もう戻れない


 首元に、早坂の両腕が巻き付く。
 そのままぎゅと抱き締められたら、身動きも取れなくなる。
 ダウンジャケットに阻まれて体温は伝わらないのに、後頭部に添えられた手は、酷く熱い。
 早坂の吐息を、すぐ近くで感じる。

「早坂、なに……」
「………」
「っ……や、離して」
「……離すかよ」

 殊更強く抱き締められて、発しようとした言葉を失う。
 心拍数はどんどん上がって、私の胸を熱くさせる。
 その最後の一言にどれ程の想いが、どんな感情が込められているのか、私はまだ知らない。

 今までだってこんな風に、くっついたりすることは何度かあった。
 酒に酔った勢いだったり、悪ふざけだったり状況は様々だけど、それらは全部、私から仕掛けていた事だ。
 早坂の方から抱き締めてくれた事なんて、この4年間で一度だってない。今が初めてだ。

 やましい気持ちや軽いノリで、抱き締めている訳じゃないことくらいわかる。だから、安易に押し返す事ができない。
 思わせ振りな態度が良くないって自覚してるなら、今ここで突き放して、断らなきゃ駄目なのに。

「……今まで通りの関係じゃ駄目なの?」
「………無理だろ、もう」

 どく、と心臓が大きく跳ねる。
 友人関係を保ちたい私と、友人という一線を越えたい早坂の気持ちがすれ違う。
 ずっと変わらないと信じてきた関係に、亀裂が走る。築き上げてきた友情に綻びが生じていく。

「……っ、無理、じゃないよ。だって私達、今まで普通にやってきたじゃん」
「今まではな。これから普通に接するとか無理じゃないか」

 その冷たい言い草が、心に深く突き刺さる。

「……なんなの」
「………」
「何でそういうこと言うの? まさか酔って、」
「酔ってねえよ」
「急にそんなこと言われても困るよ!」
「急じゃない。ずっと前から好きだった」
「……!」

 頬に、一気に熱が溜まる。
 身体中の血が沸騰してるんじゃないかと錯覚するくらい、全身が熱い。
 その言葉を待っていた訳じゃない、むしろ聞きたくないとすら思っていたのに、いざ言われると嬉しい、なんて感情が湧くのも嘘じゃない。

 自分の気持ちが全然わからない。
 心の整理ができない。
 結局私は、早坂とどうなりたいんだろう。



 異性として惹かれてる気持ちはあっても、それが恋愛だという自覚はない。交際したいという欲もない。
 でもずっと一緒にいたいし、早坂が他の子とくっつくのは、なんか嫌だ。
 早坂を恋愛対象として見ているのか、ただ依存しているだけなのか。キスされて、一時的に舞い上がっているだけなのかもしれない。
 今は青木さんを優先しなきゃいけない思考があるから、何とか自分の気持ちにセーブができているけれど、じゃあ青木さんの事が解決したら、私はどうするの? ちょっと好意を寄せたからって、早坂と付き合うつもりなの?
 また、青木さんの二の舞になったりしないの?

 ……ああ、一番の不安要素はこれだ。
 友人としての早坂は信用できるけど、私はきっと、男としての早坂は信用できていないんだ。

「……早坂は、怖くないの?」
「……何が?」
「告白したら、仲が気まずくなるとか今までみたいに話せなくなるとか、考えなかったの?」
「それは、考えたよ。でも、『じゃあ告んのやめよ』とは考えなかったけど」
「……なんで?」

 普通はそこで、立ち止まったりするもんじゃないのか。現に私がそうだ。
 だって怖いじゃん。友情から男女の関係になった途端、気まずくなるのも嫌だし話せなくなるのも怖い。
 だったら今の、安定した関係を続けた方がいいって、そう思うのは普通じゃないの?

「……逆に聞きたいんだけど。なんで仲が悪くなる前提で話すんだよ」
「……え?」

 私を腕の中に閉じ込めたまま、早坂はゆっくりと言葉を紡いでいく。

「関係が変わったとしても、仲まで壊れる訳じゃない。今まで通りだし、俺も態度とか接し方を変えるつもりもない」
「……え、だって今、普通に接するとか無理って」

 言ったよね?

