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うだるような暑さ、蜃気楼でゆらめく風景。
そんな道を歩く色白の少女、カノンは憂鬱そうにため息を吐いていた。
ジリジリと肌を焼く日差しに照らされて、額にじわりと浮かんだ汗。彼女はそれを鬱陶しそうにハンカチで拭った。
カノンの隣を歩くのは、ホグワーツで魔法薬学の教鞭をとっているセブルス・スネイプだ。
普段、恩師として彼を敬っているカノンだが、今日に限っては彼に向ける視線が幾分冷ややかだ。
「あの、教授」
「何だね」
呟くような小さな声だったが、スネイプはしっかりとキャッチする。
変わらず正面を見据えながら声だけで応えた。
「ずっとお聞きしようか迷ってたんですけど・・・暑くないんですか?」
「ご心配には及ばん」
横目でスネイプをチラチラ盗み見ながら、カノンが問いかけると、スネイプはいつもと変わらぬ涼しい表情で返した。
しかし、カノンはその一言だけでは納得しなかったらしい。
それもそのはず。7月下旬の暑さの中で、この男は首元までピッチリと覆われた厚手のローブを着用しているのだから。
「だって長袖だし・・・詰襟だし・・・熱中症になりますよ? 知ってます? あまりの暑さに倒れちゃうんです」
「冷気呪文を応用すれば、常に秋口の気温に包まれる事ができる」
「へぇ・・・」
何となしに、スネイプの体の近くへと手を伸ばすカノン。
すると、ぬるりと暑かった空気が、彼の服に触れる寸前になるとひやりとした涼しいものに変わった。
「教授」
「何だね」
「私に対する愛情が感じられません」
涼し気なスネイプとは反対に汗をかきながら歩くカノンは、不服そうにそう言ってのける。
そんなに良い魔法があるのならば私にかけてくれてもいいじゃないか。そんな感情が見て取れるようだ。
だが、スネイプはしれっと「冷えは万病の元、と聞く」とだけ返した。
「物は言いようですね」
「そう膨れるな」
「はぁい。ところで、まだ歩くんですか? もう1時間は歩かされている気がするんですけど」
カノンがそう言った数秒後、スネイプは突然その場に立ち止まる。
「ここだ。この黒い木を覚えておきなさい」
「この木ですか?」
街路樹が立ち並ぶ道。その中で一本だけ、不自然に色が濃い木があった。
葉の色は他の木と同じなのに、幹の色だけ違うそれにスネイプが指を這わせながら言う。
「”蛇の紋を“」
「え?」
「合言葉だ」
スネイプが木の幹から指を離すと、目の前の木がミシミシと音を立て始める。
一歩後ずさって様子を伺うカノンは、木の幹がぱっくりと二つに裂けたのを見て「うわぁ」と声を上げた。
「入りたまえ」
「あ・・・ああー、ダイアゴン横丁とか、9と4分の3番線みたいな仕掛けなんですね!」
「その通り。進みなさい、一帯にマグル除け呪文は施してあるが、あまり見られたくはない」
カノンは恐る恐る木の裂け目をくぐる。
大人一人が余裕をもってくぐれそうな裂け目だったが、彼女の後ろに続いたスネイプが枝にローブを引っかけていた。が、幸いにも前を見ていたカノンには伝わらなかったようだ。
木の裂け目を抜けると、目の前には舗装された道路ではなく、広大な森と整備された庭が広がっていた。
澄み切った空から降り注ぐ太陽の光を受け、木々や芝が瑞々しく光り輝いている。
ホグワーツの禁じられた森とは違い、森の中までキラキラとした木漏れ日が地面を照らしているようだ。
スネイプの先導に付いていくカノンは、次にとある建築物を見つけた。
森の影に隠れていたその建物は、近づくにつれてその大きさに圧倒されるようなものだった。
その屋敷は、黒い石造りだ。左右対称にデザインされており、屋根は深い緑色をしている。
一見すると暗い色合いなのだが、陽の光がさんさんと降る土地に建てられているおかげか、鬱蒼とした印象は全く見られない。
