8
次の日。カノンが起床すると、既に厨房には未成年の魔法使いたち全員が降りてきていた。
扉から姿をのぞかせたカノンに最初に気づいたのは、いそいそと動き回っているモリーだ。朝から明るい表情で、彼女へと声を掛けた。
「ああ、カノン。昨日はお夕飯を食べずに寝てしまったのね? お腹が空いたでしょう」
「おはようございます、モリーおばさま。昨日はすみませんでした」
「いいのよ! 偶にはあれくらいの文句は言うべきだわ。さ、テーブルに朝ご飯を用意してあるからお食べなさい」
モリーはにこにこと笑いながらカノンの背中を押す。
カノンはモリーに導かれるがままにハリーの隣に腰かけた。
すると数席離れた場所に座っていたジニーが、すぐさまカノンの反対側に移動してきた。
「おはよう、カノン!」
「おはようジニー。昨日はよく眠れた?」
「ぜーんぜん!」
トーストにジャムを塗りながらカノンが聞くと、ジニーは大げさなほどに肩を竦めてみせた。
「だろうと思ってた」
「そうだ、カノン。ちょっといいかしら?」
モリーに名前を呼ばれたカノンは、ジニーとの談笑を止めた。
「はい」
「今日ね、部屋中をお掃除したいと思っているのだけれど…良かったらあなたも参加してもらえないかしら。もちろん無理にってわけじゃ無いのよ」
遠慮がちに言うモリーだったが、カノンはその申し出をすぐに快諾した。
「ええ、是非手伝わせてください」
「良かった。あなたは博識だから、性質の悪い道具を片付ける時には頼りになるってリーマスに聞いたのよ」
「ママ!」
モリーがぽろりと零したその一言に、ジニーを始めとする皆がカノンへと視線を向ける。
だがカノン本人は、一晩寝て気持ちが落ち着いたのだろう。さして気にする様子もなく、スクランブルエッグを皿に取った。
「ええ、スネイプ教授やリーマスに、色々な対処法を教えて頂きました」
笑いながらカノンが言うと、モリーもハリー達もホッとした表情で息を吐いた。
「ああ、そうなのね。その勤勉さを見習わせたいわ」
いつもの調子に戻ったモリーが、厳しい目でロンやフレッド、ジョージを見た。
彼等はいつもの通り、何気ない顔で視線を逸らすだけだった。
朝食を食べ始めてから30分ほど経った頃だろう。
先ずは午前中にドクシーの駆除をしてしまおうと言い出したモリーの言葉に従い、ハリー達は2階にある汚い客間へと向かっていた。
ドクシーの駆除には体力が居るので、カノンは午後の大掃除から加わる事になった。
シンと静まり返った厨房内で、彼女は冷えたチョコレートミルクを飲んでいる。
その片手には、つい今しがた受け取ったばかりの『特別若年魔法薬調合士試験』の試験日を通達する手紙が握られていた。
試験日は8月12日の午前8:00から…奇しくも、ハリーの懲戒尋問と同じ日にちだった。
カノンはその手紙を畳んでポケットに仕舞い、もう一口チョコレートミルクを飲んだ。
すると玄関ホールから続く扉から、一人の男性が姿を現した。
「ああ、良い香りだ。モリー、チョコレートがあったら私にも分けてもらえるか、い」
扉の向こうから現れた男性…リーマスは、カノンの姿を見て思わず動きを止める。カノンも驚いた顔のまま、リーマスを見つめた。
「あ、やあ、良い朝だね」
「おはよう、リーマス」
ぎこちなく挨拶を交わす2人。
リーマスが席に着くと同時に、カノンがその場から立ち上がる。
厨房の奥へと消えていく彼女の後ろ姿を見て、リーマスは悲しそうにため息を吐いた。
だが彼の表情とは反対に、カノンはけろりとした顔でテーブルまで戻ってきた。
その手には新しいチョコレートミルクが入ったグラス、そしてトーストとソーセージの乗ったお皿がある。
カノンはリーマスの前にそれらを置くと、隣の椅子に座った。
「はい、チョコレートミルク。それから、朝ご飯も」
「…ありがとう、美味しそうだ」
リーマスはおずおずとだったが、笑ってそれを受け取った。
「昨日のこと、ごめんなさい」
「うん?」
「もう一度、ちゃんと謝っておきたかったの」
小さな声で呟くカノン。リーマスは何度か目をぱちくりとさせたが、次第に表情を柔らかくさせた。
「いや、謝るべきなのは私の方だよ。君の気持ちも知らず、勝手な事を言ってしまったね。私やシリウスの見ていない所で、そんなプレッシャーをかけられていたなんて」
