小林断截ダンサイワークス スリップメモブロック
2017/01/15 20:00


 凡庸な大衆に支配者たる資格なし、エリートに善導されるべし、と大衆を批判したエリート主義的な本。原著1930年。著者はスペインの哲学者。
 大衆批判といっても民主制や議会制を否定せず、どころか強力に擁護し、エリート主義といっても階級社会を復古しようとするものではなく、無目的に生きてはいかん、目的を掲げて生きれば「真の貴族」と呼べる、しかし愛国など国家を窒息させるだけで目的にするものではない、という本です。

 この人の国家観がおもしろくて、国民国家は血縁や家族主義や民族主義では成立せず、目的や目標を共有できるなら、血縁も民族も言語の壁も国境さえも超えて国家が成立し、それが国民国家である、という国家観。
 そして、その目的や目標がエリート層から大衆に与えられる、というんですけど、政治指導者から目的を与えられるようでは、独裁制と大して変わりません。著者は当時台頭していたファシズムやソ連的社会主義を厳しく批判しているのに、それらと混同されるような主張をするので困惑します。
たぶん著者が言う「真の貴族」というエリートは政治指導者ではない、少なくともそれに限られないようなんですが、読者によって捉え方が変わるんじゃないでしょうか。

「実のところ、禁衛兵組織をもって支配を行なうことはできない。だからこそ、タレイランはナポレオンに対して、「陛下、銃剣をもってすれば何事も可能ですが、ただ一つ不可能なことがあります。それは、その上に安座することです」と言上しているのである。支配とは、他から力を奪い取る態度ではなく、力の静かな行使なのである。要するに、支配とはすわることなのである。(中略)支配とは、握り拳の問題であるよりも、むしろお尻の問題である。国家(ステート)とは、つまるところ世論の状態(ステート)、一つの均衡状態、静態なのである。」p182 - 183

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「国家が協同事業の計画であるならば、その実体は純粋にダイナミックなものであり、一つの行為、行動における協同であるはずである。この観点に立てば、事業に加わるものはすべて国家の能動的な一部であり、政治的な主体である。そして種族、血、地理上の位置、社会階級などは二義的なものとなってしまう。政治的な共同生活を正当化するのは、けっして既存の、したがって過去に属する慣例的な、あるいは大昔からの共同体──つまるところ宿命的というか改革不可能な共同体──ではなく、現実の行為における未来の共同体なのである。われわれが昨日こうであったということではなく、われわれが一緒になって明日やろうとすることが、われわれを統合し国家たらしめる。」p245
「ロマン主義的な解釈は、国民国家を推進形成する力と国民国家を単に強化維持する力とを混同している(中略)はっきりいってしまえば、国民国家を形成したのは愛国心ではないのである。」p249
「国家はあらゆる自然的な社会の超克であり、混血的で多言語的なものなのである。」p221
静的な構成要素だけでは国民国家は衰退するから動的な目標(現在はもっぱら経済指標)を掲げるのです。

「人々は、人間とは、好むと好まざるとにかかわらずその本質上自分より優れたものによる示唆を求めざるをえない存在(中略)もしかかる示唆を自分で発見できることごできた人があれば、それが優れた人、選ばれたる人であり、もし自分で発見できないならば、それはとりもなおさず大衆人であるということであり、選ばれたる人から示唆を受ける必要があるのである。」p164
「支配とは一つの意見の、したがって一つの精神の優位を意味することであり、支配権力とはつまるところ精神力以外の何ものでもないということに気づくのである。そして歴史的事実がこのことを明確に証明している。原始時代の支配権はすべて「神聖な」性格をもっていた。それは支配権が宗教的なものに基礎を置いていたからだが、この宗教的なものこそ、後に精神、理念、思想となるもの、つまり、非物質的で形而上的なものをつねにその背後にもっている最初の形式なのである。」p183 - 184
たとえそれが仮想であっても、その意見(思想や概念)を人々が信ずることによって社会が成り立つというわけです。近代になって宗教と権力が分離し始めましたが、宗教は権力を正当化し社会を階層化するための方便でもありました。神を信じる、ということは権力と体制を信じることに他ならなかったのです。

「しかし意見の支配力とはいったいどう解説したらよいのであろうか。大多数の人間は意見をもっておらず、彼らには、潤滑油を機械に注入するように、意見も圧力をかけて外から注入されねばならないのである。だからこそ、精神が──それがいかなる種類のものであろうとも──権力をもち、意見なき人々──しかもそれが大多数である──が意見をもつようその権力を行使しなくてはならないのである。意見なくしては、人間の共存は混乱に終わるであろう。(中略)精神的支配権力がない場合は、すなわち、誰か命令を下す者がいない場合は、それが欠ける度合いに比例して、人類は混乱の支配下に下ることとなるのである。」p185

その意見を注入できるのが欧州であり、その支配者たる欧州が没落することを彼は嘆きます。
「歴史を形成してきた人類のエリートである偉大な創造的民族に対して断乎として反抗しようとする「大衆民族」も存在するのである。これあるいはあれといった小さな共和国が、世界の片隅から爪先立ってヨーロッパを譴責し、その世界史上の職を免職にすると宣言している姿は、まったく滑稽そのものである。
 結果はどうであろうか。ヨーロッパは一つの規範体系を創造した。そしてその有効性と生産性はこの数世紀間に証明されてきた。しかしその規範はけっして最良のものではないし、それにはほど遠いものである。しかし、他の規範が存在するか出現するかするまでは、これが決定的なものであることは疑いのないところである。ヨーロッパが創造した規範を超克するためには、新しい規範を生み出すことが不可欠である。ところが、大衆民族はその規範体系、つまり、ヨーロッパ文明を無効と宣することに決めはしたが、別の体系を創造する能力がないので、何をすべきかを知らず、ただ時間をつぶすために夢中でとび跳ねているのである。」p192 - 193
これは植民地政策を正当化する主張でもあります。未開地域を教導する欧州人のすべてが優れた人格者で労働搾取や資源収奪や人身売買をしていなかったのか、といえばそうではありませんでした。民族自決を掲げる民族主義が台頭したのは植民地政策が過酷だったからです。
その欧州に反逆した者として、日本で最も有名なのが大日本帝国なんですが、その日帝が大東亜戦争を始めてから「近代の超克」と称して欧米に代わる規範を示そうとしたけれども、実態が軍政だったり間接統治だったり日本人が一等国民だったりして欧米と変わらず、戦勝したとしても大東亜共栄圏はたんなる植民地主義に終始したでしょう。敗戦したからこそ、日帝が欧米列強へのカウンターという「ケガの功名」を獲得したのでした。ちなみに欧州列強への反逆者は日帝が最初ではありません。少なくとも清国がアロー戦争とアヘン戦争そして清仏戦争をやっています。

 かように欧州を高く持ち上げて讃えながらも、著者は自国民を手厳しく批判し「スペイン民族に何を期待しても無駄といわざるをえない」p202 - 203とまで書いているのが、なんというかル・ボンみたいですね。

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