ファーストキスはレモンの味か



オンボロ寮、談話室。ページを捲る音と、ペン先が紙の上を滑る音だけが聞こえる静かな部屋の中、監督生とエースは課題に立ち向かっていた。今日は珍しくも二人だけで、部活中のデュースと補習中のグリムはこの場にいない。

普段ならこの時間はエースも部活があるのだが、今日は諸事情で体育館が使えなくなり、彼の所属するバスケ部は休みとなったのである。しかし、ラッキーだと喜んだのも束の間で、その知らせを受けた次の授業でたんまりと課題が出されてしまった。

積み上がった課題のプリントを見て「早めに手をつけ始めたい」と言った、そこそこ真面目な監督生に誘われ、エースはこのオンボロ寮で課題に取り組んでいるという訳である。二人は教科書にノート、図書館で借りてきた参考書などを机いっぱいに広げ、向かい合って考えに耽っていた。

先に集中力が切れたのはエースだった。ごとりと乱暴にマジカルペンを机に放り投げると、ぐぐぐと伸びをする。向かい側では、その音に驚いた監督生が肩を揺らしていた。

「ちょっとエース、びっくりしたじゃん」
「わりぃわりぃ」

咎める声に、エースは悪びれた様子もなく形だけの謝罪を口にする。もはや慣れっこであるその態度に、監督生はひとつため息をついて立ち上がった。

「休憩にする?購買で買っておいたおやつがあるんだけど」
「待ってました!監督生サイコー!」

おやつの一言にエースはパッと顔を輝かせる。ここにデュースがいたら「調子のいい奴だな」と呆れたように言ったことだろう。監督生も同じように思ったが口には出さず、机の上を簡単に片付けた後、「手伝わない人には出さないけどね」とにこりと笑ってキッチンへ消えた。

「分かってるって。ちゃんと手伝うからさぁ」

後ろから少し拗ねたようなエースの声が追いかけてくる。そのことに監督生は「かわいい奴だな」と思うも、それを声にすることはなかった。

オンボロ寮のキッチンはそこそこの広さがあるが、監督生が使うのはその一部だけだった。他は物置と化しており、その大部分にはグリムの種々多様なツナ缶が山積みにされている。

二人は狭い調理場に横並びになってティータイムの用意をした。監督生がいつものくせで四人分のカップを出したことに、エースがゲラゲラと笑う。

「残念だけど今日はオレしかいないんだよね」
「うるさいなぁ、ちょっと間違えただけじゃん」

監督生が「怒っています!」といったような顔をエースに向ければ、彼はニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべた。

「はいはい、分かった分かった」

あしらうようにそう言って、ぐしゃぐしゃと監督生の頭を撫でる。

「おやつは?どこにあんの」
「……戸棚の中。右のやつね」

不服そうな監督生の声を聞きながら、エースは言われた通り戸棚の扉を開いた。それらしき箱を見つけ、テーブルの上に置く。

「なにコレ、焼き菓子?」
「そう。レモンケーキだよ」

紅茶用のお湯を沸かしていた監督生が答えた。エースの隣からそっと手を出し、レモンイエローの箱を開ける。その中には個包装のケーキが四つ並んでいた。四つあるということは、監督生、グリム、エース、デュースの分なのだろう。

「監督生、オレ達のこと好きすぎでしょ」

ニヤニヤと笑ったエースがそうからかうと、監督生は開き直ったように「そうだよ、めちゃくちゃ好きだよ」と彼を見つめ返す。エースは一瞬たじろいだが、すぐに取り繕って目線を逸らした。

「あっそ……まぁ?オレもそれなりに好き、だけどね」
「ふふ、うん。私達マブだもんね」

マブ。それは、デュースのワル語録を気に入って使っている、エース達の関係性を表す単語だ。傍から見てもエース達はマブダチというやつに違いないだろう。

しかし、エースは時々、監督生から発せられる「マブ」という言葉に引っ掛かりを覚えることがあった。理由など単純だ。考えないように、と普段は押し込めている感情が邪魔をしてきただけに過ぎない。