 体を離して、恐る恐る顔を見上げる。真意を確かめるように、早坂の瞳を見つめ返した。

「……ああ、悪い。言葉足らずだった。多分、俺ら今、話が微妙に噛み合ってないわ」
「え、え?」

 なんだか、変な方向に話が転がってきた。
 訳がわからないと眉を寄せる私を見て、早坂がふと、表情を緩めた。
 そのお陰で、張り詰めていた空気が少しだけ和んた気がする。いつもの空気感に、ほっとしている自分がいる。
 でも、頭の中は相変わらず混乱中だ。
 話が噛み合っていないって、どういうことだろう。

「……それより、そろそろ部屋ん中入れて。寒い」

 避難めいた言葉に、私は顔をしかめる。
 そもそも部屋の中で話しよう、って決めた直後に抱き締めてきたのは早坂の方なのに。早坂が今寒い思いをしているのは私のせいじゃないと思う。
 そんな主張を口に出さずとも、早坂は当に見抜いていたようだ。「悪かったって」なんて、笑いながら平然と言うんだから。
 けど、その軽い口調が逆に、重かった私の心を掬い上げてくれた。

 きっと、早坂は全部わかってる。
 私が青木さんのことを引きずっている事も、そのせいで恋愛にも異性にも臆病になっている事も、早坂とは男女の関係になりたくない理由も。告白すれば、私が戸惑うことも困らせるだろう事も、全部。

 全部わかった上で、好きと言ってくれた。

 衝動的に告げた告白なんかじゃない。ずっと抱いていた想いを、今日になって打ち明けてくれたその理由を、私は聞かなきゃいけないし知りたいとも思った。早坂と今後どう向き合うのかは、それから判断しても遅くはないのだと思う。
 そんな風に前向きにさせてくれたのは、私の中にある一番の不安要素を、早坂が全部わかってくれた上で否定してくれたのも大きかった。

「……ほんとに?」
「ん?」
「私達、変わらないでいられる?」
「全く変わらない、事はないだろうけど。少なくとも、七瀬が不安がってるような事にはならないから安心していいよ」

 堂々と言ってのける、その発言の根拠は何なのか、一体その自信はどこから来るのか。そんなものを問いかけても、きっと明確な答えは得られない。
 ただ、無条件に相手を信じられるからこそ導き出せる答えがある。私にとってその相手が、早坂なだけで。

 彼の想いを知ってしまった以上、……私自身も心が揺れ動いてる以上、もう早坂とは、友達とか親友と呼べる関係には戻れないんだろうと理解してる。
 それでも、関係が変わっても変わらないものがあるなら、ここから新たな関係を築いていける。そう信じたい。

「俺、七瀬に言いたいことたくさんあるんだ」
「……私も聞きたいこと、いっぱいできたよ」

 自然と笑みが浮かぶ。
 雲の切れ間から光が射すように、迷いの晴れた穏やかな感情が広がっていく。
 不安事が全部払拭された訳じゃないし、早坂に抱く感情が、恋愛と呼べるものなのかもわからない。
 この宙ぶらりんな想いがどう変わっていくのか、今は判断もつかない。

「あの、今日返事した方がいい?」

 告白の、とは照れくさくて言えなかった。

「いーよ。しなくても」
「いいの?」
「いい」
「でも、」
「頼む」

 ぱふ、と早坂の手のひらが、私の唇を覆う。
 その先を言わせまいと、強制的に塞がれた手はいまだに熱を持っていた。

「頼むから、まだ言わないで。まだこれからだから。これから好きになってもらえるように、頑張るから」

 まるで中学生のような拙い主張だった。
 格好つける訳でもなく、真っ直ぐにぶつけられるその想いに、私の心が絆されていく。
 必死とも思えるその告白に、愛しさが込み上げてくる。

「……頑張るの?」
「頑張る」
「えー可愛い」
「やめろ。可愛くねーから」

 私が茶化せば、早坂も笑う。
 そこに気まずさや、すれ違いなんて言葉は存在しない。いつも通りの私達がいて、昨日までの私達とは違う関係が存在してる。
 早く、早坂の口からたくさん聞きたいと思った。
 話が噛み合っていないと言われた理由も、いつから私を想ってくれていたのか。私はまだ何も知らないんだ。
 早坂のことだから、ちょっと気まずそうにしながら全部教えてくれるんだろう。

 そんな姿を想像して、嬉しくて顔がニヤけてしまった私は、やっぱり、早坂を好きになってしまったのかもしれなかった。

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