「でも、わからなくもないよ。騎士団員の中には、ヴォルデモートに家族や仲間を奪われた人が沢山いるんでしょ。そんな中に私みたいなのが入り込んで来たら、疑心暗鬼にもなるよ。頭を冷やしたら、そういう考え方もできるようになってきた」
「そうか…だが、君が我慢を続ける事は無いよ」
俯いて小さく喋るカノンの頭を、リーマスが優しく撫でる。
彼の声は既にぎこちなさが消え去っており、いつも通りの優しく柔らかいものに戻っていた。
「うん。今度からは相談より先に、愚痴を言いに行くよ。泣いて全部吐き出しちゃえばスッキリするってこと、覚えたから」
今度は不自然さの無い、にっこりと可愛らしい笑顔を浮かべたカノン。
リーマスはその笑顔を見て、安心のため息を吐いた。
だが次の瞬間には、目を見開いて彼女の言葉を復唱した。
「え…泣くことを覚えたって、もしかして、昨日あの後…泣い…」
リーマスが考えていることは凡そ予想がつく。
昨日の言い合いで厨房を立ち去ったカノンは、一人部屋で泣いていたのだと。この傷心の少女を、自分が泣かせてしまったのだと。
その見当違いの想像に気づいたカノンは、あたふたと否定した。
「や、そうじゃないよ! 昨日は全然泣いてない! この間シリウスに」
「シリウスに!? 乱暴されたのかい!?」
「されてない!」
全てを説明し終わる頃には、もうすぐ昼食の時間が差し迫ろうという時間帯だった。
シリウスに謂れの無い誤解を被せてしまうところだった。とカノンは人知れず冷や汗を流した。
***
お昼を告げる時計の音がなってから、しばらく過ぎた。
未だドクシー退治から戻らないモリーの代わりに、カノンは軽い昼食を用意していた。
ダイニングテーブルの上には、出来立てのサンドイッチやチップス、サラダなどが鎮座している。
カノンがそれらを眺め、満足げな表情で息を吐いたその時、クタクタに疲れた顔をしたモリーが厨房に入ってきた。
モリーはこれから食事の支度をするつもりだったのだろう。彼女はテーブルの上に並んだ料理を見て、目を丸くした。
「あら…まあまあ!」
「すいません、余計な事かもしれませんが…忙しそうだったので、用意しておきました」
「余計だなんてとんでもない! 本当に助かるわ!」
「おばさまほど上手く作れませんけど、皆が働いている時に自分だけ寛いでいるのも気が引けてしまって」
カノンが照れながらそう言うと、モリーはニッコリと優しく笑って彼女の肩を叩いた。
「十分上手よ。将来素敵なお嫁さんになるわね」
そう言われたカノンは、嬉しそうに笑顔を浮かべた。
「さあ! 向こうの部屋に持って行って一緒に食べましょうね」
「はい」
2人は分担して料理を持ち上げ、掃除途中の客間へと運んだ。
「あれ? 早かったね、ママ」
「もうできたの?」
早々に戻ってきたモリーを見て、ロンとジニーが問いかける。
食事を用意すると言って出て行った彼女が、10分立たないうちに大皿を抱えて戻ってきたのだ。彼らが首を傾げるのも無理はない。
「いいえ、今日のお昼はカノンが用意しておいてくれたのよ」
「カノンが? 私、カノンのお菓子大好きなの! きっとご飯も美味しいわね!」
最初に食いついたのはジニーだった。
昨日食べた彼女のタルトが忘れられなかったのだろう。
ハリーもカノンお手製ケーキが記憶に新しいせいか、嬉しそうに頬を綻ばせている。
だがここで空気を壊すのが、ロン・ウィーズリーという男だった。
恐る恐る料理を見ながら、カノンへと問いかけた。
「これ…変なの入ってないよね? コガネムシの目玉とか、レタス喰い虫とか」
「ロン! 失礼よ、その言い方!」
ハーマイオニーが咎めるような目でロンを見る。
カノンはロンの口ぶりにそろそろ慣れて来たのか、ニヤリと余裕の笑みを浮かべた。
「勿論そんなの物は入ってないけど、ご所望なら調合してあげるよ? 一口食べれば三日三晩笑い続けるビスケットとか、元気が出るかも」
「ぼ、僕もう十分元気だから、こっちの普通のサンドイッチがいい」
「それなら、午後の働きに期待大ね?」
してやったりといった顔のモリーがそういうと、ロンは顔を引きつらせた。
要らないことを口にして、余計な手間を自ら作る。彼はそういう事が大得意なようだ。
しまった! という表情をするロンの隣では、フレッドとジョージがけらけらと笑いこけていた。