▼ 01、めんどくさい隣人
俺が住んでるアパートは都心から離れていないと言われれば離れていないし、離れてるっちゃ離れてる場所。家賃も高くもなく安くもない、どっちつかずな感じで色々と面倒臭がりな自分にとっては、まあどうでもいい場所。萩原がたまに遊びに来たり、同期が来たり、言うなればいいたまり場になっていた。最初こそ面倒だったのだが来た時には片付けまでさせて泊まっていかないことを約束させればわりとその日の飲みの片付けだけではなくて、ついでに掃除機までかけてくれるから楽に思えていた。萩原は当然のように泊まっているが、これが転がっているのはどうでもいい
隣は自分の後から越してきた、多分女。挨拶に来ていたらしいし、手書きのカードには御丁寧に“お隣に越してきたみょうじです、よろしくお願いします”と書かれていて、それがまたボールペンとかじゃなくて、シャープペンで書かれていた事が気になった。走り書きのようなそのカード
どんな人なのか、結局性別はどっちなのかと少しだけは気にはなっていたが、ただその程度。いつものように萩原が寝ていて、自分は萩原の腕で顔面を殴られて起きた。なんでこいつ人の布団に潜り込んでんだよ…
起き上がって、萩原の腕をぶん投げるようにして退かした。まだ12時を過ぎたばかり、飲みは22時くらいまでしていたから本当に少し眠っただけらしい、夜だっつーのにうざってぇくらい鳴いてる虫の声と服に張り付いてどうしようも無い汗。布団から抜け出して窓を開けたら涼しい風が入って来たから外は幾分かマシらしい、だいたいにしてなんでクーラー止まってんだよ…なんて思ってリモコンを探したら萩原の体の下に半分ほど出てあった。こいつか…萩原を転がしてリモコンを取るのも面倒で窓を開けてやったままで外へ出た。コンビニに行って冷たい飲み物でも飲もうか…クーラーをつけっ放しで寝たり、冷たいものばっかり飲んでると警察学校時代の同期にうるせぇやつが一人いたな…今は音信不通で連絡がつかねぇけどどっかで何かやってんだろう。簡単に履けるサンダルに足に通して外へ出ようとドアノブに手をかけた
「だから、仕事だったって言ってんでしょ」
「嘘つくなよ、毎日毎日、仕事仕事って…そんなに毎日仕事があるわけねぇだろ」
「っだからぁ…今遅番だからそれから電車乗ったり歩いたりしてたらこんな時間にもなるの。近所迷惑だから、帰って」
「お前っ…彼氏に向かってそんな言い草無いだろ!」
「じゃあ別れる」
「っはぁ?とりあえず部屋に入れろって…少し落ち着けよ」
「落ち着いてるし、部屋には入れない」
「なんでだよ…!じゃあやっぱり男と一緒にいるのか!?」
「どうしてそうなるのよ…。部屋に入ったら何されるかわからないじゃない」
「っ…男を舐めんのもいい加減にしろよ!」
隣に住んでるやつか?女性のほうは耳を澄ませないと聞こえない程度にちゃんと周りに配慮して話しているというのに、男のほうは怒りに任せて好き勝手に声を荒げている。邪魔するのは野暮か、むしろ余計に男がどうとかという話しに火をつけるだけか、さらに言えばこんな明らかにめんどくさいとわかるようなものに首を突っ込むほどお人よしでもなんでもない。出て行くに出ていけなくて、そのままでいると、最後の怒鳴り声の後に確実に肌を叩いたようなパシンッという音、どっちがどっちを叩いたのか、それはすぐにわかった。その甲高い音が鳴り響いてすぐに「いたっ」という声とガンッという鈍い音が聞こえた。ため息を吐いてすぐにドアノブをまわして外へ出た
「こんばんはー」
「あ、こんばんは」
一応自分が出て行く事でその女性を掴んでいた手を離したようだが、自分がそっちに背中を向けて歩き出したらまた物音が聞こえたので振り向いた。そうするとまた動きが止まるが、今度はその男は手を離そうとはしなかった。女性のほうは俯いていて表情が見えない
「なんだよ」
「みょうじ」
あの時カードに書かれていた名前を呼んでみたら、その女性がゆっくりと顔をあげてこっちを見てきた。第一印象は綺麗な女、そこだけ不思議な雰囲気に包まれているような感じがして、彼女がまとう空気が不思議で何を考えているのかわからない…会ったばかりだからそうなんだろうけど、ただ反応してこっちを見てきたという事はこの女性が隣人で間違い無さそうだ
