恋は100円おにぎりと共に


 駆け回っていた子供達が、母親に呼ばれてひとり、またひとりと走り去っていく。そうして人気が無くなった公園には、遊具の影だけが伸びていた。
 その片隅に、古ぼけたベンチが置かれている。白く塗装されたペンキは所々剥がれ落ち、年季の入りようを感じさせた。

 俺はそのベンチに座り、購入したばかりのおにぎりとお茶を、隣でうなだれている彼女に手渡す。のろりと女の子が顔を上げ、 虚ろな瞳が、俺の手元で視線を止めた。手のひらで転がるおにぎりに、目が釘付けになっている。

 ───途端、ぱあああ、と。
 まるで花が咲いたかのように、彼女の表情が一変した。
 驚きで見開いた瞳がきらきらと輝きだし、口は半開き状態。興奮しているのか、頬に赤みが差している。ペコペコと何度も俺にお辞儀をして、受け取ったおにぎりのパッケージをビリッと裂き、肉食動物の如く、すごい勢いで食べ始める。口を挟む隙すらない。目尻にはうっすらと、涙まで滲ませていた。

「……」

 むせび泣きながらコンビニおにぎりを貪る人間を、俺は今日、初めて目にした。
 こんなに喜ばれて、製造した業者もさぞ嬉しいだろう。

 そうこう考えている俺の傍らでは、ものの数秒で飯を胃に納めた彼女の姿がある。今度はペットボトルのキャップを開け、中身を一気に飲み始めた。
 口を離し、ぷはっと短く息を吐く。
 満腹感で満たされたその表情は、幸せを噛み締めているようにも見えた。

「生き返った……」

 と、静かな囁きまで聞こえた。
 餓死寸前ではあったが、どうやら最悪な状況だけは回避できたみたいだ。

 あっという間にお茶を飲み干した彼女は、頬を紅潮させたまま、今度は俺へと視線を向ける。空腹で倒れていた人物とは思えないほど、彼女の身なりはきちんとしていた。
 トレンチコートの襟元からは、事務服のベストが見える。会社員のようだ。顔は幼いし、背も低いから高校生かと思っていた。
 クセのない髪は、艶やかなストレートロング。ほんのりと、甘い香りが鼻腔を掠める。
 香水は元々苦手だが、彼女の香りは不思議と不快な気分を感じない。コートやブーツも、女性の流行りを一式揃えたコーデのようだ。見た目だけで言えば本当に、普通のOLと変わりないが。

「助けて頂いてありがとうございます、通りすがりの親切なお兄さん」
「桐谷です」
「キリタニさん。ありがとうございました」

 言い直して、深々と頭を下げられる。
 舌足らずな口調が、余計に幼さを感じさせた。



 どうしてこの時、自分の名前を名乗ってしまったのか。後になってそう思った。

 今日初めて会った相手。
 どこで働いていて、どこに住んでいるのかも全く知らない。
 今後会うこともないだろう彼女に、名乗る義理などない筈なのに。

「あの。ご連絡先、教えて貰ってもいいですか? お礼がしたいです」
「いいよそんなの。大した事してないし」
「でも、それだと私の気が収まりません」
「ほんとにいいって」
「じゃあ、せめてお代だけでも」
「200円程度だし。いいよ、ほんとに」

 営業用の、下手くそな笑みを浮かべながら手を振った。そこまでしてもらう理由が俺にはない。
 立派な人助けをしたとは思っていないし、自分がした事に対する見返りも報酬も求めていない。彼女の誠意は素直にありがたいとは思うが、俺が必要ないと思っている以上、彼女の言葉はありがた迷惑でしかない。
 何より、女に苦手意識を持っている俺としては、これ以上彼女と関わり合いを持ちたくなかった。
 関わる必要があるとも思えない。
 もしこの先、どこかで偶然彼女を見かけたとしても、声を掛ける事もしなければご飯を与えることもしない。徹底的に知らない振りを貫き通すだろう。

 幸いにも、彼女は空気の読める子のようだ。口に出さずとも、俺の真意は彼女に伝わったらしい。そうですか、と素直に引き下がってくれたお陰で、後味の悪い思いをせずに済んだ。人間、いつでも引き際が肝心だ。

「もし、また再会する事があったら、その時はお礼をさせてください」
「ああ。その時は一緒にご飯でも」
「はい」

 今交わした口約束はきっと果たされない。
 道端で困っていたから助けただけの相手と、また再会する確率なんて、偶然でも起きない限りゼロに近い。それは彼女自身も理解しているだろう。
 だからあえて、「再会した時は」なんて仮定を彼女は口にした。
 このぎこちない雰囲気を変える為だけの言い回し。社交辞令。そして俺も軽く応えた。

 会話の流れを変えてくれたお陰で、気まずさの残った場の空気が軽くなる。彼女の誠意を拒否した俺が罪悪感を抱かないように、うまく機転を利かせた彼女の気遣いが、気さくな言葉の端から感じ取れた。
 思わず感心を抱く。
 苦手だと思っていた女への意識が、少しだけ薄れたような気がした。

 ……なんだ、いい子じゃんか。




 血色を失っていた彼女の頬は、薄く赤みがさしている。顔色も悪くない。一時はどうなるかと思ったが、お腹が満たされた事で体調も元に戻ったようだ。

 目的地まで車で送ってあげようかと思ったが、その目的地はすぐ近くなので、そう言って彼女はその場を後にした。
 最後に俺を振り向いて、頭を下げてくる。
 律儀な子だな、そう思いながら軽く手を振って応えた。
 俺もいい加減、会社に戻らないと。

 というか、結局何も食べていなかった。

「……」

 遠くなっていく後ろ姿を見て。
 ふと、疑問を抱く。

 一般企業の定時は、基本17時と決まっている。今はまだ16時半。定時前だ。
 会社の人間が帰宅できるような時間帯じゃないのに、あの子はどうして、こんなところにいたのだろう。

「……いや」

 そこまで考えて、頭を振る。
 そんな事を考えたところで意味は無い。
 もう会う事も無いだろう他人の事を考えたところで、どうしようもない。
 俺には、全く関係の無いことだ。






「……やっぱり、お礼してもらえばよかったな」

 誰ともなく呟く。
 密かに沸いてしまった彼女への興味は、それまでの思考と共に放棄した。

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