▽ 1
『世の中には理論的に証明できないことが起こり得る。』
そう言って一体どれだけの人が信じるのだろう。
―――――
「さむ・・・。」
車のドアをあけて降りようとした優華は外気の冷たさにブルリと体を震わせると、黒のカーディガンを取って羽織る。その下に来ているのも真っ黒な服――礼服だった。助手席に置いてあった菊の花と携帯電話、そして少し古びた懐中時計をその手に取ると、車のドアを閉めて鍵をかける。そしてまっすぐと目的の場所へと歩いていく。
つい先日まで暑さを感じていたと思ったのに、いつの間にか肌寒さを感じる季節になっている。ここが山だからというのもあるかもしれないが。目の前に広がる木々は瑞々しい緑色ではなく、赤や黄色など様々な色へと姿を変えている。日々が過ぎるのはとても速いものだ。そんなことを考えながらしばらく歩くと目的の場所にたどり着いた。優華の目の前にあるのは『桜月家』と書かれた墓石だった。優華は唇を噛みしめると、ゆっくりと墓石へと近付いていく。
「来たよ。お父さん、お母さん。・・・お兄ちゃん。」
そこに眠るのは優華の大切な家族たち。優華が高校生の時に不慮の事故で他界してしまった両親、そして2年前にこの上なく不条理な理由で命を落とす羽目になってしまった兄。
優華は俯いたままその手を強く握りしめる。
なぜ自分一人だけがこうして生きているのだろう。
そんなことを考えていた時。
「みーつけた。」
突如聞こえてきた声に、優華は息を呑んで凍り付いた。忘れたくても忘れられない声。この上なく怖くて、そしてそれ以上に憎くて憎くて仕方のない声。優華はまるで壊れかけの人形のようにゆっくりゆっくりと振り返る。
「っ・・・!な・・・んで・・・っ!」
そこには一人の男の姿があった。年は優華とそう変わらない若者。なのにその目はギラギラとした隠そうともしない情欲に溢れており、その醸し出す雰囲気は誰が見ても異常と思えるものだった。
「なんで?そんなこと決まっているだろう?君を迎えに来たんだよ。優華。」
「っ!ふざけないで!」
「ふざける?何をだい?・・・ああ、もしかして迎えに来るのが遅くなったから怒っているのか?2年前僕たちを引き裂こうとするあいつに邪魔されて、君を迎えに来るのに時間がかかってしまったけど、もう大丈夫だよ。これから先はずっと僕が一緒にいてあげるから。」
恍惚の表情を浮かべながら一歩一歩近づいてくる男に優華も後ずさる。
「ところでその目はどうしたんだい。・・・そんな偽りの姿をしなきゃいけないなんて。ああ、でも本当の君を見れるのは僕だけでいいか。・・・そう、誰にも見せる必要はない。」
「君の瞳は僕だけのものだ。」
優華はゾクリと背中を震わせるとはじかれた様に走り出す。しかし、一歩早く反応した男が優華の腕を捕まえる。優華は力いっぱい手を振り解こうと抵抗するが、男と女の力の差は明白で全くびくともしない。
「離して!」
「どこへ行こうというんだ?僕から離れようというのか?・・・そんなことは許さない。」
骨がきしみそうなほど強く握られ、優華は苦痛に顔を歪める。そんな優華の姿を見て男は舌なめずりする。
「うん・・・その顔もいいね。そそられるよ。」
優華の顔を覗き込むようにしてニヤニヤと笑うその顔に優華は吐き気を覚える。
気持ち悪い。
「離して!!」
渾身の力を振り絞って男を突き飛ばすも、男はよろよろとよろけながらも踏みとどまる。その隙に逃げようとする優華の腕を再び捕まえると、そのまま落下防止で設けられている木の柵へと押し付け、その細い首に手を伸ばす。その瞳には怒りの感情が溢れている。
「逃げようなんて許さない。」
「あ・・・っ・・・。」
死刑宣告のように冷たい一言と共にギリギリと凄まじい力で首を圧迫され、優華の視界はクラリと歪む。
ここまでか――。
薄れゆく意識に優華が諦めかけた瞬間、押し付けられていた木の柵がミシミシと音を立て次の瞬間に二人の体は宙へと投げ出された。
「うわああああ!」
男の悲鳴がどこか遠くで聞こえているような気がする。
お兄ちゃん、ごめん―。
優華がそんなことを思いながらゆっくりと意識を手放そうとしたその瞬間。ポケットに入れられていた懐中時計が光を放ち、優華はその光に包まれた。
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