千春くんのお話。1 5月3日。 今日から私達もGW休暇。 朝から千春くんとのんびりできると思ってたのに、起きるやいなや、彼は1人で外出してしまった。 「昼前には帰ってくるから、待っててね」 行き先も告げないまま、部屋を出て行く彼の背中を見送ったのが1時間前。千春くんが帰ってくるまでの間、ひとりぼっちの時間をどうしようと考えた結果、とりあえず床とソファーを掃除することにした。 コロコロクリーナーを手に取って、大きすぎるにゃん汰先生DXをゆっくり下ろす。ソファカバーをコロコロしながら、小さなゴミを取っていく。その度にかき揚げ丼がちょっかいをかけてきて、作業は思うように進まない。 「もう、かき揚げ丼」 注意しても、かき揚げ丼はコロコロに夢中。前足で粘着シートをツンツンつついて、ぴょんぴょん後ろに飛び跳ねる。 おっかなビックリといった動きはとても愛らしいけれど、かき揚げ丼が暴れる度に、カバーがズルズルとずれてしまう。これでは掃除が捗らない。 ふう、と溜息をついて、やんちゃ盛りな白猫ちゃんを抱き上げた。 「にゃあ」 「イタズラっ子ちゃんは、こうしちゃうのです」 ゲージにかき揚げ丼を閉じ込める。 鍵を締めれば、にゃ……と非難めいた鳴き声を発した。 「掃除が終わったら遊んであげるね」 そう答えてから、コロコロを再開。千春くん、いつ帰ってくるのかな。頭の片隅で考える。 別件で予定がある、千春くんは昨日、私にそう言っていた。 その別件の内容を、私は何も聞かされていない。 千春くんにだって千春くんの予定があるし、いくら彼女だからって、彼のプライベートにまで口出す権利は私にはない。それでも、まだ彼女になって日が浅いせいか、ひとりの時間に慣れていなくて寂しい気持ちが込み上げる。今日からずっと2人でいられると思っていたから、余計に。 「千春くん、どこ行っちゃったのかなあ」 寂しさを紛らわせるように呟く。 と、その直後。 玄関のチャイムが聞こえたと同時に、ラインの通知音がスマホから響いた。 「え」 もう帰ってきた。 「ただいま」 「お、おかえりなさい……?」 「どうしたの?」 目を丸くしている私に、千春くんは不思議そうに首を傾げている。 「えと、帰りが早かったからビックリして」 昼前に帰ってくるって言ってたけど、千春くんが部屋を出てから1時間しか経っていない。今はまだ朝の10時。お昼まで余裕がある。 早々に出て行ったと思ったら早々に帰ってきたので、ちょっと驚いてしまった。 「用事が早く終わったので、さっさと帰ってきました」 「そう……なんだ?」 「なーに? 寂しかった?」 そう尋ねてくる千春くんは、これ以上ないってくらい爽やかな笑顔で。 私がなんて答えるかなんて、全部わかっていて訊いてくるんだろうな。こういうところは本当に意地悪だ。 「……寂しかった」 「はは、素直だ。ごめんね、もうどこにも行かないから許してね」 千春くんの指が、私のほっぺをむにむにする。最近わかったことだけど、千春くんはよく私のほっぺや耳朶を触る。彼からのふにふに攻撃も、回数をこなしてきただけあってもう慣れた。 「……どこ行ってたの?」 訊いていいのか迷ったけれど、モヤモヤなままなのは精神衛生上良くない。彼のプライベートにどこまで踏み込んでいいのかわからないけれど、不安なことは口に出そう、そう決めたから尋ねてみた。 私の問い掛けに、千春くんの手が止まる。 ニッコリと微笑まれて、私は瞳をパチクリ。その問い掛けを待ってました、と言わんばかりの笑顔に、はてなマークが頭上に浮かぶ。そして、ゆっくりと片手を下ろした千春くんの手がポケットをまさぐり、スマホを取り出した。 私の目の前に差し出されたスマホの画面には、ラインのトークが表示されている。戸惑いつつも覗いてみれば、『彼女連れて食べにおいでー』なんて文面が表示されていた。 「ねえ莉緒」 「うん?」 「俺の恩師に会いたくない?」 「おんし……?」 「そ。俺が高校生の時の、担任の先生」 「……え! 先生の先生!?」 予想だにしていなかった誘いに目を見開く。 私の言い回しが面白かったのか、千春くんが小さく吹き出した。 「そう。もう教師は辞めてるんだけど、近くで奥さんと一緒にお店やってるんだ。俺もよく行くんだけど、莉緒のこと話したら会ってみたいって言ってたから。昼食がてら、どうかな」 「わあ、私も会ってみたいです!」 「じゃあ決まり」 千春くんの指が、画面を滑る。先生の先生さんに返信してるみたい。まさかのお誘いに、私の気分も一気に浮上してしまった。だって、千春くんが教師を志した理由のひとつでもある人に、こんな形で会えるなんて夢にも思っていなかったんです。 前に、1度だけ聞いたことがある。 高校生だった頃、千春くんは当時の先生達に憧れていた時期があったんだって。 千春くんの過去の話になるけど、彼は幼い頃、施設で暮らしていたらしい。けれど施設の先生達が、正直あまりいい人達ではなかったようで、苦しい生活を虐げられていたと聞いた。 その詳細を、私は知らない。 千春くんがどんな子供で、千春くんの両親がどんな人なのか、どんな家庭環境で育ったのか。千春くんは話したがらないから何も知らない。 気にはなるけれど、過去の話をすることで千春くんがしんどくなるなら、一生聞けなくても私は構わなかった。 そんな千春くんが唯一、話してくれたこと。 高校に進学して、そこで出会った先生達に心を救われたという話。 勉強以外にもたくさんのことを教わって、初めて信用できた大人が高校の先生達だったこと。当時の先生達にたくさん影響を受けて、今の千春くんがあるんだと知った。 千春くんが教師を目指したのは、もともと教師になりたかった訳じゃない。自分を救ってくれた先生達がどんな風に先生になったのか、知りたかったんだって以前話してくれた。 そして今日会えるのは、幼かった千春くんを救ってくれた先生なんだ。 「千春くん、今でも高校の先生と連絡取り合ってるの?」 「うん。高校の同窓会で再会した時に、先生と連絡先交換したんだよ。だから、結構付き合いは長いかな。あ、安心してね。ちゃんと男の先生だから」 「う? うん」 「ちなみに今日会うのは、高校2年と3年の時に担任だった人」 「え、じゃあ高校生の頃の千春くんのお話聞けるかな?」 「恥ずかしいからあまり聞かないであげて」 全然恥ずかしそうな素振りもなく、千春くんはにこやかに笑った。 トップページ |