変化はもうすぐそこまで迫っている




氷の入ったグラスは時折カランと音を立てて融解を知らせる。円を描くようにグラスを回すと、中に入った琥珀色の液体は渦を巻く。その行為に何の意味も持たないのに回すことをやめられない。手を止めてしまえばまた脳裏にいる冨岡が私を責めるように見つめてくるのだ。酒を煽っても煽っても消えてくれない。いつもなら簡単に眠りに落としてくれるのに、惚けながらも意識を保ったままだ。机に雪崩れるように突っ伏して、傍らのスマートフォンの電源を入れると映し出された私と錆兎と真菰の三人の写真。指で往復するようになぞり、数秒見つめてからそっと電源を落とした。


考えて簡単に答えが出るような問題でないことは遠の昔から分かっていた。そうでなければこれほど拗れた関係にはなっていないだろう。再生を望む冨岡と、それを拒否する私。両極端な二人の願いはどちらかが折れなければ決して叶うことはない。ただ、冨岡が折れなくとも私が拒否の態度を取り続けていれば少なくとも再生へは進まない。状況的には私の方が何倍も有利だった。これからも拒否を貫き通して拒絶を続ければいいと思っていた私に、社会人になってから冨岡の行動や言葉が邪魔をするようになった。

構うな、寄るなと言っても冨岡は無視して私の領域に踏み込んでくる。錆兎と真菰にしか許していない心の一部に居場所を根付かせようとしてくるのだ。種を撒くだけ撒いて、その癖、肝心なところで錆兎なら、真菰ならと言って逃げる。水をやらず土を被せられただけの種は芽吹くことなく埋まったままだった。しかし、今になって冨岡は水をやり、乾燥した大地を潤してきた。そして着実に成長を始めようとしている。気付かないふりをしていれば勝手に成長が止まると思っていた私の考えは甘く、気が付けば遠めに見ても分かるほどの大きな蕾を作っていた。咲く前にもいでしまうことも出来たはずなのに出来なかったのは、以前まで冨岡に向けていた感情に変化が現れたからかもしれない。


―名前は俺のことが嫌いか?


錆兎と真菰を奪っていった冨岡は嫌いだったが、冨岡自身は恐らく嫌いな部類ではなかったように思う。そうでなければ四人でグループになった直後に拒絶していたことだろう。泣き虫で内気でおどおどしている姿を見ていると喝を入れたくなる半面、守ってあげなければという加護心を駆り立てられた。あの日、あの場所で冨岡に問われていなかったらきっと嫌いとまでは言わなかった。己の醜い嫉妬心を隠すために、理由をつけて冨岡のせいにしたのだ。そうしなければ嫉妬に駆られる自分への嫌悪感で心は壊れてしまいそうだった。大事にしたい錆兎や真菰にまで冨岡ばかり見るなと当たり散らしていたかもしれない。冨岡一人を犠牲にすることに当時の私は何の悪意も抱かなかった。

だから後悔など微塵も感じていなかったはずなのに、芽が成長するたびに背けていた感情がじわじわと自分を責め立てる。このままでいいのか、と。錆兎に指摘された時にはもう目を背けるのも限界だと感じた。錆兎と真菰がこれまで干渉してこなかったのは、恐らく私から冨岡への悪意が感じられなかったからだろう。そんな私に冨岡に接触しろと言っても聞く耳を持たないと判断したからだ。全ては二人の優しさあってのこと。それを良いように取って冨岡の話さえも聞かなくなった私を二人はどんな気持ちで見守っていたのだろうと考えると胸が痛い。社会人になり、冨岡と関わるたびに自分の感情に向き合うようになっていったのを見て頃合いだと思い、突き動かし始めたのだ。


―ここまでしか私はサポートできないからね。

―気付かないふりはもうやめろよ。


再び冨岡のせいにして気づいた感情を封じ込めないように手を回してくれた二人の影響もあって、中高大という長い年月をかけてきた問題が短期間で終焉を迎えようとしている。あくまで二人は私に冨岡と仲良くしろとは言わない。結果はどうあれ、曖昧な関係に決着がつくことを望んでいる。たとえ、決裂になったとしても。ただ、二人の動き方を見ていると再生に向かわせようとしているのは分かる。その選択を出来るかどうかは結局のところ私次第である。


―代替品ではなく一人の人間である冨岡義勇として見て欲しかった。


この問題は私が冨岡を人数合わせと認識していたことに起因している。最初から対等な仲間として受け入れていれば、錆兎と真菰を取られたと嫉妬心を抱くことなく良い関係を築けていただろう。成長するにつれて小さかった世界は広がり、錆兎と真菰以外にも目を向けられるようになった今、冨岡を一人の人間として見ることは対して難しくない。そのはずなのに拒んでしまうのはまだプライドを捨てきれていないからだ。グラスに入った氷のように簡単に溶けて混ざってしまうぐらいの柔和なプライドだったらどんなに良かったか。

これまで謝ろうとして謝れなかったのも、傷つくと分かっていても吐いてしまう言葉も全て積み上げてきた”嫌い”を崩したくない一心だった。非を認めても、向けられる好意に応える資格など私にはない。あんなに傷つけてきた冨岡と笑い合う資格なんてない。私には冨岡に一人の人間として見てもらう資格なんてないのだ。十分に理解していながらも、冨岡から向けられる冷ややかな視線と拒絶の言葉を想像すると踏み出せなかった。


―嫌ならば今日話したことはすべて忘れてくれていい。


あんな顔で言われて忘れられるものか。長年過ごしてきた中で初めて見た悲哀に満ちた表情。私の知っている冨岡のどの表情にも当てはまらない。無表情で何を考えているのか分からない彼が見せた苦痛のサインを、見て見ぬふりは出来なかった。だから今、冨岡と関わってきた人生を思い返しては言い訳を並べて酒に溺れている。


「ごめんね…、嫌いじゃないよ。」


口に出してしまえば十秒にも満たない言葉がどうして言えないのだろう。酒で回らなくなった舌でうわ言の様に繰り返していると、着信音が部屋に響き渡った。携帯の画面に目をやれば、錆兎の文字。縋る思いで着信ボタンを押して、耳に宛がった。


「夜分遅くにすまない。来週末、時間はあるか?」
「……大丈夫、空けとくね。」
「…泣いているのか?何があった?」


私の異変を察知し優しい声色で語り掛けるものだから涙が零れそうになる。縋っては駄目だと分かっているのにその声を聴いているだけで縋りたくなってしまう。もう十分ヒントは貰ったのだ。でも、あと一つだけお願いできるのならば背中を押してほしい。振り返らぬように、戻らぬように、前へ押し出してほしい。


「考え事をしていただけ。」
「…そうか。」
「私も錆兎に話したいことがある。今度会った時聞いてほしい。」
「分かった。」


おやすみ、の言葉を待たずして安心した私は声を聴きながら意識を手放した。変化はもうすぐそこまで迫ってきている。

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