「監督生、お湯沸いてる」
「あっ、ホントだ」

いつの間にかぐらぐらと沸いていたやかんを見て、監督生が慌てて火を消しに行く。それを横目に、エースは人知れずため息をついた。

頼むから余計な真似をしてくれるなと、己の邪な感情を押し殺すように。

淡い花弁を散りばめたような意匠のティーポットから、同じ模様をしたカップに紅色の液体が注がれる。ふわりと香る甘い匂いに、監督生は顔を綻ばせた。

「入れるの上手だね」
「あんだけお茶会開いてりゃ、嫌でも出来るようになるよ」

そんなエースのぶっきらぼうなセリフも、いつものツンデレ芸ね、と監督生は簡単に聞き流してしまう。それだけ気心の知れた仲だということの証左でもあった。

「いいなぁ、ハーツラビュル」
「転寮する?」
「しないけど、お茶会の日だけはラビュル生になりたいかも」

監督生は紅茶と甘いものに目がない。それ故に、よくハーツラビュル寮を羨んでいるのだ。

同じ甘味好きとしてリドルとは話が合うし、お菓子作りのプロであるトレイのことは崇拝しており、逆に甘いものが苦手なケイトからはよく映えるお菓子を譲ってもらっている。

「流石に都合良すぎでしょ、それ」
「うん。でも最高じゃん?」
「それはそう」

ダハハ、と下品な笑いを零しながら、トレーに乗せたカップとケーキを談話室まで運ぶ。「オレが持つからいいよ」と言われてしまい手ぶらだった監督生は、エースを先回りして扉を開けた。

エースが広げっぱなしにしてあった教科書達を、適当にテーブルの端へと避ける。紅茶とレモンケーキを並べれば、簡易なお茶会の始まりとなった。

「お、これ結構美味いな」
「ね。これはリピート決定だなぁ」

生地に練り込まれたレモンピールが爽やかな風味を出していて、詳しいことはよく分からないが、とにかくとても美味しい。

以前、皆で「夏は甘酸っぱいものが食べたくなる」という話をしていたことを、監督生はしっかりと覚えていた。それ故にレモンケーキを買ったのである。

監督生は甘酸っぱいものと言われて、レモンくらいしか思いつかなかった。元の世界由来の刷り込みも大きかったのかもしれない。そして、レモンから連想される事柄も、元の世界での常套句だった。

「ねぇ、エースってキスしたことある?」

監督生の発言に、エースはゲホゲホと盛大に噎せた。丁度飲んでいた紅茶が気管に入ってしまったらしく、口を押えて苦しみながら監督生に水を要求する。

「ど、どうしたの急に」

慌ててキッチンから水を持ってきた監督生は、グラスを渡しながらエースの背中を摩った。エースは受け取ったそれを一気に呷り、ドンと大きな音を立ててグラスをテーブルに置く。

「それはこっちのセリフだっての!」
「え、え、なにが?」
「脈絡もなくキスしたことあるかなんてフツー聞かねぇだろ!」

突然怒り出したエースに、監督生は本気で困惑していた。それもそのはずで、監督生は今食べているレモンに関する話題を振ったつもりだったのだ。

しかし、ここは異世界、ツイステッドワンダーランドである。異世界ギャップとでもいうのか、残念ながら監督生の意図は通じなかった。

「えっと、私のいた世界では、ファーストキスはレモンの味ってよく言うんだけど……こっちでは言わないんだ?」

なんとなく決まりが悪くなってしまった監督生は、大人しくエースの隣に腰掛けた。そんな監督生を見やりながら、エースは首を捻る。

「なにソレ、全然言わないけど」

バッサリと切り捨てられ、監督生は少し落胆した。監督生は知らなかったのだが、「ファーストキスはレモンの味」という話は昔流行った曲の歌詞が由来だ。こちらの世界にその曲がない以上、エースが知らないのも当然のことである。

