答案用紙はバツだらけ




季節は春から夏へと移ろうとしている今日、中間考査最終日を迎えた生徒達は、最後の力を振り絞ってカリカリと音を立てながら机に置かれた用紙と向き合っていた。首を捻る者、早々に諦めて寝る者、最後まで手を動かす者、生徒達は個性豊かだ。考査中は担当教科以外でも教師が交代しながら試験監督を務める。問題を解く生徒達を見守るだけのこの時間は、教師にとって退屈にすぎない。キメツ学園の生徒達は贔屓目なしにいい子ばかりなので不正行為を働く者はいないだろうが、監視を怠ってはならないとのお達しがある。とはいえ、二日間連続して教壇に椅子を置いて座ったまま何もしないと眠くもなる。

テスト日程は午前で授業が終わるものの、教師は午後から採点業務に追われる。採点ミスのないように集中しながら、かつ、効率よくなんて出来るはずもなく、新任の私には残業が増える一方だった。お陰で昨夜はあまり寝られていない。その反動が明らかに出ていると分かるのが、今にも船を漕ごうとしている私の意識である。今日のテストが終われば生徒達は連れ立って遊びに行くのだろう。学生の頃は決まって錆兎か真菰の家で勉強して、テストが終わったらファストフード店でお疲れ様会をしていたのを思い出す。彼らもそうやって大人になっていくのだ。学生時代に思いを馳せていると、スピーカーから流れてきたチャイムに現実に引き戻された。止め、と生徒たちの手を止めさせて答案を回収する。枚数や名前の記入漏れの確認をし、終わりの合図を出せば彼らは案の定騒ぎ出した。他の教室もやっているのだから静かに、と注意を促し教室を後にする。さて、地獄の採点時間の始まりである。いつもよりも職員室に向かう足取りは重かった。


「あらあら苗字先生お疲れですね。」


昼休憩もそこそこに採点業務に勤しんでいると、マグカップを両手に携えた胡蝶先生が隣に座った。どうやら私の分も淹れてくれたらしく、感謝の言葉を述べてから受け取る。答案に溢すわけにはいかないので、採点途中の用紙は束ねてファイルに差し戻した。口をつける前にほんのりと漂ってきた桃の香りを楽しむ。口に含めば柔らかい甘さがいっぱいに広がった。それほど砂糖が入っていないはずなのに甘さを感じるのは、脳が糖分を欲していたからだろう。黙々と飲んでいると、こちらをじっと見ている胡蝶先生と目が合った。


「ふふ、夢中になって飲んでいるなんて案外子供っぽいところもあるのね。しのぶに似ているわ。」
「しのぶ?」
「胡蝶しのぶ。妹が在籍しているのよ。」


この学園で胡蝶しのぶと言えば一人しかいない。胡蝶先生と同じ髪飾りをつけた見目麗しく文武両道で優秀な生徒だ。どことなく顔立ちが似ていると思っていたから納得がいった。妹の話になると彼女は途端に花開いたように話し始める。帰りが遅いと怒るとか、寝坊しそうになったら起こしてもらうなど日常にありふれた会話の端々からとても仲のいい姉妹と伝わってくる。どちらが姉なのか分からなくはなったけれど。そんな彼女の話に耳を傾けていたらいつの間にか紅茶の湯気はすっかりなくなっていた。止まることなく話し続ける彼女に区切りがついたのは、伊黒先生の鋭い眼光に私が恐れをなしたからである。地に這うような声で無駄口を叩くなと言われてしまえば引くほかない。そそくさとマグカップを洗い場まで運んで再び答案用紙と向き合った。

日が傾き始めると職員室からは一人また一人と人数が減っていく。自身の持ち分が終わった者から順番に帰宅していく仕組みは、協調を謳う学び舎としてはいかがなものだろうか。自分の机に積まれた答案のタワーに目をやればまだ三階ほど残っている。本来はあと一つ分少なかったのだが、宇髄が「嫁が熱を出したから帰る」というものだから引き受けてしまった。自分の分だけでも手一杯だというのに、安請け合いしてしまうところを直したい。手伝いを頼めるほどに交流の深い先生方もおらず、残業を視野に入れて少しでも早く帰れるよう手を動かした。

ペンと紙が擦れる音だけが耳に響き、目は常に模範解答と答案の行ったり来たり。工場の流れ作業のような工程に慣れ始めている自分がいる。しかし確実に体は悲鳴を上げており、手首は丸を描くたびに痛み、目は赤と白の往復でぼやけるばかりだ。構うな、集中。気合を入れ直すと、目の端に映る答案用紙のタワーが一階分持ち上げられていく。その先を追えば、冨岡の姿があった。冨岡は何も言わず隣の椅子に掛けると、赤ペンを取り出してキャップを抜く。私の視線に気づいているのかいないのか、静かに採点を始めた。頼んでいないのに、勝手だ。


「…この前のはなんだ。」


冨岡は目線はこちらに寄こさず喋りかけてくる。恐らく”この前”は真菰に連れ出されてお礼を言いに行った日を指すのだろう。そして、挨拶もなしに「ありがとう」だけ言って逃げた私の行動について問いたいのだと直感した。逃げる私の背後から名前を呼ぶ声と、止まれの声が聞こえたが、無視して階段を駆け下りて真菰の車まで全力疾走したのだ。冨岡が部屋着でなければ理由を聞くために追いかけられたに違いない。体育教師で、現役で運動をしている彼から逃げるのは不可能に近い。落ち着いた今ならば理由ぐらい話してもいい。この件で何回も聞かれる方が面倒だ。手の動きを再開させて冨岡だけに聴こえる声量で返答する。


「駅のホームで死にかけた時のお礼。」
「………そうか。」


それきり冨岡からの言葉はなく、ペン先の擦れる音のみが鳴り響いていた。疲れからか私のペンは先程よりも鈍い丸を描いている。決して冨岡が隣に座ったことへの緊張感から来ているものではない。答案を持っていくだけならまだしも、わざわざ隣に座って採点するとは思っていなかった。ましてや手伝っても私が絶対に感謝することがないと重々承知の上でやっているのだから冨岡は変わっている。先に帰れば私に悪態をつかれなくても済むのに。余計なことを考えているとうっかり答案に冨岡と書き込みそうになり、邪念は頭の片隅へと押しやった。再び集中の態勢を取ると、隣のペン先の音が止まったことで意識が絡め取られて視線を移せば冨岡も同じタイミングで私を見る。向かい合った状態で数秒停止した。


「俺の家、知っていたんだな。」


一度も訪ねたことのなかった私を不思議に思ったに違いない。私だったら普段口もきいてないような奴が尋ねてきたら驚く。場合によっては締め出すかもしれない。そもそも真菰の鶴の一声がなければあのような行動に出ることはなかったのだ。嘘をついても仕方ないので素直に知らなかったと伝えたほうがいい。


「真菰に聞いた。」
「…だろうな。お前は一度だって俺の話に耳を傾けたことなどなかった。当然だ。」


常に無表情なはずの冨岡の自嘲気味な笑いにドクンと心臓が跳ねた。冨岡と歳を重ねてきたが、こんな表情を見たのは初めてであった。傷ついた素振りなど見せず、飄々としている彼は私の態度など気に留めてないと思っていた。何故今になって傷ついた顔を見せるんだ。私の人生の答案用紙はバツだらけなのは、自分が一番分かっている。

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