更に近づいていくと、長めに切りそろえられていた芝生が短くなり、ところどころに白い石畳のタイルが埋められている。
美しく整えられた庭は色とりどりの花が咲き誇っており、カノンが今まで見たことのないほどの素晴らしいイングリッシュ・ガーデンだ。
「さて、説明だが。ここは君の生家だ、カノン」
「わ、私の? 私に家があったんですか?」
彼女が狼狽えるのも無理はない。彼女は物心ついた時から児童養護施設で育ち、11歳になってからは聖マンゴで過ごしてきたのだから。
自分に帰る家などないと思っていたカノンは、その赤い両目をパチパチと瞬かせた。
「先代の当主が亡くなってから、相続権の行き先が不明だった場所だ。君の生家だが、現当主の所在がわからないまま放置されていた」
「現当主・・・私、ですよね」
「無論。ホグワーツ同様に姿現しが使えない上に、呪文探知不可術をはじめとするあらゆる保護魔法がかけられている」
「ということは、夏休み中も魔法使いたい放題・・・」
そう呟いたカノンはハッとしてスネイプの顔を見る。ホグワーツの教授である彼の前であまり望ましくはない一言だったが、スネイプは「聞かなかったことにしておこう」と流した。
いくら魔法が使えるとはいえ、カノンが下手なことをするとは思っていないのだろう。
それよりも森の中が気になっているカノンに、スネイプはひとつため息をついた。
「この森の中は環境が恵まれている。珍しい薬草や魔法生物も生息している・・・が、まずは屋敷に入るぞ」
「はぁい!」
スネイプの後に続き、促されるままに銀色のドアノブへ手をかけるカノン。
そして、深く深呼吸してからその扉を開け放った。
扉の向こう側は、広々としたエントランスが広がっていた。
薄くグレーがかった大理石がピカピカと輝くその空間は、カノンとスネイプの足音が響き渡るほどに静かだ。
天井からぶら下がる、クリスタルが今にも降り注ぎそうなほど豪華なシャンデリアがきらめいている。
黒く美しいデザインの調度品がそこかしこに設置され、エントランスの真ん中には庭から摘んだであろう大輪の薔薇が芳しい香りをこれでもかと放っていた。
そして、感極まってため息しか出すことのできなかったカノンは、小さな小さな声で「ただいま・・・」と呟く。
今まで「自宅」や「家族」と無縁だった名カノンにとって、その言葉を生まれて初めて口に出すことができた瞬間だった。
不思議と、この屋敷が自分を迎え入れてくれているような。そんな感覚が彼女を包み込んでいた。
「以前訪れたことがあるが・・・随分様変わりしたものだ」
「教授、来たことがあるんですか?」
「・・・ああ、前当主の時代だが」
あまり多く語ろうとしないスネイプに、カノンは小さく首を傾げる。
だが、二人が沈黙したその瞬間にどこからか甲高い声が響き渡った。
「お帰りなさいませ! お嬢様!!」
びくりと肩を揺らしたカノンがキョロキョロとあたりを見回すと、目の前に妙な生き物が姿を現した。
カノンの膝くらいの身長で、肌は薄茶、小さい顔の両脇にはぱたぱたと動く大きな耳。
小さな鼻はちょこんと顔の真ん中についており、瞳は大きく、そして美しいアメジスト色だった。
カノンと違い、落ち着いた様子のスネイプ。以前訪れたことがあると言っていた彼は、この生き物とも面識があるようだ。
「この邸宅に仕える屋敷しもべ妖精のトゥーランドだ」
「セブルス・スネイプ様、お久しぶりでございます。お嬢様、お紹介にあずかりました! わたくしトゥーランドと申します、トゥーラとお呼び下さいまし!」
スネイプがカノンに呟いた言葉を追うようにして、しもべ妖精のトゥーラが自己紹介をした。
カノンは本で"屋敷しもべ妖精"という存在を知ってはいたが、トゥーラの姿を見て目を瞬かせた。