「コンビニ行くけど、一緒に行くか?」
「何言ってんだよ、こいつは今俺と…あぁ…そういう事かよ!お前も浮気してたんじゃねぇか!」
「うるせぇな、職質すんぞ。手錠かけられたくなきゃさっさと帰れよ」
特にチラつかせるつもりは無かったのだが結局丸く収めるために警察手帳をチラつかせると男はやっと黙って、それから女のほうは俺のほうに急ぎ足で歩み寄ってきた。隣に並んだ女性は特にはしゃいだ様子もほっとしたような様子もなく、ただ当たり前のように隣に並んで長い、パーマのかかった髪を耳にかけた。伏せたような視線、長い睫が瞬きをするたびに前髪に触れて、それからその視線がゆっくりとこっちに動いた。その場を後にしてすぐ近くのコンビニまで行けば無言で歩いていた女性がやっと肩を撫で下ろして息を吐いた
「ありがとうございます…助かりました」
「別に。あんたの彼氏…あぁ、もう別れたか。そいつが五月蝿かっただけ…それよりもどこも痛くねぇの?」
「大丈夫です」
「ふーん。コンビニは?何か買うか?」
扉を潜る前に問いかけたら首を振ったので、少し待っとけ、と言うと中ではなくて外で待つつもりらしくて、店の窓ガラスから少し離れた所にしゃがんでいた。当たり前か、窓ガラスには虫が沢山張り付いてる。外にいたら蚊に刺されるんじゃないかとか、色々と考える事はあるけど外にいたい気分なのかもしれない、とさっさと買い物を終わらせた
まだ扉が開く前にその女性を見たら、手首を見て、それからずっと下を見ていた。扉が開くとこっちに気づいて顔をあげる
「待たせたな」
「いえ」
「ほら食え、暑いだろ」
「ありがとうございます」
「ん」
アイスを渡すと、遠慮する事なく受け取って食べた。またほんの数分の道のりを歩いて行きながら引越しの時に、ちょうどいなかった事を適当に詫びた。「何で謝るの」と笑ったこの人は年下だと思ったら同じ歳だった
部屋の前まで来ても、あの男はもういない。先ほどよりも声を小さくさせた彼女が再びお礼をしてきた、同時にアイスのお礼も…この女性の名前はみょうじなまえというらしく、先程の男は彼氏で浮気をされていたとか。ただ浮気されたと言う割には何も気にしてなさそうに見えて、それを指摘したら格段好きってわけでも無いらしい…興味あったから聞いたけどめんどくせぇ女。少しそんな話をしてそれぞれ自分の部屋の扉に向かった
「そっちの名前聞いて無かったね」
「松田じんぺ」
「じんぺーちゃん!!」
名前を言おうとしたら途中でドアノブが回ったので、開けられると思って後ろに下がったら萩原が出てきた。上半身裸で。幸いにもみょうじからは扉のせいで見えていないらしい、あっちの扉が開く音が聞こえたからこれでバイバイだな、と見ているかどうかはわからないが扉を押さえた手を軽く振れば「ふふっ」と笑う声が聞こえたので見たんだろう。自分も家の中に入った。
「で?」
「あぁ、起きたら松田がいないからさ…あっちぃしどこ行ったのかと思って」
「コンビニ。っつーか窓開けてんだろ」
「風入ってこねぇもん」
「あぁ」
「飲むか?」
「んの前に一服」
「俺も」
部屋の中に煙草の臭いが充満するかと思ったけど、案外窓の外のほうへと流れていった。そのまま吸い続けてベランダのほうに寄っていったのは、なんとなく月でも見ようかと思ったのだが、隣から咳が聞こえてきた
「…萩原、煙草消せ」
「え?なんで?」
「隣の部屋に行ってんだよ」
いつもはクーラーをつけて換気扇のところで吸っていたし、多分みょうじと時間がずれていたり、はたまた窓を閉めていたりなんてして自分たちの煙が隣に行く事は無かったのだろうが、今日は窓を開けているらしい、咳が鮮明に聞こえた。煙草の先端を灰皿に押し付けた萩原が袖に腕を通しながらベランダにいる俺のほうへと歩み寄ってきた
「どうした?今まで気にした事無かったろ」
「それが」
「しつこいのよ…何回も電話して来ないで」
ベランダから二人で顔を出したせいで、隣の声が聞こえてきた。それでもすぐに扉が閉まった音が聞こえて完全に声が聞こえなくなった。
「隣女の子?」
「みてぇだな」
「ふーん」
