出てきた言葉は五文字だけ




仕事が休みである日曜日に押しかけた真菰の家で、紅茶をご馳走になりながら心安らぐひと時を過ごしていた。小中高校時代はほぼ毎日顔を合わせ、大学時代も暇を見つけては会いに行き、社会人となった今、彼女と過ごせる時間は減ったものの一緒にいる時間の密度は変わらない。むしろ会えない時間が増えた分、互いの生活の報告には花が咲いた。些細なことでも話は弾み、気が付けば一時間、二時間と飛ぶように過ぎていく。そんな中、先日のホーム転落未遂事件を話すと流石に真菰も驚いたようで、大きな目を更に大きく見開いた。


「名前ったら気をつけてね。私もずっと見ていられるわけじゃないんだよ。」
「ごもっともです…。」


ぎゅっと抱きしめられて背中を擦るように撫でられる。その温もりを確かめるように抱きしめ返す。もし、あのまま転落していたら、この両腕で真菰を抱きしめ返すことはできなかった。真菰の服を皴にならない程度に指で引っ掛けて掴む。真菰はただ、私の不注意のみを優しく咎めた。素直に聞き入れて返事をする傍ら、肩口に額を当てて擦りつけている私に、彼女は本当に聞いてるのかと少しだけ怒りを含ませた声を出した。怒った真菰は錆兎よりも怖い。瞬時に軽く姿勢を正して聞く姿勢を取った私に満足したのか、真菰は体を離した。


「…それで、義勇にお礼は伝えたんだよね?」


あの日、駅員に声を掛けられて我に返ったものの喪失状態だった私を、冨岡は家まで送ってくれた。私が頼んだわけではない。勿論、彼が送っていくと告げたわけでもない。家に向かって歩く私の数歩後ろを近づきすぎないように、かつ離れないように着いてきたと形容するのが本来であれば正しいのであろう。そこに会話はなかったが、彼は完全に酔いが醒め切っていない私の身に何かあれば手を貸してくれたはずだ。頭では十分に理解をしていたものの、私のちっぽけなプライドが邪魔をして、家に着いた後も碌にお礼も言わず中に入ってしまった。自身も酒を飲んでいてすぐに帰って横になりったかっただろうに、良かれと思って面倒を見た相手にはお礼の一つもされず。酷い奴だと我ながら思う。無言を貫いていることで大方察したのであろう真菰は私の頬を両手で挟んだ。


「名前が義勇を好ましく思ってないことは前々から知ってたけど、それでも今回はお礼を言わなきゃだめだよ。」
「…でも、時間が経っちゃってどうしたらいいのか分からなくて。」


お礼を言おうと努力はしたのだ。歓迎会があった日の週明けの月曜日、朝礼前の静かなうちに言い逃げでもいいから伝えようと冨岡の机を見たら姿がない。普段であれば絶対に尋ねない体育教官室ももぬけの殻。校舎内を歩き回ってもやはり姿は見えなかったため、休みと断定して窓に肘を置いてグラウンドを見れば、風紀委員の男子生徒と共に校舎に戻ってくる姿を発見した。風紀委員会担当となると、毎朝校門の前に立って身だしなみチェックに勤しんでいるのだろう。つまり、目立たず朝にお礼を言うのは難しい。次のチャンスは昼休憩。しかし、昼休憩になると彼は忽然と姿を消してしまう。居ない方がいいいつもと違い、居ないことを恨めしく思う。結局見つけられず昼休憩も断念。放課後は互いに部活動の顧問として生徒指導に当たっているため話す暇などない。帰る時間もバラバラだ。一番身近にあるトークアプリは四人グループはあれど冨岡個人は登録していない。友達申請することも考えたのだが、申請ボタンもこれまた押せず。

そんな一週間が過ぎて完全にタイミングを失った私は途方に暮れていた。もはや諦めていた。私と冨岡のことだ、これを機に何かが変わるわけでもない。またしても黙り込んだ私を見た真菰は、私の頬から手を離すと、よし、と手を叩く。そして立ち上がった彼女は笑顔で手を後ろに組み、背中を折り曲げて座っている私と目線を合わす。


「今から義勇の家に行こう。」
「……え?」
「なるべく人に見られずこっそりお礼を言うならそれが一番手っ取り早いでしょ?」


名案と言わんばかりの真菰の提案は非常に気の進まないものであった。確かに冨岡にお礼を言う姿など人に見られたくはないが、家まで押しかけるのはどうだろうか。出会った当初は何度か遊びに行ったことがある為場所は知っていて、歩いていける距離にはある。