「ええと、初めましてトゥーラ。私はカノン・マルディーニ。失礼だけど君は、よく見るしもべ妖精のような・・・その、ボロ布を着ているわけじゃないんだね」
以前文献で見た姿とは全く違い、目の前のしもべ妖精・・・トゥーラは洋服を着ていた。
それも、小さなしもべ妖精の体にピッタリなサイズの洋服なのだ。
カノンがじっと見つめていると、トゥーラは「えっへん」とでも言うように胸を張って言った。
「わたくしめは思うのです! あの格好は服従の証と言いますが、ご主人様を不快にするような汚らしい恰好はするべきではないと!」
しもべ妖精界ではきっと、彼女のこの発言は革命めいた一言なのだろう。
この屋敷しもべ妖精は不思議なことに、魔法使いの家に仕えるのが何よりの名誉であり、賃金を貰うことは不名誉であると考える種族なのだ。
服など身に着けるものを与えるということは、その屋敷しもべ妖精を自由にする。と言えば聞こえはいいが、大抵の場合は人間界で言うところの「解雇処分」に当たる。
「わたくしめはご主人様に、お賃金を頂いております! そこから布と糸とリボンを買って、自分で作るのです! ご主人様から服を頂くことはできませんが、これならわたくしめも服を着ることができるのです!」
「はあぁー、賢いね」
「初めて見た時は驚きもしたが・・・まあ、しもべ妖精としてはこれ以上ない程に優秀だ」
揃って肯定的な反応を見せるカノンとスネイプに、トゥーラは嬉しそうに耳をパタパタとさせる。
しもべ妖精サイズのエプロンに付いた白いリボンも、同じように動きに合わせて揺れた。
エントランスで立ち話をするのもほどほどに、カノンたちは応接間へと向かった。
ふかふかと座り心地のよいグレーのソファに2人が腰かけると、トゥーラが迅速にお茶とお菓子を用意する。
香りのよい紅茶とオレンジピールやナッツがたっぷり入ったパウンドケーキにカノンが舌鼓を打っていると、ふいにスネイプが語り始める。
「・・・さて、話を始めるとしよう。先程も話したと思うが、ここはマルディーニ家の邸宅であり、今は君の資産だ。君の伯父である先代当主"アレクセイ・マルディーニ"が13年前に死去して以来、魔法省も相続人の行方が掴めないでいた」
「あの、先代ってどんな人だったんですか?」
カノンが身を乗り出して訊くと、スネイプが応えるよりも早くトゥーラが口を開いた。
「先代のご主人様は、それはもうお優しく聡明で、尚且つ威厳に満ちた方でした! ご本人にお会い頂くのが一番手っ取り早くお分かりいただけます!」
「会う?」
トゥーラはパチン、と指を打ち、小気味良い音を鳴らす。
すると、すっきりと開いていた白い壁に一枚の額縁が現れた。
カノンは「ああ、ホグワーツにあるような喋る絵画かぁ」と頭の中で思い、その絵画に描かれた青年を見つめた。
優し気に微笑んだその青年は、カノンと同じ赤い瞳をしていた。
すっと通った鼻筋、薄いが形の良い唇、すっきりとした輪郭、と恐ろしいほどに整った顔立ちをしている。
濃灰色の髪はさらりとしていて、つい触れたくなるような艶がある。
「どうしたんだいトゥーラ、今ちょうど珍しい鳥が飛んでいるのを見てたんだが・・・」
優し気な風貌をそのまま表したかのような声色で言う彼は、スネイプを見て嬉しそうに笑顔をこぼす。
「おや! セブルス君じゃないか、元気かい?」
「お久しぶりです、Mr.アレクセイ。私はこの通り上々といった所ですな」
「それは何より。失礼、そちらの美しいお嬢さんはどちら様かな?」
スネイプとにこやかに挨拶を交わしていたアレクセイが、カノンに視線を移す。
「ご紹介が遅れましたな。カノン・マルディーニ、貴方の姪にあたる、この屋敷の正当な後継者です」
スネイプがさらりと言うと、今まで微笑んでいたアレクセイがすっと両目を見開く。
その赤い瞳でカノンの顔を見つめ、そしてふわりと嬉しそうに笑った。
