押し込めた言葉の先に




乾杯の合図を皮切りに、歓迎会は始まった。普段は飲まないビールに口を付けると、苦味が口の中に広がっていく。やはり、子供舌の私には向いていない。すぐに別の飲み物と取り換えて欲しいのだが、グラスを空にしなくては次の飲み物が頼めない、と席に通してくれた店員さんが説明していたのを思い出す。少しずつでも飲んで減らすしかない。まだ九割以上残っているジョッキを見て、先が思いやられた。隣に座る冨岡のジョッキの中身は既に半分近く減っており、取り換えたい衝動に駆られるがぐっと耐える。見つめて固まっていたせいか、冨岡が何か言いたげな目線を寄こしたから視線を目の前の料理に戻した。

運ばれてくる料理を取り分けたり、グラスが空くころを見計らって注文するのは決まって新人の仕事である。歓迎会といえど座って楽しんでいる暇などない。男性の方が多い食事会は飛ぶように料理も飲み物も減っていく。次から次へと盛り付けて回していては当然自分が食べる時間も減ってしまうから、先程から少なめによそっているせいか、満腹にならないだけでなく酔いも回ってくる。取り分け用のトングが手から零れそうになるのを必死で耐えた。酔っぱらって粗相など合ってはならない。人数分に分け終わった皿を手渡していくと、一つだけ手元に押し戻された。


「おいおい、ちゃんと食べてるか?俺酒飲んでるし代わりに食え食え。」


宇髄はグラスを見せながら遠慮するなと言って大口で笑った。大分酔っぱらっているのかいつもに増して笑顔が濃い。宇髄のグラスの交換はもう片手で数えられる数はとうに超えている気がする。自分の肝臓の作りとの違いに苦笑いしたくなった。宇髄の皿に盛られているトマト煮チキンからは湯気に混じっていい匂いが立ち込めている。好物なだけに宇髄の申し出に飛びつきたい気持ちはあったのだが、やはり貰ってしまうのは気が引けた。


「自分のもあるので宇髄先生が召し上がられた方がいいかと。」
「俺の料理が食べられねぇってか?」


酔っ払いの言動とは凄まじいもので、想像外のところに返答が来る。言葉のキャッチボールが成り立たない。私がキャッチャーであればこんな横暴な投球をしてくるピッチャーは願い下げだ。皿を押しては引いて、引いては押してを繰り返していると、おもむろに箸を持った宇髄が漸く手をつけるのかと思ったら、つまんだチキンを私の口の前へと運んできた。


「ほらほら早く食わねえとソースが滑り落ちちまうぞ。」


トマトのソースが今にも滑り落ちそうなところまで来ている。溢すのは勿体ないし、かといって宇髄の箸に口を付ければ先生方の誤解を生む。悩めば悩むほどソースは下に溜まっていき、宇髄も意地の悪い笑みを一層増幅させる。歓迎会だからと中央に座らされた私は非常に視界が良く、逆に言えば見られやすい場所なのだ。酒が入ったことによって各々楽しそうに談笑をしていても、ふと視線を戻すだけで宇髄の腕が目に入ることだろう。からん、と誰かのグラスの氷が音を立てたと同時にソースが垂れそうになったチキンに、勿体ないの精神が勝つ。口を開けた瞬間、隣から伸びてきた腕が宇髄の手を掴んで引き寄せた。その先には冨岡の大きく開けた口があり、一口で吸い込まれていく。


「…え、冨岡なにしてんの。」


冨岡の口の中にチキンが消えていくのを見届けた私と宇髄は目を丸くして凝視する。当の本人は無表情で咀嚼をし、ビールで流し込んだ。


「食った。」


口の端に着いたソースを親指で拭って舐めとりながら言った冨岡は相変わらずの無表情であった。対して、野郎の唇が触れた箸なんて使えるかと宇髄は喧しい。他人の分まで食べる程腹が減っているのかと思いきや冨岡の皿にはまだ料理が残っていた。冨岡の行動は昔からよく分からない。どうやらこれが最後の料理だったようで、店員は持って来たデザート共にラストオーダーと告げた。やっとの思いでビールを飲み切った私は漸くオレンジジュースを注文する。程なくして運ばれてきたドリンクを各々に配り終えると、ビールの時と違い、一気に喉に注ぎ込んだ。じんわり広がったオレンジの隅に、ほんのりと酒の香りがする。間違いなくジュースを頼んだはずだから、きっとビールの時のアルコール感が残っているのだろうと都合よく解釈し、確かめはしなかった。…それが間違いだった。

