私が出来るまでの話
私は日本ではない、治安の良いとは言えない国で生を受けました。

その国がどこかはもう覚えていませんが、治安が悪いと言うだけあっておそらく毎日のように方法問わず人が死ぬのを見ていたのだと思います。

もともと日本に住んでいた母さんは、世間で言う所謂「バツイチ」だったと顔の覚えていない父さんが言っていました。

やっぱり顔の覚えていない母さんは言いました。貴方には兄がいる、と。

私の父さんと母さんとの間の子供に、兄さんが含まれているのかはわかりません。前の父親の子供だったかもしれないし、違うかもしれません。それでも母さんの子供であることには変わり無いので半分の血は繋がっているのでしょうけど。

何故、母さんが平和な日本からあんな治安の悪い国に来たのかはわかりません。仕事だったのでしょうかね。

人間の遡れる記憶の限界は4歳まで。

さっきギンタ君に言いましたよね?もといた世界でグーグル先生に教わりました。他の調べものをしていた時に偶然見たインターネット上の情報なので何処まで正確なのかはわかりませんが。

さて、そんな訳で4歳の頃の話です。


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ある日、自宅にいるとガラの悪い人が家に入って来て単刀直入に言いますと、殺されそうになりました。多分金目の物狙いの強盗だったのでしょうね。

強盗の持つ光る刃物には古い血液が付着していて、私は何もしていないのに殺されるのか、と考えると震えが止まらなかったような気がします。

強盗の背後から父さんが相手を刺し殺していなかったら、間違いなくこの場にはいなかったでしょう。

警察組織は、正当防衛の一つと言うことでこの事件を処理しました。毎日のように事件が起こっていたので、解決出来る物はさっさと終わらせたかったのでしょうね、人手も足りなかったのだと思います。ちなみに強盗には家族も親しい友人も、黒い組織に入っていた訳でもなかったので、報復に怯える事は特にありませんでした。

行動に起こしたのは父さんでしたが、正当防衛を言い訳にするようになったのはその出来事が切っ掛けだと思います。

確実に止めを刺さないと、何されるかわかったもんじゃあ無い、何をされても文句が言えない、そう言う国で生きていたんです。

この出来事から数十日後、私は両親に手を引かれ日本の東京にやってきました。
初めて見る物全てが新鮮でした、今は慣れすぎたので感動も何もありませんが。

そしてそのまま、東京のとある児童養護施設に置いていかれました。風呂輪中から少し離れた所にあるので見た事くらいはあるのでは無いでしょうか?

わざわざ日本のあの施設に置いていったのは、両親なりの優しさだったのでしょう。母親があの国に向かう前に施設に置いていった兄さんがいましたから。

これ程はっきり覚えているのは、やっぱり自分にとって強烈な出来事だったからなのでしょうね。

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