慰めの呪い
わたしの視界はどうやら一般的ではないと気づいたのは小学校にあがってからだった。わたしは人には見えないものが見える。とはいえ、それはわたしにとって大した問題ではなかった。なぜなら、ただ異形が見えるというだけで怖い目に遭った経験もなかったからだ。
「ヤバいヤバいヤバい!!」
しかし、それは昨日までの話である。二十分前ほどにバイトが終わり、わたしは一人家路についていた。なんてことのない、いつも通りの一日であるはずだった。異形のものが突然こちらに向かってくるまでは。
「なん、っで、なんで、追いかけて、くるの!?」
逃げなければ、と咄嗟に判断したわたしは来た道を回れ右して駆け出した。が、高校の体育以来の全力疾走はそう長く続かない。足はもう限界だし、呼吸が乱れて肺が痛い。逃げきれない。後ろ向きな思考が脳をよぎるのも当然のことだった。
「これ、死ぬ……」
異形との距離を確認するために振り向くと、そいつはすでにわたしの目の前までやってきていた。その距離およそ五十センチ。わたしは人生で初めて自分の死を悟った。走馬灯すら流れない。助けを求める間もないまま、わたしは一生を終えるのか。そう思った直後、異形のものが姿を消した。
「危機一髪やなぁ」
その代わりに、視界の先では和服を着た金髪の男がわたしに笑いかけていた。わたし、助かったのか。生きているのか。どこの誰なのかも分からないというのに、その声の優しさにわたしはひどく安堵して、思わず目の前の人物に抱きついた。
「おーおー、どしたん大丈夫か〜?」
彼は拒絶することもなく、ぽんぽんとあやすようにわたしの背中をさする。彼の胸にすがりつくと、心臓の拍動が聞こえた。ああ、この人は人間だ。もう大丈夫。
「……ごめんなさい、突然」
わたしはそっと彼から離れ、パーカーの袖口で適当に目元を拭った。そして深々と頭を下げた。
「助けていただき、ありがとうございます」
パッと顔を上げると、彼はまた優しく笑った。
「ええよええよ。仕事の一環やから気にせんといて」
聞き慣れない方言が心地いい。何だか別世界の人のようで、先程までの恐怖がいくらかマシになっていくのを感じた。下手くそに笑い返すと、瞳に溜まっていた涙が零れる。それを見て彼は親指ですっとわたしの目元をなぞった。
「もう心配するようなことはあらへんよ。安心し」
彼は幼子に言い聞かせるようにそういうと、わたしの手を取り歩き出した。どこに行くのかと聞く前に大通りに出る。彼は適当なタクシーを呼び止め、わたしに乗るように促した。
「あ、あの、」
「気をつけて帰りや」
「あ、はい、じゃなくて、」
誘導されるままタクシーに乗り込むと、彼はわたしに五千円札を手渡した。反射的に受け取ると、またねと手を振られる。お礼も十分に出来てないないのに、その上こんなことまで。
「な、名前!名前教えてください!」
向こうへと歩き出してしまった彼をせめてもと呼び止めると、彼は思案するように立ち止まり、振り返って先程までとは打って変わって勝気な笑みを浮かべた。
「直哉。禪院直哉や」
それだけ言うと彼はまた歩き出した。あんな顔を見て再び呼び止めることなど、わたしには到底出来なかった。
タクシーに揺られながら、わたしは「名前じゃなくて連絡先を聞けばよかった」とか「あの方言はどこのなんだろう」とか、そんなことばかりを考えていた。
「……なおやさん、か。どんな字だろ」
あんな目に遭った後だというのに、能天気にも程がある。我ながらそんな自分がおかしくて少し笑った。手渡された五千円札を握りしめ、お守りのように財布にしまった。いつかまた会えたときに、あの人に返せるように。