いつかは約束できない




紙の匂いが充満する教室のカーテンを開くと埃が一斉に舞い上がる。仄暗かった部屋は西日を射しこんで橙に染まり、舞う埃はダイヤモンドダストの様に輝いている。錆びついて重くなった鍵を強引にこじ開けてから窓を開けば、秋風によって埃は一層空中で密度を増した。吸い込んだ空気の質の悪さに喉が刺激されて乾いた咳が出たことで、マスクを用意しなかったことを後悔した。積み重なった辞書や教科書などの書物の上には、一体どれほどの年月蓄積されたか分からないぐらい厚い埃の層が出来ている。指先でなぞれば古めかしい本の表紙が露になり、逆に指先は指紋が灰色で覆い隠された。

国語科準備室は他の教室と違い、殆どが倉庫目的で使用されている。文献を残すため、という大儀な名目をつけられた割には書物はぞんざいに扱われている。次から次へと運ばれてくる書物に片づけが追い付かなくなったことは大方予想が付くが、こともあろうに国語科教員が書物を大切に扱わないことに憤りを感じる。歴代の先生方は何も思わなかったのだろうか。思わなかったから今現在に至るのだろうけれど。

室内を見渡すと無理やり詰め込まれた棚があったり、逆に使われていない棚があったりと管理は行き届いていない。床に平積みにされた書物すべてを並べるには足りないものの、この状態は改善できるはずだ。窓から差し込む西日を背中に、まずは埃を落とすところから始めようと決めた。


「苗字先生、箒持ってきました!」


両耳に揺れるピアスを付けた生徒、竈門炭治郎は手に箒を二本束ねてやってきた。感謝して受け取ると、炭治郎は室内のありさまに顔を顰めた。これを見たら逃げ出したくもなるだろう。何か言いたげな顔をしていたけれど、炭治郎は苦笑いをしながら何処から手を付ければいいのか聞いてきたので、指示を出す。私より身長の高い彼に棚上の埃落としを任せ、私は平積みの書物の整理を始めた。

元より炭治郎には頼んで手伝ってもらっているのではない。廊下ですれ違った際に立ち話をして、放課後国語科準備室の整理をすると言ったら自ら挙手してくれたのである。その選択を後悔しないか箒を持ってくるまで不安だったが、文句ひとつ言わず掃除に入ってくれたのを見てほっと胸を撫でおろした。私一人だったら開始十分足らずで心が折れてしまっていたかもしれない。


「炭治郎くん、来てくれて本当にありがとう。」
「いえ!苗字先生はどこか放っておけないというか…。」
「私ってそんなに頼りないかな?」


敢えて困らせる様な言い方をすれば、炭治郎は箒をぱたぱたと振って否定する。それによって舞った埃に涙を流しながら咳をする姿を見て、慌てて謝った。先程自分も舞った埃で痛い目を見た後だったので苦しさは十分に理解できる。駆け寄って丸まった背中を撫でてやると、炭治郎は落ち着きを取り戻した。


「…もう大丈夫です!あと、頼りなくはないです!妹みたいな…、うまく例えられなくてすみません。」
「言いたいことはなんとなく伝わってるよ。実際に友人にも炭治郎くんと同じように思われてるだろうし。」
「冨岡先生にも?」


友人という括りで言ったにもかかわらず炭治郎の口から出てきた名前に動揺し、思わず書物のタワーの頂点を軽く押してしまい、勢いよく雪崩落ちた。これまでにないぐらいの量の埃が一斉に浮かび上がり、目の前が灰色に煙る。慌てて手を振ってかき消そうとするも、一度舞ってしまったものはどうにもならない。あまりにもいい音を立てて書物が散らばったものだから、炭治郎も手を止めて振り向いた。


「苗字先生大丈夫ですか!?」
「ごめっ…大丈夫!ちょっと倒しちゃっただけ!」


喋るたびに空気に混じり肺に入ろうとする埃を感知した喉が防衛反応を起こして咳込む。駆け付けた炭治郎が今度は反対に私の背中を擦ってくれる。年頃の男の子にしては随分慣れた手つきが彼の面倒見の良さを想像させた。


「俺、余計なこと言いましたか。」
「そんなことないよ。気にしないで。」


出会って間もない炭治郎にとって私の地雷が分かるはずもない。悪意がないことはこちらも分かっているので気負う必要なんてないのだ。生徒達の前では仮面を被ると決めた以上、私と冨岡の関係を悟られてはいけない。散らばった書物を一点に集めながら作業を進めていくが、炭治郎は箒を持ったまま私の元を離れようとしない。


「どうかした?」
「…冨岡先生が苗字先生を見つめている時、とても悲しい匂いがするんです。」
「匂い?」
「俺、生まれつき鼻が良くて、一定距離にいる人の感情が意識してなくても漂ってきて。」


感情が匂いで分かるなんて御伽噺のように非現実的である。しかし、炭治郎が嘘をついているようには見えない。真剣な表情で語りかけてくる彼を止めることもできず、手に持っていた書物から一旦手を離して目線を合わせた。


「苗字先生も冨岡先生が近くにいる時、悲しい匂いがします。今も、冨岡先生の名前を出した時に同じ匂いがしたから…。」


しん、と室内が静まり返る。言葉をすぐにでも返したかったのだが、口からうまく言葉が出て行かない。冨岡に対して悲しい?嫌悪ではなく?聞きたいことは山ほどあるのに、踏み込んだら戻れないような気がした。優しい炭治郎のことだから、問えばプライバシーに触れない限り返事をしてくれるだろう。ただ、私の脆い心がそれを受け止められるとは限らない。散々避けてきた冨岡の知らない部分に触れるのを極度に恐れているのだ。


―気付かないふりはもうやめろよ。


気付いてしまえば、今まで以上に苦しくなるかもしれない。後悔をすることになるかもしれない。自分可愛さに小学校の卒業式で止めた冨岡との時間を進めるにはそれなりの勇気と覚悟を持って臨む必要がある。今の自分にはまだ勇気も覚悟も持ち合わせていない。いや、それもまた言い訳に過ぎない。自分が傷つかないように生きてきて、これからもそんな生活を望んでいる。だから錆兎はやめろよと言ったのだ。前に進むためには痛みを知り、受け入れなければならないと知っていたから。

何も喋らず思考を巡らせていた私の肩を揺すって心配そうに顔を覗き込んだ炭治郎の瞳が涙で潤んでいる。優しい子だからきっと自分の言動を後悔しているのだろう。彼は私たちが前に進むために良かれと思って言ってくれたのだ。


「炭治郎くんの力は素晴らしいものだから、誰かを幸せにするために使ってね。」
「その”誰か”に苗字先生は含まれますか?」
「…いつか君に感謝する日が来るかもしれないね。」


いつかを約束できる私ではないけれど、きっかけをくれた君に恥じないよう生きたいと思えた。

[ 11/20 ]

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