待ち合わせ場所には15分も早く着いていたこと。そうして5分前に実弥さんを見つけたこと。駆け寄ろうとしたら実弥さんの隣には女の人がいて、その人は腕を絡めて、実弥さんを見上げ微笑んでいたこと。それを見て長い間会えなかった理由がわかってしまったこと。次に会ったらそれが最後になると思ったら、嘘を吐いてでも、一方的に連絡を絶つこと意外できなかったこと。
途中限界だと堪えられなくなって一度視界が滲むと、止まらなかった。実弥さんはわたしの話を黙って聞きつつもティッシュを差し出してくれて、それで、その優しさで、もっとぐちゃぐちゃになった。
「それが理由?」
「っ、はい…」
「そうかィ…」
わたしが話し終えると実弥さんはフッと鼻で息を吐いて、その表情は微かに緩む。察しがいいと、話す手間が省けたと思われたからだろうか。
「ったく、1人で結論出してんじゃねェよ」
「えっ、」
「俺が悪かった、ごめん」
柔らかな銀髪が揺れて、唐突に実弥さんが頭を下げた。謝られるということが、余計に混乱を招く。
「実弥さん…?」
「隠すこともねェから言うが、あれは、俺の失着が招いたことだ」
どういうことかと、尚も滲む視界で見つめれば、頭を上げた実弥さんとかちりと目が合い、その双眼はわたしをしっかりと捉えた。
聞けば、あの女の人はここ1ヶ月携わっていたプロジェクトメンバーのうちのひとりで、先輩だそうだ。日頃から言い寄られていたらしく、立場上あまり無碍にしても良くないからと体よく断り、交わしていたところ、チームの仕事のミスを利用して漬け込まれた。エスカレートするアプローチの中、待ち合わせたあの駅がたまたまあの女の人が利用している駅だったらしく、偶然に会ったことを吉と捉えられ腕を取られた。そうして下手なことをして大声を出されたらと思うと振り切れなかった、と。
「立場が無けりゃあんな執念ェ女、関わりたくもねェ」
そう言いながら眉間を寄せるので本当にそう思っているんだということがわかる。
「そう、だったんですか…」
「あぁ。でも、理由があるとは言え傷つけたことには変わりねェ。悪かった」
「いえ、わたしも、事情も知らずに…」
「ンなこたァいいんだよ。誰だってそんなところ見ちまったら変な思考にもなるだろォ」
そう話す声は、わたしを見つめる瞳は、すっかりいつもの実弥さんだった。
「長いこと会えなかったのは、そんなこともあってかなりハードだったからだ。それでも時間を取ることはできたが、そうしなかったのは俺がお前に甘えてたからだなァ。俺のこと気遣うばかりで、会いたいとか、ンなことひとつも言ってこねェから、つい区切りがつくまでと、先延ばしにしちまった」
「そんな、わたしの方こそ、何かしてあげられることがあったかもしれないのに…」
「いや、十分だァ。お陰でプロジェクトは完結、あの女にももう会うことねェ」
そうして一度ゆっくりと瞬きをして、実弥さんはもう一度わたしを見た。
「名前」
久しぶりに呼ばれた自分の名前。思わずまた、目の端に雫が上がる。
「もっと欲張ってくれ」
「えっ?」
「俺はこの1ヶ月、そうして仕事を優先したわけだが、名前のことを考えない日はなかった。ありきたりだが、ちゃんと飯食ってるか、とか、風邪引いてねェか、とか。たまの連絡があるだけ大丈夫だとは思ってたが、会えてねェ分余計に心配だった」
わたしは黙ってそう話す実弥さんのその言葉を聞く。
「そうして漸く会えると思ったら、今度は一切の連絡が取れねェ。でも聞くにそんな事情でもない。正直、名前に限ってと考えたくはなかったが、もう愛想尽かされて、捨てられた、と思った」
あまりの言葉に思わず目を見開く。信じられない。そんなこと、わたしができるはずないのに。
「違います!そんなこと、あり得ません!わたしが1人で勘違いしただけで…っ!」
