを押し付けると手早く研磨を済ませて近くにいる衛生士に目配せをする
「はい、じゃあ一度うがいしましょうね」
チェアーを起こすと。何度か患者がうがいをする間に、簡単にカルテを打ち込むと席を立つ
「じゃああとはお掃除して終わりです。結構大きい虫歯でしたがなんとか白い詰め物だけですみましたよ。もしかすると数日冷たいものが沁みるかもしれませんが、あまりにも続くだとか、耐えられないくらい痛くなってきたらまたお電話ください……マキちゃん」
手袋をつけ終えた衛生士と交代して、急いで手袋を外してゴミ箱に捨てる。
時雨は軽くため息をつくと、診療室の奥にある手洗い場で手袋のせいで粉っぽくなった手を水で濡らした。
歯科医師になって三年目。スケジュール通り患者もそこそこ捌けるようになり、街の歯医者さんとして求められる仕事も大半はこなせるようになってきた。今年から実家である夕立デンタルクリニックに戻り、同じく歯科医師として働く兄と一緒に日々忙しく働いている。
(身内だからって本当に容赦ないんだから…あぁ…お腹減った)
兄はもうすぐ産まれる子供と初産で不安な奥さんに対応すべく、随分余裕を持った診療スケジュールを組んでいる。その分の仕事と、検診についていった兄の不在のせいで、今日の昼休みに駆け込んできた急患も一人で見る羽目になった。これはあれだ、子供が生まれたら連休をもらうしかない。
更衣室で白衣の上にパーカーを羽織り、財布を持って裏から受付を除く
どうやら新しく急患は来ていないらしい。
時間は18時。次の予約は半からだったか…
「夕立先生、半からの患者さんキャンセルだそうですよ。三日後の10時が空いたのでそちらに変わって頂きました。」
美人受付嬢と名高い雪ちゃんが切れ長の目を楽しげに細めながら、良かったですね、と微笑む。どうやら彼女には時雨が急いで適当な菓子パンをかきこむ様がありありと見えていたらしい。スラリとした長く綺麗な赤いペディキュアに飾られた指先はまた軽快にキーボードを叩きはじめる。
「じゃあ、すぐ戻りますけど、何かあったら電話お願いします」
「先生、せめてサラダにすることをお勧めしますよ」
「………はい」
苦笑いをして裏口から病院を出る
事実上今日の診療はほとんど終わりだ。せっかくだから少し遠くのコンビニでも行こう。そっちの方が美味しい菓子パンでも売ってるかもしれない。
早足で病院を後にする。まだ日が高いせいか、はたまた一日病院にこもっていたせいか夕方という気はあまりしない。ちょうど部活帰りの高校生達が楽しげに歩いている。
いつもと違う道を通り、日が高いことをいいことに人通りの少ない路地を選んだことを時雨はすぐ後悔することになる。


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