「最後のチャンスになるかもしれないよ。」
「分かってるけど…。」
「途中まで私も着いていくから大丈夫。」


念押しされて半ば強制的に立たされた私の背中を真菰はぐいぐいと押す。靴を履かされ家の外に締め出されると、とうとう後戻りはできなくなった。歩き出そうとした私に対して、真菰は靴をまだ履いていない。まさか「着いていく」とは家から出してそれで終わりなのか。いくらなんでも薄情だと言いたくなった。せめてすぐそこの角を曲がるまではと言いかけた私に、真菰は「鍵を取ってくるから待ってて」と言ってリビングまで走っていってしまう。今日はご家族が居たはずだから戸締りは問題ないはずだが。一分もしないうちに戻ってきた真菰の手には愛車の鍵が握られていた。


「冨岡の家なんて歩いて行ける距離だよ?」
「…やっぱり、義勇の話聞いてなかったんだね。引っ越したんだよ、就職と同時に。」


続きは車の中で話すから、と先に車に乗った真菰に続くようにして助手席に乗り込んだ。エンジンをかけるとカーステレオから聞こえてくる音楽は以前真菰が教えてくれた有名なアーティストの歌だ。シートベルトを締めてギアを入れた車はアクセルを踏み込むとゆっくりと発進していく。速度が安定してきたころに真菰はぽつりと話始めた。


「実家は名前の知ってるところなんだけど、職場に近いほうが便利だからってマンション借りて一人暮らししてるんだよ。えーっと、学校から三駅ぐらいのところだったかな。」


きっと冨岡は四人で集まった際に報告していたのだろう。私は定例通りに彼の話には上の空だったから記憶にないのだ。完璧なまでの徹底ぶりに自分でも呆れた。真菰の話を聞く限りでは実家にもあまり戻ってないらしい。つまり、あの日も私が迷惑を掛けなければ一人暮らしの部屋に帰る予定だったのだ。それなのに恨み言ひとつ言わず付き添って家まで送った。冨岡の性格を考えると、遅い時間に実家に帰るのも気が引けただろうからわざわざまた電車に乗って戻ったに違いない。

ありがとう、で済ませようとしていたお礼の言葉も、それだけでは足りないような気がしてきて急に心が落ち着かなくなった。しかし、冨岡相手に言葉を選ぶことなどしてこなかった私だ。言葉が浮かんでは消えての繰り返しで、簡単には見つかってくれない。しかし、面白いぐらいに信号は全て青で、悩む時間を与えてもらえないまま目的地に到着したと無機質なナビのガイドが告げる。


「ここまでしか私はサポートできないからね。待ってるから。」


路肩に寄せて、サイドブレーキを踏んだ真菰は私の肩に手を乗せて大丈夫と力を送ってくれる。部屋番号だけ聞き漏らさないようにしてドアを閉めると目の前のマンションを見据えた。唾を飲みこんで、エントランスに足を踏み入れる。エレベーターのボタンを押して待っている時間を作るとまた尻込みしてしまいそうだから、あえて階段を使い三階まで登った。冨岡、冨岡。表札を見ながら順番に進んでいくと、突き当りの角部屋に冨岡の文字はあった。その隣に置いてあるインターフォンに指を掛けようと伸ばす。いや、待てと心の声がためらわせる。折角エレベーターに乗らず真っすぐここまで来たのに結局インターフォンという障害に阻まれてしまった。正直帰りたい気持ちの方が圧倒的に勝っているが、脳裏にちらつく真菰の顔がそうはさせてくれない。もう一度指を伸ばし、インターフォンについに指が触れた瞬間のことだ。まだ押し込んでいないのにドアが音を立てて開いた。


「…何か用か。」


上下スウェット姿で明らかに休日スタイルの冨岡が顔を覗かせた。もしかしてインターフォンを押していたのだろうか。覚悟を決める前に本人が出てきてしまった事により、頭の中でいくつか考えていたお礼の言葉はどこかへ飛んで行ってしまった。何か言わなくては、と考えを巡らせてみても無駄なあがきだ。結局喉をついて出てきた言葉は五文字だけだったことは言うまでもない。

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