あっちの窓が閉まったから再び煙草を吸って、お酒を飲んでまた寝た。朝起きたら萩原はいなくて「仕事」と一言メールが入っていた…仕事って、俺もじゃねぇのか…なんて思っても電話の履歴はなし、そのまま休みでいいらしい。交代制で萩原が仕事、俺は二連休を堪能していいってわけか…寝汗もかいたのでシャワーを浴びてから何か食うものでも買いに行こうと思って部屋から廊下に出たら、隣の部屋に耳をつけてるあの男がいた
「おわまりさーん…あ、俺か。お前そこで何してんの?」
「あ、お前昨日の!関係ねぇだろ!」
「ストーカーか?」
隣のドアをドンッと強く叩いてからそいつがどこかへ行った。めんどくせぇことに首を突っ込みたくない、突っ込みたくないのに真隣でこんなにいつもいつもドンドコやられていても気が散るし気になる。深くため息を吐いてからみょうじの扉の前に立ってチャイムを押した
カタン、という物音が聞こえるからそこにはいるんだろう。コンコン、と優しく扉を叩いて「俺、隣の」とまで言うと鍵が開いて中からみょうじが出てきて挨拶をしてきた後に、腕で扉を押さえている俺の腕の下に頭を入れて廊下を見た。こういう事するか…、っても離したら危ねぇしそのままにしていたら確認し終わったらしく元の位置に戻った
「あ、ごめん」
「別にいいけど。アイツならさっきどっか行ったぜ?」
「そっか、ありがとう。それでどうしたの?」
どうしたの?じゃねぇよ、人が心配してやってんのにケロッとした顔しやがって。別に、通りがかり、なんて言おうとしたら俺の腹が鳴ったから、先程言おうとしていたそれの代わりに「腹減った」というとみょうじが目を丸くさせて、それから「食べてく?」と問いかけてきた。そんなつもりは毛頭無かったが暑い中コンビニに行くよりはマシだろうと思い部屋の中にお邪魔した。
当たり前だが自分と同じ間取りなはずなのに、なんとなく違う場所に感じるそこと、入った瞬間に鼻腔をくすぐる匂いは、男の部屋とまったく違う。部屋の中に通されて座らせられて、出されたものはブラックのアイスコーヒーに、はちみつがたっぷりかかったフレンチトースト、サラダと目玉焼き
「甘そう…」
「文句があっても食べて」
「食うな、じゃねぇんだ」
「だってもう焼いちゃったから、勿体ない」
「確かにな」
この人の言うことは一理ある、だから口角が若干吊りあがっただけだったのだが、それを見て目を丸くさせてきたので視線をそっちに向けたら、みょうじが桃色の唇に孤を描いて可笑しそうに笑った
「笑うんだ」
「あんた俺をなんだとおもってんだよ」
「無愛想な人かと」
「まあ、間違っちゃいねぇな…。いただきます」
「いただきます」
ところでなんで俺はつい先日知り合ったやつと仲良く朝飯食ってんのか…あぁ、自分が朝から隣に来たあの男が気になって話しかけたのを、適当に誤魔化したのが原因か。そもそも自分だけのぶんしか作っていないはずなのに、ポンと二人分出てきたのが気になるな
「もしかして、さっきのやつのぶんも作ってた?」
「え?」
「量、俺のとあわせると二人ぶんだろ」
「あー……」
苦笑いを浮かべて口の中に目玉焼きを入れた彼女が、そのままフォークを口の中に入れたまましばらく動きが止まって、それからため息を吐いたと思ったらこっちのほうを見てきた
「どっちも私のぶんなの…。私凄い食べるから…」
「本当に言ってる?」
「うん」
「…じゃあ、それだけで足りねぇんじゃ」
「いいの。どう取ってもお腹はすくから」
「あ、っそ…」
気にしないで、と断固拒否するように手を前に出して手の平を俺に向けてきた。気にはするけど食ったもんは仕方ないし、全部食べた。片付けだけでもしようかと思って片付けに行くと驚かれる、第一印象や見た目だとわからないんだね、なんてしれっと失礼な事を言って来るこいつ。台所に立たれるのは嫌いじゃないらしく、そのまま茶碗洗いをさせてくれたのでそれだけはお礼としてやっておいた。それからはなんのあれこれも無くみょうじの家から出て買い物をして帰宅、その後あの男とどうなったのかは知らないがあれっきり男は見てないし、みょうじも見なくなった。まさか死んでないよな?なんて思いつつも関われないのは友人でもなければ知り合いと呼ぶにしても浅すぎる関係で、飯を一緒に食べたというそれだけの関係だった
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