私は本当の両親を知らない。
事故で亡くなった彼等の顔も覚えていない。
だから、私にとっての両親は、十三年前に私を引き取り、今日まで育ててくれた、横浜の父と母だけだ。
パン職人としては厳しくもあり、だけど、私に惜しみない愛情を注いでくれる父。
いつも笑顔で優しく、私の事を本当の娘として大切にしてくれる母。
受験だったり、将来の事だったり、私が人生の節目で悩んでいた時は、二人して一緒に親身になって考えてくれたりして。
でも、私のやりたい事を妨げたりはせず、今までも思うように好きな事をさせてくれた。


今回もそうだった。
姉さんの死を知った私が、ギリシャへ行きたいなどと、突然、言い出した事に対して、反対もせずに許してくれた。
私自身が納得出来るまで、思う存分、後悔ない様にと、そう言って。


私には父と母に一生を懸けて尽くしても、返しきれない恩がある。
その恩を返せないまま、彼等の傍を離れるなど、考えた事もなかったし、今でも考えられない。
赤の他人であった私を、ここまで育て愛してくれた父と母。
私は彼等のためなら、この命を捧げても良いとさえ思っている。
それだけの事をしてもらった、与えてもらった。
本来、私が得る筈のない沢山の幸せと暖かい家庭を教えてくれた。


だから……。
だから、私にはギリシャに、この聖域に留まるという選択肢などないのだ。
今、父と母の傍を離れて、遠い異国の地に住むなど、そんな事は絶対に出来ない。
私は横浜のあのパン屋で、父と母と共に働き、暮らしていく。
そう決めている。


そして、いつか。
結婚して、あの家を出て行く事があっても、彼等からそう離れたところへは行かないだろう。
家庭を持っても、いつでも二人の様子が見に行ける場所に住みたい。
これは高望みだが、結婚する相手が出来ればあのパン屋を継いでくれるのなら最高だ。
アイオリアと出逢うまでは、そう思っていたし、そうなれば良いと願ってもいた。


だけど、もし聖域に残る事を選べば、私は彼等に頻繁には会いに行けなくなる。
ココに居ては、二人の身に何かあった時、直ぐに駆け付ける事も出来ない。
そんなのは嫌だ、そんな事は考えられない。
あんなに私を愛してくれた父と母に、何も返さないばかりか、裏切るような形で異国の地で生きていくなど……。


そう、この一ヶ月は私にとって長い休暇なのだ。
姉さんの死の真相を探る旅でもあり、私のちょっと早い、一生に一度のサマーバケーションでもある。
だから、ココでの恋は、ココだけで終わるもの。
この長い休みが終わったら、この恋も終わるのだ。
私はまた元の日常へ戻り、もうアイオリアとは会わないだろう。


多分、この先、アイオリア以上に深く愛せる人には出逢えないと思う。
運命だと信じられる程の恋だ。
愛し愛される幸せも、女としての喜びも、彼以外の人では感じられないに違いない。
こんなにも深い想いを知ってしまった今では。


でも、一生で唯一の運命の恋が、この僅かな時だけで終わってしまうと分かっているなら。
私は全身全霊を掛けて、今この時だけでも、アイオリアをひたすら愛し抜きたい。
気が狂う程に愛して、愛して。
彼と共に過ごせなくなるこの先の分も、思う存分に愛して。
後悔しないようにしよう。
父と母が、そう言った様に。





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