「なんという幸運だろう・・・!」
顔を綻ばせたアレクセイは、カノンに「もっとよく顔を見せておくれ」と呼びかける。
カノンが席を立ち絵画の前まで進み出ると、彼女の風貌に一族の面影を見たのだろう。アレクセイが感嘆の息を吐いた。
「驚いた、てっきり僕たちと共に命を絶たれてしまったのかとばかり・・・小さなカノン、僕やキーラの宝がまだ生きていてくれたなんて、誰が思っただろうか」
「キーラ?」
「ああ、そうだよカノン。キーラは僕の妹・・・つまり、君の母親だ」
聞き慣れない名前を聞き返してみれば、さらりとそう返される。
母親。今まで何度訪ねようと、ダンブルドアもスネイプもマクゴナガルも口にしなかった、その名前。
「どんな人なの? 私の母親って」
「とても美しい妹だったよ。頭脳はそれほど聡明でなかったけれど、それを補って余りあるほどにね。兄の欲目もあるかもしれないけれど、愛嬌もあったから愛されて育ったね」
生まれて初めて語られる、自分の肉親のこと。
カノンは震える手を握りしめながら、恐る恐る「じゃあ・・・私の父親の事は、ご存じですか?」と問いかけた。
「もちろんだとも。義弟だからね」
「Mr.アレクセイ。その件に関しては、ダンブルドアが『聞かせるべきではない』と」
突然割って入ったスネイプの一言。カノンが振り向くと、スネイプは無表情のままカノンを見つめていた。
「教授、私、取り乱したりしません」
「わかっている。だが、君の父親は闇の魔法使いであると疑われている人物だった。万が一にもその後を追いかけぬように、と校長が判断されたのだ」
「まさか、あの、ヴォルデモート卿・・・とか」
真っ青な顔で心配そうに問いかけるカノンに、スネイプは別の意味合いでため息を吐く。
そして、彼女を安心させるかのようにきっぱりと首を横に振った。
「それは無い。安心したまえ」
「ははは、あの鼻持ちならない混ざり者を我が血筋に迎え入れるような真似は、いくら最愛の妹とはいえ僕が許しはしないよ」
先ほどまで柔らかく暖かかった瞳を鋭く細めながら、そう告げるアレクセイ。
「わあ、実家が純血主義だった・・・」
そう呟くカノンに、アレクセイはころりと表情を変えて笑い声を上げる。
「いやいや、別に僕はマグル生まれが嫌いなわけじゃないよ。混血だって才覚ある人物ならば諸手を挙げて迎え入れるべきだと思う。純血なら良いに越したことは無いけれど・・・我がスリザリン家を更に強くするためならば、それも手段の一つだ」
彼は最後に「子を為せなかった僕が言える立場じゃないんだけどね」と付け加えて口を閉じた。
「ええと、じゃあ、私はヴォルデモート卿の実子とかではないんですね」
「ああ、それは僕が血統にかけて保証するよ。」
「それが分かっただけでも大きな収穫です」
ほっと息を吐いたカノンは、安心してソファに座り込む。
「学校で、皆が苦戦している呪文も簡単にできてしまうので・・・てっきりそのくらい魔力の強い人の子供なのかと、時々悩んでいたんです」
「斬新でネガティブな自意識過剰思考だな」
カノンの悩み事をスッパリと切り捨てるスネイプに、彼女は「へへ」と照れ笑いを返す。
「おやおや、僕の可愛い姪っ子は美しいだけじゃなく才能にも恵まれているようだね」
「伯父様、私、変身術と魔法薬学は学年でトップなの。他の教科は拮抗している子がいるけど・・・」
「素晴らしい! ではセブルス、スリザリン寮の次期監督生は彼女かな?」
「寮監として、優秀な生徒に監督生の任を与えなくては、とは思っております」
アレクセイとスネイプが繰り広げる親馬鹿トークに、カノンは少しだけ恥ずかしさを感じつつも、小さな声で「教授。私、監督生は嫌です」とそっと抵抗した。
その抵抗が聞こえたかどうかはわからないが、スネイプにそれを聞き入れるつもりは無さそうに見えた。