お開きの一本締めを行い、また来週から頑張ろうといい気分になって立ち上がろうとすると力が入らない。足腰絶たなくなるほど飲んだ覚えはない。仕方なく壁に手を当てながら重い体に鞭を打って地に足をつける。視界が揺れる様な感覚を覚えたが、家に帰るまでは何とか持ちそうだ。店の外に出て、解散の合図を聞いてから駅に向かって歩き出した。キメツ学園最寄りの駅は乗り換え路線が多く交わる総合駅となっているため、解散したものの連れ立って歩く。それぞれが利用する路線の改札で挨拶して別れていき、最後に手を合わせながら礼をしていった悲嶼先生を見送ったら、残されたのは冨岡と私の二人だけであった。なるほど、道理で通勤時間誰とも乗り合わせないわけだ。それに比べて冨岡とは中高大と同じ学校に通ったからほぼ毎日同じ路線に乗っていた。お互い何も言わず改札を通り、ホームへの階段を下る。いつも出入りするドアが到着する前まで行くと、冨岡も隣に並んだ。

時刻表を見れば列車が来るまでにさほど時間はかからず、ベンチに座って待つほどでもなかった。しかし、立ったまま待つには辛いものがある。駅を歩いているうちにまた酔いが回ってきたのだ。視界が揺れるだけでなく、強烈な睡魔が襲ってきていた。瞼が落ちるのを堪えて、欠伸を噛み殺し、手の甲を抓って意識を集中させる。あと少し、あと少し。乗ってしまえば三十分は電車に揺られることとなる。着くまでの間眠ればいい。持っていかれそうになる意識を手繰り寄せていれば、電車が到着しますと駅のアナウンスが告げた。その言葉を聞きながら、おぼつかない足取りでドアの目の前まで距離を詰めようと足を出す。一歩、二歩とふらつきながら出した足に体重はうまく支えられず身体が前に傾いていくと感じた時にはもう遅かった。危険だと脳が警鐘を鳴らしていても、身体は反応しない。迫ってくる列車のライトが視界の端にちらついて、せめて夢見心地のまま痛みも感じず、と目を閉じて諦めた私の腕を強い力が引っ張った。

そのまま流されるように後ろに倒れこむと私の腹に回った腕が衝撃を緩和したものの尻から着地する。思ったよりの衝撃はなく、閉じていた目を恐る恐る開けると蒼いジャージが私の下敷きになっていた。着地とほぼ同時に飛び込んできた列車は何事もなかったかの様に停止し、目の前でドアを開いた。その場に固まったまま動けずにいると、乗らないと判断したのかドアは閉まり、音を立ててゆっくりと発車する。完全に列車の姿が見えなくなるまで見送ったのに腹に回った青色のジャージを纏った腕は離れる気配を見せなかった。乗降する客が二人を横目で見つつ、知らないふりをして通り過ぎていくのは現代社会の縮図の様だ。二人を残して誰もいなくなったホームに怒気をはらんだ声が響いた。


「俺はお前に前を見て歩けといったはずだが。」


首元にかかる黒髪が心配するように擦りつけられるのを黙って受け入れた。思考が停止した私はうわ言の様に「ごめん」と繰り返す。何度も何度も繰り返し呟いているうちに、あと一歩踏み出していたら二度と目を覚ますことはなかったんだと徐々に脳が覚醒し始め、「ごめんなさい」に言葉の重みが変わった。それを合図にして腹に回る腕に力がかかり、冨岡の唇が耳に触れる程、近く抱き寄せられた。


「お前に何かあったら俺は………。」


「…いや、錆兎と真菰が悲しむ。」


押し込めた言葉の先を推し量れるほど私は器用ではない。座り込んだ二人に駅員が声をかけるまで沈黙は続いた。

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