「そうだァ、結果は勘違いだ。でもな、それくらい俺は、一瞬でもお前を信じられなくなるくらい、この1ヶ月を後悔した」
「そんな…」
「もっと掛けられる言葉はあったんじゃないか、会いに行けたんじゃないか、ってなァ…。それとも、そう思ってンのは俺だけかァ?」
ふぅっと息を漏らして、実弥さんは少しだけ口角を緩めた。この人にはわたしの考えなんてやっぱり、全部見透かされているようだ。
「わたしだって、会いたかったです!ずっとずっと、こんなに長いこと、会えなかったことなんてなかったし…それに、あんなの見ちゃって…余計に、もっと、伝えたいことを伝えておけばよかったなって後悔もしました。でもわたしと実弥さんの仕事量も立場も比較しようがないくらい違うのに、忙しい中連絡をくれるだけでも嬉しかったんです。だから、ちょっと寂しいからって簡単に、会いたいなんて、言えなくて…」
「俺のことを考えてってか…」
「はい…」
「そうかィ…でもな、それは俺も同じだ」
少し照れ臭そうに、実弥さんは頭を掻いたけれど、もう一度こちらを向いた表情はとても真剣だった。
「名前が俺に会いたい気持ちと同じだけ、俺もそう思ってンだ。だからもっと欲張れよ」
「実弥さん…」
「忙しいのはお互い仕事してンだから当たり前なんだ。伝えたいことは全部言え。遠慮なんてするな。俺もそうするから。それにな、」
ガタリ、と椅子を引いて実弥さんが立ち上がる。
「どうしたって俺ン中で名前は1番だからよォ」
「っ…」
「わたしも」と、続けようとした言葉は席を立った実弥さんの厚い胸板に阻まられた。先刻まで、もう2度と触れられないと思っていた実弥さんの体温。そうっとその背中に腕を回すと、ぎゅうっと力が込められた。
少しの時間が経って、座ったままのわたしに背の高い実弥さんは腰を折っているだろうと、立ち上がろうと身を捩ると腕が解かれ離れていった熱。名残惜しくて思わず、顔を上げると、実弥さんは笑っていた。
「ハッ、ンな顔で見てくんなよ」
「へっ?」
「飯は食ったか?」
「め、し?いえ、食べてません」
「そうかィ」
唐突に何を聞くのかと驚いていると、ふわりと身体が浮いて、抱き上げられたのがわかった。
「な、えっ?」
「俺も飯食ってねェんだわァ」
「何か食べますか?」
「あー、そうだなァ」
軽々と抱えられてずんずんと進む先が寝室であることは間違いなかった。わたしを抱えたまま、部屋の隅に佇む間接照明のスイッチを器用に操り、間もなくベッドに降ろされる。
「え、っとー…」
「1ヶ月だぞ」
「はい?」
「色々遠回りしたが、万事解決だ。本来なら過ごす予定だった先週をやり直そうやァ」
「腹も減ってるしなァ」と呟いて、いつの間にか馬乗りになった実弥さんの唇が降りてくる。
「さ、実弥さんっ!」
「あ?なんだよ?」
「あの、わたしも…」
先ほど言えなかった言葉を伝えておきたくて、実弥さんの肩を押すと、明らかに不満気に眉根を寄せられた。
「わたしも、実弥さんが1番です。かっこよくて、優しくて、仕事ができて、わたしのこともたくさん考えてくれて、それから…全てをうまく言葉にできないのが悔しいけれど、とにかくわたしの全部が実弥さんを大好きだって言ってます!」
見上げると、実弥さんは目を見開いたまま固まっていた。それから徐々に柔らかな光の中でもわかるほど耳の端が赤く染まっていく。
「っ、くそっ、見てんじゃねェ…」
「…電気つけたの、実弥さんですもん」
「な…っ、名前、お前なァ」
「抱き潰す」と、宣言して、再び降りてくる熱い唇に今度こそ目を閉じた。
そうして、いつもならやめてと抗議する明るみもそのままに、会えなかった期間で惑った隙間を埋め合うように、お互いの熱を分け合って、わたしたちはたくさんの愛を確かめ合った。