「てかその話関係なくね?」
「いやあるよ!したことあるなら本当にレモンの味がしたのか聞こうと思ったの!」
「へぇ」

エースは呆れたように監督生から目線を外し、ケーキを口に運んだ。爆弾発言にザワついた心を甘い舌触りが溶かしていく。

時折ギョッとするようなことを言い出す監督生には驚かされてばかりだ。当の本人は、「全然聞かないじゃん……」と恨みがましい視線をエースに送っているのだが。

そんな中、エースにはほんの少しの悪戯心が芽生えていた。たまにはこちらから驚かせてやろうという、ちょっぴりの反逆である。

「なに、キョーミあんの?」
「え?」
「ファーストキスが、レモンの味か」

にんまりと口角を上げれば、監督生は「うっ」と言葉に詰まった。そして目をあちらこちらに泳がせたかと思うと、エースの方へ向き直る。

「そりゃ、まぁ、ちょっとだけ」

その回答に、エースは意外だなと思った。監督生のことだから、てっきり「そんな訳ないでしょ」なんて風なつまらない答えが返ってくると踏んでいたのだ。

予想外の反応にエースの加虐心がむくむくと育つ。ちょっとばかし意地悪をしてやろうと、監督生の肩を掴んだ。

「じゃあ、確かめてみる?」

近づいてきたエースに、監督生は目を丸くする。「え、ちょ、待って、エース」と慌ただしく口を動かしては、エースの肩を押した。しかし、バスケ部で気まぐれな先輩に鍛えられている体はビクともしない。

赤い瞳がじっと監督生を見つめている。お互いの鼻先がぶつかる手前で、エースは顔を傾けた。

本当にキスされちゃう、と監督生が目を瞑った瞬間、肩からパッと手が離れ、エースが「アハハ!」と笑い声を上げた。

「冗談だって!なに本気にしてんの」

は〜笑った、と涙を拭う真似をするエースの腕を、からかわれたことに気が付いた監督生は躊躇なくバシバシと殴る。しかし、監督生の力では大した攻撃にもならず、エースは何処吹く風で冷めてしまった紅茶を飲んでいた。

「バカバカ、エースのバカ!デュースに言いつけてやるから」
「いやなんでだよ」
「私じゃ威力ないから、代わりに一発入れてもらう」
「え、オレあの馬鹿力に殴られんの?」
「そうだよ!」

監督生は「どうだ、参ったか」とでも言いたげに、何故かしたり顔を向ける。虎の威を借る狐という表現がぴったりだ。その様子がどうにも、エースは癪に障った。

「……嫌がらなかったくせに?」

言わなくていいことを口に出したという自覚はあった。だが、よく回る口は止まらない。

「嫌なら嫌って言えば良かったじゃん」

視界の先の監督生はひどく狼狽えていた。エース、とか細い声が名を呼ぶ。それでも止まれなかった。

「言わなかったってことは嫌じゃなかったんでしょ。オレとキスしたっていいと思ったんじゃねぇの?」

そう言い切った途端、監督生はダンと強くテーブルを叩いた。カップが揺れて、残っていた液体が波音を立てる。

「私を弄んで楽しい?」

意志の強い目がエースを咎めるように見つめた。監督生がこれほどに感情を顕にすることはめったにない。刺々しい声色も、エースに向けられたことは今までなかったのだ。

本気で怒らせてしまった。そう気がついて、エースは血の気が引くのを感じた。

「……ごめん、ホント、そんなつもりじゃなくて」

俯いて、膝の上で手を痛いほどに握る。そんなことをしたって、謝罪にもならないことは分かっていた。

「じゃあ、どういうつもりなの」

動揺していたエースに対して、監督生は自分でも不思議に思うほど冷静になっていた。エースの態度が嘘だとは思えなかったからか。それとも、監督生が察しの良い女だったからだろうか。

