心からの笑顔で




夜空を覆いつくすように大輪の菊や滝が広がり、静かに消える。それも束の間、次々と光の矢が空を引き裂くように突き抜けては、花が零れるように弾けた。光にあてられてた人々の歓声も今は煩わしい。前に進むことは叶わず、後ろから押し寄せる人の波はどんどん深くなり、鮨詰めとなる。折角綺麗に整えた髪も、ほつれて垂れた束が首筋を擽った。直そうと伸ばす手は人の体に当たり阻まれ、すっかり気力も失ってしまう。どっと倦怠感が湧き出てきて、帰りたくなる。ふらふらと脇の小道に逃げて息を吸い込めば、人酔いで混濁した気分も落ち着いた。

家の壁にもたれ掛かって空を見上げても民家の屋根が邪魔をして半球しか目視出来ない。しかし一人で眺めるならば半球もあれば充分である。膝にあたるお好み焼きの袋からもう熱は感じられなかった。それでも昼から何も食べていない私の腹を鳴らすのには十分だ。この際食べてしまってもと思いもしたが、皆と話しながら食べる楽しみを知っているからぐっと堪えた。


「みんなも同じ空を眺めてるのかな…。」


これまで横並びで花火を眺めて来たのに、思わぬ形で一人で眺めることになった空は味気ない。戻ったらまた怒られるんだろうな。錆兎は優しい目を吊り上げて説教するだろうし、真菰もこの前のようにきつく咎めるに違いない。それだけ心配されているのは分かっているけれど、突っ走ってしまう性格は治らないのだ。そして突っ走った末した後悔は数えるのも億劫なほどに経験してきている。独り立ちしなくてはならないのに、後ろ盾のある安心感から甘え切ってしまっている。今だって、二人が迎えに来てくれるのを心のどこかでずっと期待しているのだ。

かくれんぼは苦手だった。たかが遊戯に苦手も得意もないはずなのに、私がどこに隠れても錆兎も真菰もすぐに見つけてしまう。植木の裏、ロッカーの中、毎回場所を変えても無駄なことで、見つけたと言われてしまえばそこで終わり。冨岡が加わってからは見つかるまでの時間はもっと短くなった。あまりにもそれが続いたものだからつまらなくて、理由を聞いたことがある。二人とも内緒と言って決して教えてはくれなかった。幼馴染故に癖を熟知していたのかもしれない。しみじみ思い出すように眺める花火も終焉を迎えつつあるのか、打ちあがるペースが加速していく。低い位置で多くの花が開く一方で、一際高い位置に大きな柳が枝垂れると、欠けていた花火が初めて大きな円を描いた。轟も本日一番で、迫力に鼓膜が震える。もっと、もっと見たいと無理やり下駄で爪先立ちをして天を仰ぐと、バランスを崩してしまう。浴衣を着ているがために足を開くこともできず前に倒れた体は不思議なことに地面にぶつかることなく、正面からしっかり頭と腰に腕を回されて抱き留められた。


「…やっと見つけた。」


肩で息をしながら、か細い声で呟かれた言葉は闇に溶けて消えた。視界の端に映る濃紺の髪は柔らかさを失って乱れて柳の様に枝垂れており、その先端にはところどころ水滴がついていた。宍色ではない、濃紺は冨岡の色だ。体も汗がしっとりと滲み、聞こえる心臓の音はどくどくと脈を打つ。打ち上げられる花火よりも早く刻む鼓動に耳を傾けながら、冨岡の肩口越しに覗く花火は、彼の頭のせいでまた半分欠けた花となった。


「どれだけ心配したと思ってるんだ!屋台に戻ってもいないし携帯も持って行かず!祭りに浮かれたやつに連れ去られでもしたらどうするつもりだった!女一人で立ち向かえるはずもないだろう!」


肩を掴んで体を引きはがした冨岡は物凄い剣幕で捲し立てた。花火の音よりも激しく響く轟音の叱咤に立ちすくんでしまう。崩れ落ちそうになる足を冨岡は許さず、私の体を塀に縫い付けると、顔の横に手を着いて逃げられないようにして足も間に差し込む。畏怖を感じて思わず手の力が緩むと、重力に沿って袋はぐしゃりと地面に落下した。


「他の男に同じように追い詰められたらお前は抵抗できるのか?できないだろう?」


鼻と鼻が付きそうなほど近い位置で交差する瞳を拒絶したくて、力の限り押しても体躯はびくともしない。叩いても同じことだった。錆兎だったら、こんなことはしなかった。錆兎だったら、怒っても諭すように叱ってくれた。錆兎だったら、錆兎だったら。どうして、錆兎ではなく冨岡が迎えにくるの。唇を噛みしめて目の前の冨岡を睨んでも現実は何も変わらないことは分かっている。


「黙ってないで何か言ったらどうだ。」
「…なんであんたなの。」


言葉は時に人を傷つける凶器にもなる。それを十分に理解できる年齢になった今も、思うが儘に刃を振りかざす自分が嫌いだ。どうしたら傷つけずにいられるのだろう。冨岡を見ていると、どろどろとした感情が溢れて止まらなくなる。瞳を覆う水の膜が、冨岡越しに見える花火を滲ませた。


「…すまない。」


罰の悪そうな顔をして冨岡は上体を起こすと、節くれだった指で私の目尻を撫でた。何故だかその手は振り払えなくて、不器用だが優しい手つきにされるがまま目線は逸らした。塀に背を預けて二人で空を見上げる。先程の滲んだ花火がフィナーレだったらしく、煙と閃光が残った空には星が散らばっていた。すっかり忘れていた袋を拾い上げると頭上から囁くように二度目の謝罪が降ってくる。肯定も否定もせず冨岡の横顔を見つめれば、それに気づいて彼は顔を背けた。


「…錆兎じゃなくて、すまない。」


三度目にして漸く謝罪の意味を理解した。冨岡は不器用だ、とんでもない大馬鹿だ。謝る必要なんてどこにもないはずなのに、私の行き場のない気持ちを察知して消化しようとしている。


「……違う。そんなの違う。」
「いや、」
「謝らないといけないのは私の方。」


冨岡の様子からずっと私のことを探して回っていたのは誰が見ても明確だった。錆兎でなかった現実を受け入れたくなくて目を背けたのは紛れもない私自身。どんなに酷い態度を取られようと真っ向からぶつかってくる冨岡が怖かった。素直に口にしてしまえば今まで築き上げてきた”嫌い”の壁が壊れてしまう気がしたから。今更どんな顔をして話せばいい?散々な態度を取っておきながら虫が良すぎるのではないか。でも、謝罪もできない自分でいたくはない。逃げたくない。


「ごめん、私酷いことを言った。探してくれてありがとう。」


聴こえるか聴こえないかぐらいの囁く声はしっかりと冨岡の耳に届いたようで、勢いよく振り向いて切れ長の目を大きく見開いた。


「…戻ろう。錆兎と真菰に怒られに行かなきゃ。」
「ああ。」
「連絡取ってくれる?私何も持ってなくて。」


手を開いて見せると、頷いた冨岡はズボンのポケットに手を伸ばす。携帯が取り出されるのを期待して待っていると、冨岡の動きが止まる。そろりと伺うように私を見つめる目は泳いでいて気まずさをはらんでいた。


「…すまない。錆兎に持ち物を全て預けてきたのを忘れていた。」


四回目の”すまない”に思わず口元が緩んで、久しぶりに冨岡の前で心から笑った。本当に冨岡は大馬鹿だ。

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