「嫌がると思ったら嫌がんないから、びっくりしただけで……傷つけようとした訳じゃない」

エースは「なんで嫌がんねぇの」と泣きそうな声で独りごちる。そんな彼の手を自分の両手で包み込み、監督生はおもむろに口を開いた。

「だって、嫌じゃないんだもん」
「……は?」
「嫌じゃなかった。エースの言う通り、キスしたっていいと思ったよ」
「は、それは、どういう……」
「ここまで言えば分かるでしょ!これ以上言わせないで」

ぷいと顔を背けた監督生の耳は、真っ赤に染まっていた。そのくせ、エースの手を握る柔い手はそのままで、監督生が返事を待っていることは明らかだった。

「なぁ、名前」

エースが名前を呼べば、監督生の手がぴくりと反応する。彼女の手をそっと解くと、エースは指を絡めるようにして繋ぎ直した。

「こっち向いて?」

甘い声が監督生の耳を擽る。少しばかりの時をおいて、監督生はエースの方へ振り返った。潤んだ瞳がいじらしくて、エースは思わず繋いだ手に力を込める。

「……なに」
「さっきはごめん」
「……うん、いいよ」
「あのさ、オレ、」

名前のことが、とまで言った時だった。ガチャとドアノブを捻る音がして、扉が開かれる。生ぬるい風と共に騒がしい声が部屋内に響いた。

「子分〜!ただいまなんだゾ!」
「さっきぶりだな、監督生」

青い炎が瞼を焼く。ご機嫌なグリムが運動着に身を包んだデュースに抱かれて、茶葉の香りが広がる談話室に足を踏み入れた。

「……何してるんだ、二人とも」

デュースの怪訝な声が、居心地悪そうに部屋を歩き回っていた監督生とエースに突き刺さる。二人は扉が開く瞬間、ほぼ同時に手を離し、意味もなく別々に立ち上がったのである。

「いや?別に?」
「課題が結構大変で、嫌になってきちゃって……それでちょっと運動してたの。ね、エース」

下手に突っ込まれないように、と端的に誤魔化したエースとは対照的に、監督生はなんとも不自然な言い訳をした。

それを聞いたデュースは「腑に落ちない」とでも言いたげな顔をしていたが、それ以上追求することはなかった。

「二人とも疲れたでしょ。お茶入れてくるね」

これ幸いと監督生はその場を離脱する口実を作り、キッチンへと逃げる。偶然キッチン側にいたエースは、その途中でいつものように監督生の肩へ腕を回した。

「手伝ってあげよーか?」
「だ、大丈夫!それより、テーブルの上を片付けておいて欲しいかな」
「ん、オッケー」

いつも通りを意識しすぎて、監督生の言動はどこかぎこちない。自覚はあるのだが、エースのようにうまく切り替えることが出来ないのだ。

「なんでもいいから早くこの場から立ち去らせて!」とエースに念を送るも、彼は分かった上で監督生を引き留めていた。

「名前」

エースが監督生の耳に唇を寄せる。低音が心地よく響いて、監督生は思わず身を固くした。吐息混じりの小声が彼女を揺さぶる。

「続きは今度ね」

それだけ言うと、エースはパッと腕を下ろした。そして、何事もなかったかのようにテーブルへ向かう。

「課題は進んだのか?」
「まぁそこそこ。ちょっと前に集中力切れて休憩してた」
「何食べてたんだゾ?」
「レモンケーキ」
「へぇ、いいな。美味そうだ」
「オレ様達のもあるのか?」
「心配しなくてもあるって。グリムはホント食い物のことばっかだよなぁ」
「はは、確かに」

グリム達とのたわいもない会話が聞こえてくる。ドキドキとうるさい鼓動を、熱くて溶けそうな顔をどうにかするために、監督生はそそくさとキッチンへ消えた。

新しくお湯を沸かし直して、お皿にケーキを乗せる。形までレモンのこのケーキを見る度、今日のことを思い出すだろう。

「今度って、いつだろう……」

初めて見る、エースの熱っぽい視線を思い返して、監督生はその場にずるずると座り込んだ。ぐらぐらとお湯が沸いている。

確信的な言葉を聞くまで、あと数時間。



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